21
香田はキーボードをすばやく叩き、けいにメールを送った。
「元気は回復したかい? 私は疲れていたからよく眠れるはずが眠れなかった。けいの姿態がちらついて、息苦しくなるほどだった。けい、抱きしめたい! 再び、柔らかい二つの乳房の丘と鬱蒼とした森の奥に潜む、小さな突起を攻撃したい。どうだろう、来週の火曜日は?
追って、今、けいとの関係を小説風に書いている。しっとりとしたラブ・ストーリーにしたいと思っている。出来上がったら見せるよ。
順一」
けいはメールを読み終わり、彼が言う攻撃を思い浮かべると、下腹の奥にちろちろと炎が燃えて、その疼きで切なくなる。もう私たちは、なんの虚飾も捨てて、素直に気持ちを分かち合える間柄になったんだわ。
こんなメールのやり取りが続き、一宮のマンションやけいのマンションで何度も愛を交わしたり、サイクリング、ジョギングそれにキャンプをしたりして、楽しい時間を過ごした。もっとも、時に村上めぐみも一緒に行くこともあった。そのめぐみの目に香田への強い興味が覗いているのをけいは知っていた。
香田との愛が充分な満足を与えてくれる度(たび)に、けいは空虚さから来る寂寥感に苦しめられていた。
このまま二人の関係が続き、離れられなくなったらどういうことになるのか。香田の高齢の妻を追い落とすことになったら。そんなことはできない。
しかし、香田との交わりは容易に断ち切れるものでもないことが、一層苦しみに拍車をかけていた。
クリスマスや正月は、香田にとっても、けいにとっても冷却期間の役割を果たしたようだ。この時季に出歩くわけにはいかない。それに、けいの場合は、息子の恭一に娘が生れ、おばあちゃんとしての義理も生れた。もっとも、けいとしては、おばあちゃんと呼ばれるのには抵抗があったが。
息子夫婦は共働きで、子供の養育に頭を痛めていた。そこで息子から提案されたのは、一年後をめどにおばあちゃんのけいが、月島のマンションに移ってくるというものだった。目的は、子供の面倒を見て貰おうとしているのは、明々白々だった。
けいは、もしそうなったとき、狭くてもいいから、独立した住まいが欲しいと言った。息子夫婦は検討すると言った。けいは香田にもそれとなく事情を説明していた。
そのときが意外に早く訪れた。年が明けた二月の中ごろ、息子からマンションを下見してくれと言ってきた。出かけて見てみると、海は見えないが隅田川が見える。きれいにリフォームしてあって、息子のマンションや地下鉄駅にも近く値段も手に届く範囲だった。そのマンションに決めて、引越しを三月中ごろとした。千葉のマンションは早速売りに出さねばならない。
そんな合間を縫って香田にメールを送った。
「順一 息子のところへの引越しが決まりました。三月中ごろの予定です。じっくりお話ししたいので、こちらに来ていただきたいと思います。来られる日をお知らせください。
お願いいたします。 けい」
香田は事務的な文面を読みながら、けいとの関係が終局に向かっているのを感じていた。
けいのマンションの来客用駐車場に車を止めた。火曜日の午前十一時半だった。偶然かもしれないが、けいと会うのは火曜日が多い気がする。けいが、今日はお昼を用意するからという。香田は途中でカリフォルニア・ワインを買ってきた。
最上階にあるけいの部屋のボタンを押した。中で鳴るチャイムの軽やかな音色が聞こえた。インターホーンから「チョット待って、すぐ行くから」けいはどなたとも聞かなかった。香田であることを確信しているようだった。
ドアが開けられると、いつものけいがそこに立っていた。薄い化粧で口紅をきれいに引き、きれいな歯並びを覗かせて微笑んでいた。着ているのは、ムームーのような裾の長いウエストを絞っていないドレスで、緋色に白いバラの花が散りばめられていた。
ドアを閉めて、けいを抱き寄せキスをする。舌が絡まり始めけいが
「だめよ。今料理中なの」香田はあきらめて、あらためて気がついた。
「部屋がすごく暖かいね」
「暖かくしてあるのよ。外が寒そうだから。上着を脱いで楽にして頂戴」
香田は「はい、ワインだ」と言って手渡す。
「あら、ありがとう。私も買って冷やしてあるわ」
香田は、グレイのスラックスに紺のブレザー、Vゾーンは、ボタンダウンのブルーのシャツにペーズリー模様のアスコットタイという洒落た服装だった。
上着とアスコットタイを、玄関の上がり框(かまち)に続く、来客用のクローゼットに収める。リビングからは、遠く富士山も薄っすらと見える。多分ここから眺めるのは、今日が最後になるのだろうなーと香田は考えていた。
