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読書「このやさしき大地THIS TENDER LAND」ウィリアム・ケント・クルーガー著 早川書房2022年刊

2024-05-25 09:40:12 | 読書
 著者ウィリアム・ケント・クルーガーは、読者を泣かせるのが得意である。これは一人の少年の成長物語で、ミネソタ州フリモント郡にあるリンカーン・インディアン教護院から始まる。1932年のお話である。

 アメリカの1932年は、「時の大統領フーバーの失政により1932年後半から1933年春にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止した。家を失い木切れで作った掘っ立て集落は恨みを込めて「フーバー村」と呼ばれ、路上生活者のかぶる新聞は「フーバー毛布」と言われた」とウィキペディアにある。

 このリンカーン・インディアン教護院は名前の通りインディアンの子供たちが多く収容されている。白人たちが北米大陸に押し寄せて、先住民のインディアンを迫害した結果、身寄りのない子供が多く生まれた。その子供たちを収容しているのが、リンカーン・インディアン教護院なのだ。その中に白人の子供アルバート・オバニオン16歳、オディ・オバニオン12歳、このオディが語り手となる。   
 しかもこの教護院は厳しい戒律を設け、違反者には罰則としてお仕置き部屋に放り込まれる。アルバートもオディも度々その刑を受けていた。

 院長も意地悪、教師の中にも意地悪がいてある日、その一人を死に追いやってしまった。逃げるしかない。アルバートとオディに加えスー族のモーズ・ワシントン、竜巻に襲われて命を落とした女教師のコーラ・フロストの幼い子エミー・フロストの四人でミシシッピ川を下りセントルイスのオディの叔母の家を目指す。途中、素敵な伝道師シスター・イヴや優しい仲間との邂逅、貧しい掘立小屋で暮らす人々の善意の数々にも恵まれて、紆余曲折があったが驚くべき事実と悲しい結末には、オディが吹くハーモニカのメロディ、アメリカの民謡「シェナンドー」が心に沁みる。

それでは「シェナンドー」をどうぞ!

読書「賢者たちの街RULES OF CIVILITY」エイモア・トールズ著 2020年早川書房刊

2024-05-11 15:48:11 | 読書
 著者エイモア・トールズの秀逸な比喩が星屑のように瞬き、ロシア系アメリカ人で労働者階級出の女の子ケイト・コンテントの上昇志向が描かれる。読書家で知識の豊富なケイトは、ニューヨークの弁護士事務所や出版社に勤め、上流階級の男を夫とした。

 プロローグは、1966年10月4日の夜、中年後半の段階というケイトと企業の合併に手を貸して一日一万ドルを稼ぐその夫ヴァルとともに、ニューヨーク近代美術館で開かれている写真展のオープニング・パーティに出席するところから始まる。その写真展は、ニューヨーク・シティの地下鉄内で人物を隠し撮りしたものだった。撮影されたのが20年前、撮影者がプライバシーを思ってか秘匿していたものだった。

 その中に1938年と1939年撮影のティンカー・グレイの写真があった。1938年のティンカー・グレイは、カシミヤのコートを着て、きれいに髭を剃り、オーダーメイドのシャツの襟もとにきりっとウィンザーノットンにしたネクタイが覗いている、一方1939年には、無精ひげを生やしみすぼらしいコートを着て、10キロ近く痩せ薄汚れていた。目は明るくはしっこそうで、まっすぐ正面を見つめていた。唇にかすかな笑みが見える。

 ケイトは感じる「三十年の彼方から、出会いの谷の向こうから見つめる眼差しが、運命の訪れのように見えた。いかにも二十八歳の彼らしい目だ」と。そして著者は次のように予告する。「いつのまにかわたしの思いは過去に向かっていた。苦心して念入りに仕上げた申し分のない現在に背を向けて、過ぎ去ったに日々の甘い不安や、偶然の出会い――その時はひどくでたらめで刹那的に思えたが、時とともに運命に似てきた――を、探していた。そう、私の思いはティンカーとイブへ向かい。ウォレス・ウォルコットやデッキー・ヴァンダーホワイトやアン・グランディンへも向かった。そして、わたしの1938年を彩り、形づくった万華鏡のようなめくるめく出来事へ向かった」ケイトにとってティンカー・グレイは、初恋の人なのだ。初恋の人は忘れられないといわれる。ケイトははっきりと言っている「今でもティンカーが好きだ」と。たとえ最愛の夫がいても。

 さて、ニューヨーク好きには手放せない一冊だろう。そしてBGM、これに尽きると思うが。フランク・シナトラの「ニューヨークの秋」なのだ。文中ではビリー・ホリディだが、私はシナトラのバラードがいいと思う。

