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デジカメ持って小旅行「成田山新勝寺」

2009-11-19 12:38:38 | 旅行

 以前二度ほど正月松の内に参詣したことがあるが、お寺に興味を持って訪れたのは初めてだ。いつもお寺めぐりは、車で三、四ヶ所走り回る。今回は電車でのんびりと行くことにした。自宅から1時間もあれば着く距離にあるのと参道をぶらぶらとしたくもあった。
 ウィークデイの電車は、がら空きで空気を運んでいるのかと思うほど、私たちを運ぶJRが気の毒になる。それでも田園の中、コトコトと規則的な車輪の音を響かせて走るのは、何かけなげに思われてくる。あなた任せの小さな旅も、それなりに楽しいものだ。
         
          新勝寺への門前街
 午前10時半には成田駅に着いていた。うす曇で寒くなると言っていたのが、穏やかで時折薄日も差すこともある。新勝寺へは、駅前から左に折れてカラー舗装の道の両側に商店が並ぶ門前街を10分ほど歩けば着く。どうやらこの商店街、観光に力を入れているらしく、建物などを一新した気配がある。
 車やバスが行き交う商店街を、ぶらぶらと見物しながら歩く。地元特産の漬物や落花生を売る店、土産店、うなぎの店、飲食店などが建ち並ぶ。だらだらと勾配のゆるい坂を下ると新勝寺の総門が現れる。
         
          総 門
 この総門は、開基1070年記念事業として2006年に竣工した。高さ15メートルの総欅造りで金色に輝く、ちょっと派手な構えだ。以前の門は、インターネットの古い画像では、ただ成田山の看板が掲げられているだけだった。かなり派手になった。
         
          仁 王 門
              
               吽形仁王像
              
               阿形仁王像
            
            多 聞 天
            
            広 目 天
 総門の奥の仁王門は年代を感じさせる佇まいだ。とはいっても、文政3年(1830年)建立のまま今日までというわけでもない。何度かの修復がなされている。
 仁王門には仁王像がつき物だが、ここには表の左側吽形、蜜迹金剛(みっしゃくこんごう)と右側阿形、那羅延金剛(ならえんこんごう)の二体と裏側に福徳を授ける多聞天(たもんてん)、右側には、仏心を起こさせる広目天(こうもくてん)が安置されている。
 仁王門の表裏に像が安置されているのを見るのは珍しい。私の経験では、日光中禅寺湖にある中禅寺のほかは知らない。そしてこの仁王門は、江戸時代末期の特色を色濃く残した建物だという。
        
         本 堂
           
           本堂の中を読経が流れる
 仁王門からまっすぐ階段を上ると本堂、三重塔、一切経堂などがある広い伽藍に着く。参拝者や観光客も多く見かける。どこの国からなのか耳慣れない言葉に一人の男に聞くと、タイからだと言っていた。賑やかな連中だった。
           
           三 重 塔
           
           板軒は華麗な極彩色で修復されている
 一見の価値があるのは三重塔だ。正徳2年(1712年)建立で、度重なる修復を経て今見る塔は、昭和58年(1983年)の修復になるもの。この工事は、漆塗・彩色工事を主体としたもので,享和3年(1803年)の古文書による漆塗・彩色の仕様をもとに復元されたという。享和3年当時にこだわって作り上げたと思うと、この鮮やかな板軒の極彩色に、当時の技術の高さにも驚き堪能する。
 この板軒の鮮やかさに連想するのは、洒落男の身だしなみだ。洒落者はスーツの裏地に赤やピンクを使ったりする。この洒落者のやり方は、江戸時代の男と共通する。江戸時代の洒落男は、着物の裏地に春画を使ったというのをどこかで読んだ気がする。三重塔の板軒を眺めながら、低俗な連想でしばらく楽しんだ。
            
            深山幽谷も味わえる
            
            
 本堂からの裏をたどると、額堂、光明堂を経て成田山公園を散策することになる。ちょうど紅葉の身頃を迎えていて、外国人を含めた観光客や中高年のカメラ・マニアを多く見かけた。成田は、成田空港の関係で外国人、欧米系が増えたようだ。帰路駅前で、昼食を摂った。妻はきのこスパゲッティと小生ビール、わたしはタンドリーチキンとジョッキの生ビール。歩いたせいか冷たいビールが美味しかった。
            
            昼食をとったお店にあったオールドファッションな
            コカコーラのポスター

ドン・ウィンズロウ「カリフォルニアの炎」

2009-11-12 11:24:32 | 読書

            
 サーファーで火災査定人ジャック・ウェイド。出勤前に ボードもろとも大波に飲み込まれ何とか波間に顔を出し、生きている実感を味わう大男。
 帰化したロシア人でマフィアの元締めニッキー・ヴェイルの豪邸が焼け落ちる。ジャックが調べていくと放火と殺人の疑い濃厚。気がつけばジャックは、とんでもない大きな罠に飲み込まれていた。
 さて、この窮地をいかに逃れるか。題名のカリフォルニアの炎が最後に燃え盛り、ジャックと恋人の保安局捜査官レティ・デル・リオともども脱出に成功する。ジャックはダッシュ・ボードにテープを押し込んだ。流れて来るのは、サーファーお気に入りのディック・デイル&デル・トーンズの曲。
Misirlouという曲をどうぞ
 四分の三は、ジャックの調査やジャックとレティの愛の行為、ニッキーのあれこれに費やされ、エンディングにかけて壮烈なヴァイオレンスが待っていた。
 私はこのごろミステリーに少々食傷気味であまり楽しめない。この本もどちらかといえば、印象に残らない部類に入る。
 ドン・ウィンズロウは、ニール・ケアリー・シリーズの「ストリート・キッズ」「仏陀の鏡への道」「高く孤独な道を行け」という作品があるが、こちらの作風のほうが好きだ。お断りしておくが、この本をべた褒めする人もいる。

