Wind Socks

気軽に発信します。

アルツハイマー病の妻を持つ男の映画「アウェイ・フロム・ハー/君を想う(06)」

2010-02-25 11:09:57 | 映画

 自宅近くの雪原をクロスカントリー・スキーで落日を楽しんだアンダーソン夫妻。共に老いたアイオーナ・アンダーソン(ジュリー・クリスティ)とグラント(ゴードン・ビンセント)は、食事の後片付けで妻がフライパンを冷蔵庫に仕舞うのを見て精神科の診断を受ける。初期のアルツハイマー病だった。フィオーナは、施設に入ることを決心する。
 この施設では、慣れるという意味で30日間は家族の面会禁止の規定がある。その30日間ルールが明けて施設を訪ねたグラントが眼にしたものは、妻の変化だった。オープリーという男性の横でカードゲーム・ブリッジの世話を焼いている姿だった。
 日増しに悪化するフィオーナの病状。しまいには、夫を施設の職員と間違う始末。オープリーの突然の退所にフィオーナの落胆振りは深刻な事態を示した。妻の平穏を考えると、オープリーが必要だと判断したグラントは、オープリーの自宅を訪問して、妻のマリアン(オリンピア・デュカキス)と施設に戻す相談をする。マリアンは言う。「戻せばお金がかかって、この家を売らなきゃならない」いろんなことがあって、結局一時的に快方に向かうという話で終わる。
 この映画の監督・脚本を担当した若き女優サラ・ポーリーには驚く。彼女の製作時の年齢27歳から考えると、この題材を取り上げたこと、出演者の年齢もサラより遥かに高い人たちだということにも。
 映画の根底にあるのは、男と女の接点はセックスという視点にあるように思えてならない。露骨な言葉や場面はないが、台詞に散りばめたニュアンスにうかがえる。大学教授だったグラントは、片っ端から女子学生と寝ていたという身勝手な男。
 フィオーナの入所日、担当職員を厄介払いする言葉。「よければ、夫と別れの挨拶をしたいの。この44年間で1ケ月も離れたことがないので、大事件だわ」そして夫に向かって「お願い、私を抱いてから行って欲しいの。そうでなければ涙だが止まらなくなるわ」(この部分は原作にはない)
 施設入所者の間で男女関係に発展することもよくあることと看護婦が言う。しかも男性のベッドに女性が押しかけるとも。さらに、マリアンがダンスパーティの誘いをグラントにしてくる。その時の台詞の一部に「あなたが既婚者でも別に構わない。私も人妻だけどデートしても罪じゃないわ」とか、ダンスをしている時も「私はスリルを求める女よ」明らかに誘っている言葉だ。ドライブの車の中でグラントに「あなたの人生を決めないと……」禁欲生活が続いていた二人は、ベッドを共にする。
 終わった後の二人の表情が対照的。マリアンは、「何の話をしてたっけ?」といいながら泣き出す。一方グラントは、笑顔で声を出して笑う。女はうれし泣き、男は心の解放での笑みと思う。妻や夫が痴呆で入院しているというのに、しかもそれぞれの患者の夫と妻がセックスに耽るのは容認できないという人もいるだろう。
 しかし、私はごく自然なことだと思う。性別や年齢に関係なく木の幹がセックスで、分かれ出ている枝は愛や温もり癒しや希望、反面落胆や嫉妬に憎しみ哀れみ殺意までもぶら下がっているという考えがあるからだ。
 一つ心残りがあって、それはラストでオープリーを車椅子に残したまま、グラントがフィオーナの病室に入る。そこには一時的ではあるが正気を取り戻したフィオーナがいた。映画はここで終わる。一体オープリーは、マリアンはどうなるのだろうか。尻切れトンボで、マリアンやオープリーに残酷な気がしてならない。夫婦の深い愛を描いた感動作に仕上がっていて、‘07アカデミー主演女優賞にジュリー・クリスティ、脚色賞にサラ・ポーリーがノミネートされた。驚くべき才女が現れた。
 監督・脚本サラ・ポーリー1979年カナダ、オンタリオ州トロント生まれ。’03「死ぬまでしたい10のこと」に主演。「アウェイ・フロム──」の原作は、アリス・マンローの短編「イラクサ・新潮クレストブック」の中の「クマが山を越えてきた」。
 ジュリー・クリスティ1941年インド、アンサム州チュークア生まれ。‘65「ダーリング」でアカデミー主演女優賞受賞。
 ゴードン・ビンセント1930年カナダ生まれ。
 オリンピア・デュカキス1931年マサチューセッツ州ローウェル生まれ。’87「月の輝く夜に」アカデミー助演女優賞受賞。‘88大統領選に出馬したマイケル・デュカキスはいとこ。
         