 著者エイモア・トールズは、1964年ボストン生まれ。イエール・カレッジ卒業後スタンフォード大学で英語学の修士号を取得。20年以上、投資家として働いたのち、現在はマンハッタンで執筆に専念している。2011年に発表した小説第1作である本書は20言語以上に翻訳され、(ニューヨーク・タイムズ)、(ウォールストリート・ジャーナル)、(ボストン・グローブ)、(シカゴ・っトリビューン)など各紙で絶賛を受けた。以降「モスクワの伯爵」や「リンカーン・ハイウェイ」が好調。

読書「ありふれた祈りORDINARY GRACE」ウィリアム・ケント・クルーガー著 2016年ハヤカワ・ミステリ文庫刊

2024-05-05 20:12:26 | 読書
 読み始めて44頁あたりで、涙が湧き上がるのを感じた。こんな経験は初めてだった。著者の力量を感じた瞬間だった。13歳のボビー・コールという少年が、列車に轢かれて命を落とした。その葬儀の席でこの物語の語り手フランクの兄的存在のガスの言葉だった。

 1961年の蒸し暑い夏、ミネソタ州のニューブレーメンに死が様々な形をとって訪れた。事故、自然死、自殺、殺人。40年後、振り返り語るのはフランク・ドラム。死と向き合う理性と感情の相克を描いて読む者を魅了する。叡智の恐るべき代償と、神の恐るべき恵みについて。

 ドラム家は牧師の父ネイサン、母ルース、姉アリエル、弟ジェイクという家族構成。アリエルはジュリアード音楽院へ行こうかという才能の持つ主。ルースもピアノの名手でソプラノの歌声で魅了する。日曜日の礼拝には母と姉が讃美歌のパートを受け持つ。フランクとジェイクは、教会の後ろの方でその様子を眺めるのである。

 ボビー・コールの事故、名もない人の自然死。アリエルの音楽教師エミール・ブラントの自殺未遂、そして平和な家庭を悲劇のどん底に叩き込んだ、アリエルの他殺体をフランクが発見。重苦しい空気が何日も続く。徐々に人々は生気を取り戻し始めるが、母ルースの回復には時間がかかりそうなのだ。それでもフランクの犯人を捕まえたいという執念は燃え続けていた。

 アリエルを埋葬のあと、教会の懇談室での食事会。父の「どなたか、食前の祈りを捧げたい方はいらっしゃいますか?」「僕がやるよ」と呼応したには、どもり癖のある弟ジェイクだった。フランクは祈った。「ああ、神様、僕をこの拷問から連れ出してください」

 ジェイクが「天にまします我らが父よ、この食べ物と、これらの友と、私たち家族への恵みに対し、感謝します。イエスの御名において、アーメン」ジェイクはどもらずにすらすらと言った。このありふれた祈りがジェエイクに好結果をもたらす。どもり症が治ったのである。そしてフランクの執拗な犯人探しが、意外な犯人で幕を閉じる。

 もう八十を過ぎた高齢でおぼつかない足取りの父と、長身で優雅な身のこなしのメソジスト教会の牧師になったジェイクと、セントポールのハイスクールで歴史の教師をしているフランクの三人が、鬼籍に入った人たちの墓参りに赴く。もう母もいない、近しい人たちもいない。わが身に置き換えても寂しさが迫ってくる。記憶に残る一冊になった。

 この本に限らず多くのミステリー本にも言えるが、生活感も感じることができる。この本で言えば朝食はなんだろう? 夕食は? アメリカのことだからサンドイッチが多い。例えば夕食、ツナ・キャセロールとジェロー・サラダ。毎朝、毎夕フランス料理というわけにもいかない。車や音楽にしても、また生活環境にしても、今とは全然違う。蒸し暑い真夏の夜、フランクの家はエアコンはない。富裕な金持ちたちにはエアコンがあった。日本のその当時を振り返れば、扇風機でしのぐのが関の山だった。歌手は、「プリティ・ウーマン」のロイ・オービソン、「悲しき街角」のデル・シャノン、「アンフォゲッタブル」のナット・キング・コール。車は、馬鹿でかいアメリカ車。日本車の影も形もない。

 著者ウィリアム・ケント・クルーガーは、1950年、オレゴン州生まれ。さまざまな職を経て1998年に発表したデビュー作「凍りつく心臓」でアンソニー賞、バリー賞の最優秀新人賞を受賞。2013年に発表した本書は、アメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)、バリー賞、マカヴィティ賞、アンソニー賞の最優秀長編賞を受賞した。「煉獄の丘」「血の咆哮」など、元保安官を主人公にしたコーク・オコナー・シリーズが好評である。

 せっかく歌手の名前もあげたので、デル・シャノンの「悲しき街角」はいかがでしょうか。その頃を偲ぶのもいいかもしれない。