フィリス・ドロシー・ジェイムズ(Phyllis Dorothy James)は、イギリスの女流推理作家だ。1920年に生まれ、2014年没であるが『ナイチンゲールの屍衣』『黒い塔』『死の味』で3度CWA賞(英国推理作家協会)シルバーダガー賞を受賞。1987年には作家としての功績を称える CWA賞 ダイヤモンド・ダガー賞を受賞した。さらに1999年にはアメリカのMWA賞(アメリカ探偵作家クラブ)でも巨匠賞を受賞したという作家なのだ。
私はこの人の作品を読んだことがなく、今回が初読となる。多くのミステリーやハードボイルドでは、バンと事件を明示して一気に読者の関心を集めて犯人探しに時間を割くというのが多い。この人の作品は違った。無残な被害者ルポライターとして有名なジャーナリストのローダ・グラッドウィンについて、生い立ちや性格について詳細な記述があって、二段組の436頁のうち115頁目でようやくローダ・グラッドウィン扼殺事件が発生する。かなり遅い事件発生だ。
読後にこのことについて考えてみた。生い立ちや性格なんて事件後、なんとでも説明できる。それを導入部に持ってきたのは、この作家の優しさではないかと思う。たとえ死にゆく人であっても、また作中の人物であっても、それなりの尊厳を与えたいと。それに加えこの作家の先進的な考えも文中からうかがえる。
いくつかの事件が起こるのは、ドーセット州にある農地に囲まれたシェベレル荘園。イギリスでも風光明媚といわれロンドンから約3時間。ここでローダ・グラッドウィンは、左頬の傷の再生手術を受けることになる。この傷は、十代のころ父親のいわれなき逆鱗を伴ってウィスキー瓶で殴打されたものだった。ローダの憎悪は父親が死んでからも続いた。今47歳のローダが思い出したくない過去だった。
この手術を担当するのは、形成外科の世界では名医と言われるジョージ・パンドラ・パウエル。離婚歴のある男で自身が経営するクリニックでの手術を終え、ドーセット州ヘ向かうメルセデス・ベンツの車中の人となる。高速道路を疾走するジョージは、移動する喜びと開放感に包まれオーディオから流れるバッハのバイオリン協奏曲二短調が心地よい。
荘園には多くの人が働いている。ジョージの助手としてマーカス・ウェストホール、マーカスの姉キャンダス、婦長フラヴィア・ホランド、支配人ヘリナ・クレセットの他に数名。
ロンドン警視庁特捜部から派遣されてきたのは、警視長アダム・ダルグリッシュ、警部ケイト・ミスキン、部長刑事フランシス・ベントン・スミスの三人。地道な捜査が続けられるが、マーカスの姉キャンダスの自殺とともに残された自白テープで一件落着となる。
事件解決後は登場人物の愛と幸せに包まれたシーンとなる。警視長のアダム・ダルグリッシュは、恋人エマとケンブリッジ大学で結婚式を挙げた。従来のしきたりにとらわれない形だった。旧来のしきたりを否定するという表現は、この作家の先進性なのだろう。音楽が流れ説教を省いた短いものだった。
クリーム色のウェディング・ドレスをまとい、つややかに輝く髪をアップに結い上げてバラの花の冠を飾ったエマは、祭壇に向かって通路を一人でゆっくり歩いた。しきたりは花嫁の父がエスコートするが、エマの父は最前列に座っていた。待っていたアダムは、エマに手を差し伸べた。流れる音楽は、バッハやヴィヴァルディ。
薄茶色の髪の毛をショートカットにしてサマー・ドレスを着た、知的でチャーミングなケイトには、上司のアダムに対して密かに思う複雑な心境を抱えていたが、かつてサヨナラを宣告したピアーズからのメールに寛容な態度をとる。「家に帰ってきたらどうですか。ケイト」と。一連の事件は人間の本音や本質に迫るもので看過できなくなる。それが人を成長させると言ってもいいかもしれない。ケイトは日に日に成長し円熟が増すようだ。
形成外科医のジョージは、支配人のヘリナ・クレセットと散歩に出た。二人は事件の後始末に追われていた。荘園の医療部門は廃止、ロンドンのクリニックに力を入れる。空いている厩舎を改装して3つ星レストランを目指す。そしてジョージは、ヘリナに求婚した。「結婚してもらえないだろうか。一緒に幸せになれると思うんだが」その言葉に愛という単語はなかった。聡明なヘリナはそのことを理解している。「愛という言葉を持ち出さなかったわね。正直な方だわ」とヘリナ。
のちに親しい事務責任者のレティーに打ち明けた。「彼を愛していないでしょ」とレティー。それに対してヘリナは「たぶん今はね。まだ完全に愛しているとは言えない。でもいずれそうなる。結婚って愛情が生まれるか、あるいは失われる過程でしょ。心配しないで、この結婚は長続きするはずよ」
人を愛するというのは、ありのままの相手を受け止め、成長を願うことだとすれば、この二人は理想的な夫婦になることだろう。
それではバッハのバイオリン協奏曲二短調を聴いていただきましょう。
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