         
         
              
               サラ・ポーリー


無性に海が見たくなって

2010-02-21 21:16:55 | 見て歩き
きのう久しぶりの快晴に恵まれ気温も上昇して、身を切られる寒さから解放された。こんな日は、どこかに出かけたくなるもので去年12月以来、海の匂いと音と色から遠ざかっていて無性に見たくなった。
 以前は山登りが趣味だったせいか、山や高原の景観が好きだった。ところが二年ほど前、娘が千葉県一宮にある海浜のマンションの一室を借りたときに一変した。娘はサーフィンに凝っていてその部屋を借りたのだった。
 娘が使う週末以外はほとんど空いているので、私が滞在していた。早朝の海辺の散歩、暑い真昼のサイクリング、暮れなずむ空の美しさを肌で感じていると、まるでなんの関心もなかった女性に徐々に惹かれていくように、海に鷲づかみにされ絡め捕られた。
 そんなわけで山はもう汗臭くて汚い存在になった。そして自宅を出た。最初に寄ったのは、千葉県館山市国分にある国分寺。国分寺は、天平13年(741年)聖武天皇が国情不安を鎮撫するため全国に建立を命じた寺院で、全国に71寺建立された。千葉県には上総、下総、安房の3寺が建立されている。
 このお寺もかつては広大な敷地を有していたのだろうが、今はひっそりと地元の菩提寺になっていた。丁度、どなたかの葬式なのだろう、遺影を掲げた人の列が通り過ぎた。ふと、見送ってくれる人がいるのは幸せだろう。もし私が図らずも100歳まで生き延びて一人で死ぬ羽目になったらという思いに囚われた。
 それも一瞬ですぐに次の海の見える場所へ気持ちは飛んでいた。通り一遍の表現かもしれないが、青い空に青い海、白い波は、心を穏やかにしてくれる。お寺にも癒されるものがあるが、大自然の海にも人知の届かない計り知れない力を感じることが出来る。そのせいか夕食に飲んだジンのシーカーサー割りは、さっぱりとしていて実に旨かった。
       