けいが「もうすぐ出来るわよ。テーブルのセッティングをお願い」これはいつも行う二人の役割分担だった。香田はキッチンからせっせと料理を運び込んだ。食欲をそそるいい匂いが漂っている。
テーブルに並べられた料理は、かなり手間のかかるもののようだった。
まず「長ネギのサラダ」長ネギをさっとゆでて玉ねぎ、ニンニクを水に晒したものをヴィネグレットソースで合えたものを長ねぎにかけたもの。
次に「パンケース入り若鶏のクリーム煮」八角形の食パンをくりぬき揚げたものに、若鶏のクリーム煮を盛ったもの。
そして、「帆立貝のソテー松の実バターソース」これは簡単にできる料理。あとは、けいのオリジナルの料理がいくつか。
ワインのグラスを掲げて、まず乾杯。
「けい、ありがとう」けいは、何故か言葉が出なかった。頷いて香田のグラスの縁に合わせて、チリンと小さな音を立てた。まず料理とワインの賞味ということで、食べることが優先される。この無言の時間が気楽に過ごせれば、二人の親密度は本物だ。香田とけいの関係は本物だった。香田は「うん。旨い。これも美味しい」と一人頷いていた。そして
「話と言うのは、けい?」と香田が問いかけた。けいは視線を遠くに這わせながら大きく息を吐いた。
「ええ、前にもお話ししたとおり、息子夫婦の子供のお守りを、どうしてもしなきゃいけなくなって、引越しすることになったの。それだけなら、別にお話があると言わなくてもいいわけなんだけど、私は苦しいの」
「苦しい?」と香田。
「私は考えたわ。順一との関係を続けてもいいのかどうか。だってそうでしょう。このままいつまでも続けるわけにいかないわ。いずれ二者択一に迫られるはずよ。
あからさまに言って、順一とのセックスのあと、どうしても寂しさが残るの。夫婦だったら、終わったあとも同じベッドで眠りにつくよね。それに朝ごはんも一緒でないのも耐えられないの。分かってもらえる?」
「ああ、わかるよ」しんみりと香田。
「順一の奥様に悲しみを与えたくないの。息子の近くに引越しをする機会に、私は身を引くことにしたの。分かって、お願い!」香田は目を閉じた。静寂が二人を包み込んだ。けいが、セックスに溺れた女になるのを、不安に思ったことに恥ずかしさを覚えた。やはりけいの、律儀さが表れていた。大きく息を吐いて香田は
「わかった。けいの言うとおりにするよ。いずれどこかで決断しなきゃならないしね」
「だから、今までのようにメールの交換も出来ない。そんなことをしたらまた、順一のことが恋しくなる」けいはうつむきながら言う。
「それじゃ一切の連絡を絶ってしまうということかい? 例えば、クリスマスや正月の挨拶もない?」
「ええ、そのつもりよ」
「けい、そんなの耐えられないよ」
「順一、分かって! 私、あなた以上につらいのよ」順一は立ち上がって窓辺から海を眺めた。さっきの景色は一向に目に入ってこなかった。しばらくして振り向き、けいの目をじっと見つめ
「そうか、けいの決心は固そうだね。あまり無理を言って、けいを困らせるわけにいかないし、私もけいの言う通りにするよ」
「ごめんなさい」と言ったとたんに咳き込みだした。けいは化粧室に飛んでいった。戻ってきて
「最近咳がちょくちょく出るの。風を引いた気がしないんだけど」
「気をつけなきゃ、けい。孫のこともあるから病気なんかしている暇はないよ」
「そうね、順一の言う通りだわ」
それからは、さっきのじめじめした雰囲気は吹っ飛んでいた。二人とも思い出話は出来るだけ避けていた。けいが唐突に
「ところで、小説は出来た?」と聞いてきた。
「それを聞かれるのが恐くて、びくびくしていたよ。残念ながら道半ばというところかな」
「出来上がったら頂きたいわ」
「いいけど、連絡はどうする? メールは一切しないと、さっき言ったよね」
「あっ、そうか。じゃあ小説の件だけの限定メールと言うのはどうかしら?」
「なるほど、考えるね。OK,了解」
香田は一縷の望みを得たと思った。二人は心が少し晴れた気がして、ワインと料理を堪能した。
「けい、デジカメ持ってるかい?」
「ええ、あるけど?」
「けいのヌードを撮って置こうと思ってさ」香田はにやりとして言う。
「だめ、それはだめよ!」けいはキッとして言った。それにめげず
「しかし、最初のデートのとき撮って置きたいようなこと言わなかった?」
「あれはお愛想よ。本心は厭なの。二十代ならともかく、今の私のはいや」香田は立ち上がって、けいの後ろに回りながら
「じゃあ、眺めるのはいいんだろう?」と言いながら、後から両手で乳房を包み込み愛撫しだした。そのままけいを椅子から立ち上がらせ、抱きしめてキスをする。けいはゆっくりと絶頂に登って行った。これが二人にとって最後のセックスとなった。