池井優「決断と誤断=国際交渉における人と名言」

2009-11-08 14:02:51 | 読書

             
 1853年から1992年まで外交面での節目を、人と名言によせて描いてある。そこには驚くほどその時のその人の心理が鮮やかだ。
 1853年といえば、黒船の来襲で時の幕府があたふたとした時代だ。まさに鎖国をこじ開けた最初の外圧となった。マシュー・ペリー提督の強気な交渉術は、今のアメリカにも受けつがれているように思えてならない。イヤイヤをする子供の手を引くように、国際舞台に引きずり出されて88年後、わが日本は強大国アメリカの横っ面を突然張り飛ばすという挙に出た。
 1941年12月 8日(アメリカでは、7日) 真珠湾奇襲攻撃だ。アメリカ側は、姑息なだまし討ちだとして今でも忘れていない。それは日本軍部の意図したことではなかったが、ワシントンの日本大使館の不手際の結果だった。つまり開戦時間が過ぎてから宣戦布告の覚書が手渡された。
 当時の国務長官コーデル・ハルは、「私は50年の公職生活を通じて、これほど恥知らずな偽りとこじつけだらけの文章を見たことがない。こんなに大がかりなうそとこじつけを言い出す国がこの世にあろうとは、今の今まで夢にも思わなかった」と激怒したという。ただ、その覚書とやらの詳しい文言については言及していないのでなんともいえないが、日米の国力の格差は歴然としていて、アメリカ側は圧倒的に優位だと考えていた。
したがって日本政府が合理的な判断をすれば、よもや戦争をおっぱじめるとは考えてはいなかった。ただ、グルー駐日大使の意見は、「日本をあまり追い込むと、日本人は恥よりも死を選ぶ傾向がある」と警告していた。そしてそのようになった。この戦争の問題点は、日清、日露の戦争とは異なり、終戦構想がないまま開戦したことだった。
 1945年9月27霊南坂の旧アメリカ大使館で、昭和天皇と連合国総司令官マッカーサー元帥が会談した。当然立場は、敗戦国と戦勝国という図式である。勝手な想像をすると、相手は天皇といえどもマッカーサーから見れば、単なる敗軍の将に過ぎない。態度は居丈高で言葉はぞんざいな命令調で、煮て食おうが焼いて食うのもわれの気持ちしだいという見下したポーズは致し方ないかもしれない。
 それに引き換え敗戦国の負い目を持つ天皇陛下は、とつとつと語る。「自分はどうなってもよろしい。私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした。国民を飢えさせないでほしい」と訴えた。
 マッカーサーの心が動き出した。「死を伴うほどの責任、それを私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄まで揺り動かした」と後に回想しているという。
     
 ここに有名は一枚の写真がある。天皇・マッカーサー会談時のものだ。天皇陛下はモーニング姿、マッカーサーは開襟の軍服姿、両者の立場を如実に物語る。
 戦争は終結を描きながら行うものとすれば、個人の喧嘩も落としどころというか逃げ道を空けておくのが不幸を回避する秘訣か。夫婦喧嘩を思うとつくづく考えさせられる。しかも、喧嘩もしなくなった夫婦は、悲劇というしかない。国家間の戦争も最小単位の夫婦の諍いも、根っこのところは同じところにあるのだろう。

デジカメ持って小旅行「多古町日本寺(にほんじ」

2009-11-01 14:30:53 | 旅行

        
 鋸山の日本寺以外にも房総にはもう一つ日本寺があった。これは何気なく道路地図を眺めていて、「日本寺」の赤い文字が目にとまった。それは成田空港の隣町、多古町にある。
        
 きれいなお寺で、山門で写真を撮っていると後ろから声が掛けられた。「もう、ギンナンは落ちちゃったのかな!」と、振り返ると私と余り歳の違わない男性だった。
「えっ、ギンナンですか?」
「うん、いつもは一杯落ちてるんだよ」と言った。そう言いながら周囲に目を這わせていた。一つ二つ拾い上げて「ここのは粒が大きいんだ」
 木の葉っぱを見ると、まだ黄色く色づいていない。
「葉っぱがまだ黄色くなっていませんね!」と言ったが納得した様子もない。
 わたしは、「それじゃ」と言って山門を入っていった。背後で立ち去る車の音がしていた。
        
 このお寺は、元応元年(1319年)中山法華寺の日祐によって創建されたといわれ、慶長4年(1599年)日円により壇林(日蓮宗僧の学問所)が設置され中村壇林と称して明治初年まで続いた。
 中村壇林は、日蓮宗三大壇林の一つといわれている。町指定文化財の山門は、桃山時代から江戸時代初期の手法がみられるという。そして山門の「正東山」の扁額(へんがく)は、江戸時代の初期の書家、芸術家で光悦流の祖である本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)の筆になるもの。
            
             イチョウの木
 参拝を終えて先程のイチョウの木の下でギンナンを物色していると私と同年代の人が声をかけきた。
「葉っぱの色が変わってないから、ギンナンはもう少し先でしょう。今落ちてるのは、台風のせいだよ」とのこと。それで納得。しばらくギンナンを探したが、十一粒しか拾えなかった。