       国 分 寺
       
       国分寺の庭に咲く梅の花
       
       国分寺のにわに咲く梅の花
       
       白砂の千葉県守谷海岸
       
       太東崎灯台の崖
       
       茫洋とした九十九里の浜とサーファー



映画「フロスト×ニクソン(‘08)」

2010-02-21 11:12:59 | 映画

 「フロスト×ニクソン」は、イギリスの脚本家ピーター・モーガン(1963年生まれ)の戯曲。イギリスの人気司会者デヴィッド・フロストと第37代アメリカ元大統領ニクソンとのトークショウを舞台化したものを、さらにロン・ハワードによって映画化された。
 リチャード・ニクソンは、1972年6月民主党全国委員会オフィスへの不法侵入・盗聴事件、いわゆる「ウォーターゲート事件」の責任をとって1974年8月9日辞任した。
 アメリカの歴史の中で、任期途中で辞任に追い込まれたのは、いまのところこのニクソンただ一人という汚名にまみれた。しかし、辞任の弁には罪を認めていないし謝罪の言葉もなかった。そしてデヴィッド・フロストは、その謝罪の言葉を引き出すために、ニクソンとのインタビューを計画した。成功すればフロストは、アメリカでの知名度が上がる。
 一方、ニクソンはうまく処理すれば政界復帰の絶好のチャンスになると踏む。結果はフロストが勝利を収める。単なるインタビュー映画でありながら、言葉のバトルのすさまじさを堪能できる。ニクソンからは、謝罪の言葉はなかったが「国民を失望させた」と言わせ、顔に疲れと喪失感が浮き彫りになる。テレビ時代の象徴的な一瞬だった。
 俳優の演技力も貢献しているが、やはり脚本の力が大きい。フロスト役のマイケル・シーンは、やたら歯の白さが目立っていたが舞台でもこの役だったようで掘り下げてこなれた感じだった。ニクソン役は、これも舞台ともども同じ役のフランク・ランジェラというベテラン。フロストの恋人役のレベッカ・ホールは、まだ経験が浅く目立つ女優ではなかった。マイケル・シーンの真っ白な歯並びと見比べると、彼女の歯並びにやや不揃いが気になる。おそらくマイケル・シーンは、歯のホワトニングをおこなっているのだろう。
 低予算映画で大物俳優に手が届かなかったか。今年1月31日の読売新聞に面白い記事があった。毎日曜日にある本に関するページで、三神万里子という人が書いている。
 「スター発見!」という本からの教訓で『スターになるには単に目立ったり、美しかったり、個人として優秀なだけではだめだ。映画でその人が発揮する機能=「見え方」が重要で、それには5段階ある。
 まず役の条件を満たし、技術力だけで見せるのは「B級」で、対価は最低水準プラス予算の残りだ。個性で映画に味を加えるようになると「有名」クラスになり、通好みの依頼が集まって業界内の評価が確立する。
 仕事を選んでこの位置を守ると、値崩れせず依頼も途切れにくい。一般の認知度が上がり、映画のセールスに貢献できるようになると「スター」としてさらに値段が上がる。イメージが固定化して飽きられるリスクを乗り越え、その人が参加すれば制作にゴーサインが出るほど存在感を示せるようになれば「スーパースター」だ。
 それに対し、「メガ・スーパースター」は、目を奪うゴージャスさを持ちながら、一瞬で大多数の共感を呼ぶ所作を持つ。一声で人も資金も集まり確実に利益を生むこのクラスはハリウッドでもわずか数人だという。才能だけでなく、適性と自分の「見せ方」がやりたい仕事とマッチしてはじめて、スターは誕生するのだ。
 この論からいけば、この映画の俳優は、「B級」といったところか。監督ロン・ハワード1954年オクラホマ州ダンカン生まれ。‘01「ビューティフル・マインド」でアカデミー監督賞受賞。
 フランク・ランジェラ1938年ニュージャージー州生まれ。
 マイケル・シーン1969年イギリス、ウェーハス生まれ。
 レベッカ・ホール1982年イギリス生まれ。
       
        マイケル・シーン
       
        フランク・ランジェラ
       
          
          レベッカ・ホール

映画「告発のとき(‘07)」

2010-02-17 12:47:21 | 映画

 元軍警察の軍曹ハンク(トミー・リー・ジョーンズ)に息子のマイクが軍規違反の無断離隊したという連絡が入る。おまけにイラクから四日前に帰国したというのに。
 ハンクの同僚だった男に連絡するが「そんな名前の人はいません」と言われ除隊したことが分かる。息子を探すためにフォート・ラッド基地に向かう。基地でも確かな情報がない。 仕方なく地元警察へ捜索願いに赴くが、ここでも軍関係は軍警察へととりつく島もない。そんな時、マイクのばらばらにされ焼かれた死体が発見される。ここで軍警察と地元警察の縄張りが邪魔をする。何とか警察の刑事エイミー(シャリーズ・セロン)の協力を得て核心に迫っていく。
 クリント・イーストウッドとコンビを組んで製作したアカデミー受賞作品‘04「ミリオンダラー・ベイビー」や自身の監督作品’04「クラッシュ」で成功したポール・ハギスは、戦場の狂気を丁寧に描出する。
 フォート・ラッド基地への途中、星条旗が星の部分を上下逆さまに掲揚されているのを見て、係りの男に注意する。国旗を逆さまに掲揚するのは「救難信号だ。助けてくれということだ」といって掲揚し直す。
 これは息子マイクの悲痛な助けを呼ぶ意味合いが込められている。エンディングでマイクが自身に送った擦り切れた星条旗を、ハンクが死んだマイクの霊を慰めるように掲揚してガムテープで固定してしまう。
 係りの男は、「夜、とり入れなくてもいいのか?」
 「そうだ」
 「楽でいい」
 しかし、ハンクには息子は永遠に生き続ける。それに妻ジョーン(スーザン・サランドン)との息子の死を知らせる電話での会話は、端的に父と子の関係を明らかにする。
ジョーン「息子といたいの」
ハンク「何も残っていないんだ」
ジョーン「どういうことなの?」
ハンク「ジョーン、一度くらい私に従え」
ジョーン「一度くらい? 一度? 私は入隊に反対したけど、あなたが賛成した。誰の考えに従った?」
ハンク「本人の意志だ。私が勧めたんじゃない」
ジョーン「あなたのようになろうとしたからよ」
 息子は父親のようになろうとして、軍に入りイラクに行った。そして狂気によって死亡した。母親の気持ちが痛いほど分かる場面。
 もっと面白いのは、エイミーに対する男の刑事たちの嫌みったらしい態度だ。つまらない事件をエイミーに与え、抗議すると「交通課からカラダで得た刑事だろ」文句を言うなと言う。エイミーも負けていない「カラダで取った刑事だから、この事件は荷が重いわ」と反論する。ポール・ハギスはフェミニストではないかと思うし、いまだに女性を蔑視する男の後進性を揶揄しているのかも。
 それからもう一つ、これは日米地位協定を連想してしまうが、要するに警察が犯人と目星をつけて引渡しを要求するが、軍の管轄権で抵抗してくる。国内でも軍は自分たちの地位を守ろうとする。ましてや外国と、となればおいそれと妥協しないだろう。こんなことを考えさせられた。
 管轄権を主張した軍にエミリーは反逆する。「非番兵士の外出は何人ぐらいいるの? 二千人?三千人? 警察は基地の入り口でそれらの兵士を飲酒運転で拘束してもいいわよ」これには効果覿面だった。
 いずれにしても、戦争がもたらす悲劇は後が絶えない。第二次世界大戦後アメリカが参戦したものに朝鮮戦争(1950.6.25~1953.7.27)、ベトナム戦争(1965.2.7~1975.4.30)、湾岸戦争(1991.8.2~1991.1.17~1991.2.28)。イラク戦争(2003.3.9~継続中)があり、数多くの映画も製作されているがアカデミー賞を受賞するほどの作品は何故かベトナム戦争に多い。
 主なものに‘78「ディア・ハンター」アカデミー作品賞、監督賞、助演男優賞、音響賞、編集賞を受賞している。監督マイケル・チミノ、キャストロバート・デ・ニーロ、メリル・ストリープほか。ジョン・ウォリアムズのギターで叙情的なテーマ曲が印象に残る。
 コッポラ’79「地獄の黙示録」、オリバー・ストーンのアカデミー受賞作‘86「プラトーン」’87「グッドモーニング・ベトナム」、‘89「7月4日に生まれて」などがある。本作はそこまでの評価はないが、重いテーマを持った作品だ。ベテラン俳優で難なくこなしたというところ。
 製作・監督・脚本ポール・ハギス1953年カナダ・オンタリオ生まれ。
 トミー・リー・ジョーンズ1946年テキサス州生まれ。ハーバードでのルームメイトがゴア前副大統領は有名。’93「逃亡者」でアカデミー助演男優賞受賞。
 シャリーズ・セロン1975年南アフリカ生まれ。‘03「モンスター」でアカデミー主演女優賞受賞。
 スーザン・サランドン1946年ニューヨーク生まれ。’95「デッドマン・ウォーキング」でアカデミー主演女優賞受賞。
        
        ポール・ハギス
        
        

映画「その土曜日7時58分(‘07)」

2010-02-13 13:06:46 | 映画

 80歳を過ぎたシドニー・ルメットが、なんともエネルギッシュな映画を撮った。これから観る人のために細かいことは言わないが、オープニングの官能に目が離せない筈。
 人生どこでどう間違うのか。それに家族の愛とか夫婦愛も、砂上の楼閣のように壊れやすいもの。マリワナと銃の暴力によって、こなごなに砕かれる。
 題名の「その土曜日7時58分」というのは、両親が経営する宝石店がオープンする午前8時少し前を指している。兄弟は金に困っていた。兄アンディ・ハンソン(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、マリワナのせいで、弟ハンク(イーサン・ホーク)は、離婚していて養育費の支払いに困っている。
 兄が両親の店を襲撃する計画を提案する。勝手知ったる店内、保険がかけてあるから実害はない。俺たちが金を手に出来る。簡単に出来る仕事と思ったが、何事も予想通りにはいかない。
 一つの手違いが、すべてを狂わせていく。とどのつまり狂ったように人を殺していく兄。オープニングの官能、裸の男と女のセックス・シーンは必要であったのか? いくら考えても別の方法があったように思えてならない。フィリップ・シーモア・ホフマンのやや小太りの中年男の体とマリサ・トメイのほっそりとして魅力的な姿態の夫婦の交合。
 観る方はニヤニヤ笑いで楽しめるが、よく言われるのが、小説でも映画でも出だしの数行、数分が読者や観客をひきつける。だとしても何もポルノっぽい映像にする必要もない。 何故か? 私の確信に近い推測は、シドニー・ルメットの80歳を超えた年齢にある。この年齢は、死の影に怯える年齢といえる。私事で恐縮ではあるが、先だって市の健康診断を受けた。例年受けているものだが、今回肺がんの疑いがあるということで精密検査を受けた。結果は異常がなかったが、このとき何故か非常に不安だった。実は20年ほど前、大腸がんの疑いがあって内視鏡の摘出を受けているが、その時には不安は一切なかった。何故だろうと考えてみると、やはり年齢にあった。
 私も時々死の影の恐怖に襲われる。人間年を重ねる毎に生と性に執着が強くなっていくのが分かる。これが宿命なのだろう。
 シドニー・ルメットは社会派の映画監督として鳴らした人であったが、この作品に思いのたけを込めた様に思えてならない。映画は、空虚な余韻を残して終わる。
 監督シドニー・ルメット1924年フィラデルフィア生まれ。‘57「十二人の怒れる男」が大ヒット。この映画、私の子供たちが小学生のころテレビで放映したのを観ていた時、最後は感動したと言ったのが印象に残っている。それほど訴えるものがあった。
 フィリップ・シーモア・ホフマン1967年ニューヨーク州フェアポート生まれ。「カポーティ」でアカデミー主演男優賞受賞イーサン・ホーク1970年テキサス州オースティン生まれ。’01「トレーニング・デイ」でアカデミー助演男優賞ノミネート。
 マリサ・トメイ1964年ニューヨーク市ブルックリン生まれ。‘92「いとこのビニー」でアカデミー助演女優賞を受賞。私の好きな女優の一人。
 アルバート・フィニー1936年イングランド、モンチェスター生まれ。’00「エリン・ブロコビッチ」でアカデミー助演男優賞ノミネート。
       
       イーサン・ホークとフィリップ・シーモア・ホフマン       
       
       マリサ・トメイ
       
       
       父親役のアルバート・フィニー

映画「パッセンジャーズ(‘08)」

2010-02-10 16:14:30 | 映画

 旅客機が墜落する。乗客乗員109人のうち、助かったのは数人。この助かった人の精神的セラピーを担当するクレア(アン・ハサウェイ)は奇妙な男と事件に遭遇する。この映画の詳しいことは言えない。これから観る人の興味をそぎたくないからだ。評判は悪くない。 ただ、私には何を言いたいのかよく分からない。謎めいた雰囲気で最後まで引っ張っていかれる。それが徹底していない気がする。この助かった数人の中にエリック(パトリック・ウィルソン)という若い男と愛し合うようになるクレア。
 愛を交わすきっかけに、やや不自然さを感じる。不可解な言動の多いエリックがボートから冬の海に飛び込む。なかなか浮いてこないので、心配したクレアも飛び込む。そして抱擁とくるが、まだ機が熟してしない気がする。キスをさせる場面なんて、そんな不自然なことをしなくてもどこにでもある。不可解な男のエリックだから、冬の海に飛び込ませるのはいいが、クレアまで海に放り込むこともないだろうに。
 ノーベル賞作家のガルシア・マルケスを父に持つ監督故に発想が違うのかもしれない。アン・ハサウェイもパトリック・ウィルソンも印象の薄い映画だった。
 監督ロドリゴ・ガルシア1959年コロンビア、ポゴタ生まれ。‘05「美しい人」で、インデペンデント・スピリット賞の監督・脚本賞にノミネートされた。
 アン・ハサウェイ1982年ニューヨーク、ブルックリン生まれ。
 パトリック・ウィルソン1973年ヴァージニア州ノーフォーク生まれ。
       
       

映画「ダウト~あるカトリックの学校で~(‘08)」

2010-02-06 13:07:28 | 映画

 原題は「Doubt」疑い……物語の最後にシスター・アロイシアス校長(メリル・ストリープ)が涙ながらに告白する「疑いが……言いようのない……疑いの気持ちが」フリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)を辞任に追い込んだ。
 ニューヨーク、ブロンクスにある小さなカトリックの学校では、フリン神父と校長のシスター・アロイシアスとが開放と伝統との狭間で対立していた。時代が変わった教会も変わるべきだ。世俗的な歌もとり入れ、みんなでキャンプをして親しみを持たそうと言うが、シスター・アロイシアスは頑として拒否する。
 この二人の中にあって、若く優しいシスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)は揺れ動く。ある日、シスター・ジェイムズは、フリン神父が男子生徒のロッカーに何かを入れるのを目撃する。神父が立ち去ったあとそれを確認したところ、黒人のドナルド少年の下着だった。教室でのドナルドの様子に不審を抱いていたこともあって、校長に相談した。事態は校長室での神父とのいがみ合いにまで発展する。
 校長が話しを聞いたドナルドの母親(ヴィオラ・ディヴィス)の言葉は意外だった。「息子は神様がお作りになった性質をもっている。息子に関わらないで欲しい」これはもって生まれた同性愛感情を示唆したものだろう。ショックを受けた校長であるが、神父攻撃の矛を納めない。
 挙句の果てに、神父が以前にいた教区のシスターに電話して前歴があることが分かったと告げた。そこには大いなる嘘が存在した。シスター・アロイシアス校長は、神父の前任教区のシスターには問い合わせていない。神父に鎌をかけて否定しなかったので、前歴があったと判断した。
 映画の冒頭、神父の説教の中で「疑いは、確信と同じくらい強力な絆になり得るのです」と言わせている。この例として、貨物船が沈没して一人の船員が生き残った。ボートに乗り星を目印に方向を決めた。いつの間にか眠っていて、目覚めた時どこにいるのかどこへ向かっているのか分からなくなった。決めた方向は正しかったのかという疑問が沸いた。この疑問がないと正しい確信にいたらないと言うものだった。そこに嘘が存在すれば、いかなる確信も意味がない。
 二つのテーマを見る。嘘で糊塗することと同性愛。この同性愛と言うシリアスなテーマは、ドナルドの母が言うように「神様がおつくりになった性質」で本人はどうすることも出来ないし、他人がとやかく言うべき筋合いのものでもない。近年同性婚を認める方向にあるのはいいことだと思う。私にも若干偏見が残っていることも事実だ。
 映画は、冬の風景とともに教会内でのうす暗い雰囲気は重厚な印象を与える。しかし、神父やシスターの着る僧衣が黒く、顔だけが白く浮き出ている。これが逆になんともいえない魅力をかもし出していた。エイミー・アダムスの優しさと純粋な心を持ったシスター役に目が離せなかった。メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマンのアカデミー受賞俳優に加え脇役で活躍している黒人女優ヴィオラ・ディヴィス、それに若きシスター役のエイミー・アダムスの演技は見ものだ。
 やはりメリル・ストリープの「何も語らない瞬間こそ説得力があるわ」と言う言葉通り、状況やセリフの持つ意味合いの表現に、顔や目の表情が秀逸だった。ホフマンも同様。短い出番だったヴィオラ・ディヴィスも力のある女優という印象だった。エイミー・アダムスは、二人のアカデミー賞俳優の演技に影響されて好演を見せている。そういう立場を見ていると、人は人に揉まれて自己を確立するのがよく分かる。普通のわれわれも、他人があってこそ自分自身が存在するということを再確認した。
監督ジョン・パトリック・シャンリー1950年ニューヨーク市ブロンクス生まれ。
メリル・ストリープ1949年ニュージャージー生まれ。
フィリップ・シーモア・ホフマン1967年ニューヨーク州フェアポート生まれ。‘05「カポーティ」でアカデミー主演男優賞受賞。
エイミー・アダムス1974年イタリア、ヴィチェンツア生まれ。父親の軍務の関係でコロラド州キャッスル・ロックで育つ。
ヴィオラ・ディヴィス1965年サウスカロライナ州生まれ。
 これらの出演者は、‘08年アカデミー賞主演女優賞メリル・ストリープ、助演男優賞フィリップ・シーモア・ホフマン、助演女優賞エイミー・アダムス、ヴィオラ・ディヴィスがノミネートされた。
          

映画「コレラの時代の愛(‘07)」

2010-02-02 11:19:16 | 映画

 ノーベル文学賞作家のガブリエル・ガルシア・マルケスの同名小説の映画化。ラバ商人の娘フェルミーナ・ダーサ(ジョヴァンナ・メッツオジョルノ)は、著名な医師に見初められて結婚する。振られたフロンティーノ・アリーサ(ハビエル・バルデム)は泣き崩れ恋の病が重くのしかかる。
 あきらめ切れない日々を送るが、伯父の経営する河川運輸会社の船旅に出る。そんなある夜、いきなり船室に引っ張り込まれ、暗がりで童貞を奪われる。(この場面、男が簡単に奪われるものだろうか。暗がりだからはっきり分からないが、あわただしい女のレイプに反応するのか? 童貞を失う機会なんてざらにあるのに。これがラテン風味童貞喪失メニューか)
 以来、恋の痛手を癒すため手当たり次第に女と寝てそれを記録に残していく。ある男に「なぜ、あなたは女性にモテるんです?」と聞かれ「きっと私が哀れな抜け殻だからだろう。愛を求める気の毒で無害な男だから。私の心には売春宿より多くの部屋がある。女の数は622人だ」
 多くの女性との性交渉を持ちながらも、フェルミーナを思う純粋な心を失わないフロンティーノ。著名な医師と結婚して上流階級の一員となったフェルミーナに突然の災厄が訪れる。夫が木の枝に逃げたオウムを取ろうとして、オウムに指を噛まれて驚き転落して死亡する。
 フェルミーナの夫の死を願っていたフロンティーノは、葬式も終わっていないのにフェルミーナに愛の告白をする。激怒したフェルミーナに追い出されてしまう。それでもあきらめないフロンティーノは、せっせと手紙を書き送る。やがてフェルミーナの心が開くときがやってくる。
 生涯の愛を誓うが、どうやら死の影に怯えているようにも見える。原作にほぼ忠実に映画化されているが、評価は分かれるだろう。原作を読んでいたせいか、どのように映画化されたのかに興味が集中して映画そのもの面白さがあまり感じなかった。
 会話の少ない原作の映画化は、脚本家にとって難題を押し付けられた気分だろう。露骨なセックス描写ではないが、結構その場面が多くいかに原作に忠実と言ってももう少し工夫が出来なかったか。と思う。おまけにフェルミーナの乳房は垂れ腰周りがぶよぶよした70歳代の裸のセックスシーンまである。勿論原作にはそのシーンはある。しかし、映画にもそのシーンが必要だったのか疑問が残る。精神的・感情的な純粋性が内包されている小説の映画化の難しさを見せてくれた。
 監督マイク・ニューウェル1942年イギリス、ハートフォード州生まれ。ケンブリッジ大学卒。‘03「モナリザ・スマイル」’05「ハリーポッターと炎のコブレット」などの作品がある。
 脚本ロナルド・ハーウッド1934年アフリカ、ケープタウン生まれ。‘02「戦場のピアニスト」でアカデミー脚色賞受賞。
 ハビエル・バルデム1969年スペイン、カナリア諸島スパルマス生まれ。’07「ノーカントリー」で圧縮ボンベを凶器にする特異な犯罪者を演じて、アカデミー助演男優賞を受賞。
 ジョヴァンナ・ソッツオジョルノ1974年イタリア、ローマ生まれ。‘05「心の中の歌」でヴェネチア国際映画祭で女優賞受賞。
        
        ハビエル・バルデム
        
        ジョヴァンナ・ソッツオジョルノ