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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場15番札所長谷寺(ちょうこくじ)」

2009-07-28 13:52:05 | 旅行

          
 今年、2009年の1月からはじめた霊場札所めぐりは、ようやく残す二寺になった。高崎市にある「長谷寺(ちょうこくじ)」と埼玉県ときがわ町の「滋光寺(じこうじ)」である。
 この二つのお寺は、いずれも再訪になる。もっとも長谷寺は、道に迷ったこともあり、夕闇に阻まれてあきらめたし、滋光寺も暗い中の参拝になったので、明るいうちに行ってみたいと思っていた。それで暑い盛りの霊場めぐりとなった。
 この日は、梅雨も空けた関東地方には、最高気温35度のところが多いという予報が出ていた。今回ナビゲーター役の妻は不参加。起きたのが午前2時半、朝食のあと弁当を作って5時自宅を出発する。高速道や一般道を織り交ぜて、長谷寺には午前10時過ぎに着いた。
          
          仁 王 門
              
              阿形(あぎょう)仁王像
              
              吽形(うんぎょう)仁王像
 車の外に出ると、夏の太陽が熱線を浴びせてくる。起きるのが早すぎたせいか眼がしょぼしょぼする。お寺といっても雰囲気に違いがあり、その雰囲気に好き嫌いがあるのも仕方がないことかもしれない。お寺に対するイメージは、人それぞれだろうが、わたしはどうも荘厳さを期待しているようだ。その点からは、このお寺にはない。県道137号線沿いに里山の雰囲気の残るところだが、ギラギラする真夏の太陽に照らされているせいかもしれない。
          
           本 堂
 朱鳥(しゅちょう)年間(686年)に開基されたらしいが、詳細は不明となっている。よく見る名前、行基や最澄、空海などの由来もあるがハッキリしない。源氏(鎌倉将軍家)をはじめ新田氏、上杉氏などの信仰を得た。戦国時代永禄9年(1566年)には武田信玄が箕輪城を攻めたときに類焼したが、天正8年(1580年)世無道によって再興された。
 群馬県指定文化財の十一面観音立像については、総高230センチ、像高180センチで、榧(かや)材の一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)、目は彫眼で素木仕上げとなっている。様式から平安時代後期(藤原時代)の作とされる。また、同型の前立像(まえだちぞう)は、総高270センチ、像高186センチで桧(ひのき)の寄木造、目には玉眼がはめ込まれ、全体に金箔が施されている。右手に錫杖、左手には宝瓶を持ち、鎌倉時代の作と推定されている。とあった。
 そそくさと暑さを逃れるために車に乗り込んだ。ここから秩父を経由して滋光寺に向かう。

デジカメ持って小旅行「円如寺と石堂寺」

2009-07-23 15:06:42 | 旅行

 天候は薄曇りでしかも体調が思わしくない。何か頭がぼんやりとしていてすっきりしない。それでも車を運転すると、気にならなくなる。今日は単独行と千葉県内ということもあってのんびりとしたドライブになった。
 前の晩の夕食に天ぷらの献立にして、残りを弁当に詰めた。朝、弁当用に玉子焼きを作った。わたしは、弁当に入れた玉子焼きが大好きなのだ。今回の弁当は海苔をご飯の間に挟んで、いわゆる海苔弁と相成った。テルモスに淹れた熱いお茶とともに車に積み込んだ。
 一人のドライブと言うのがわたしは好きで、車の中で自由に音楽や空想を楽しむ。とは言うものの時速50キロでの話。前車と間隔を空けていて、後ろから追い上げられると、流れに乗らざるを得ない。横に何かとうるさいのがいないのもいい。 国道410号線を走っていて、例によってトイレに行きたくなった。コンビにもいいがお寺や神社にもトイレがあるので、そちらを探す。丁度好都合なお寺の案内板が目に留まった。早速伺うことにした。
         
          円 如 寺 参 道
         
         仁 王 門
         
         本 堂
 そのお寺は、円如寺という。あとで調べてみると、JR内房線の木更津駅から出ている久留里線の久留里駅に程近いところにあった。周囲は里山の風情が色濃く漂い、緩やかな参道を上っていくとスピーカーから読経が流れてきた。赤い地に「奉納 南無観世音菩薩」と白抜きした文字が鮮やかな、おびただしい幟(のぼり)が林立していた。本堂の前にはテントが張られ地元の人が何人か談笑していた。「こんいちわ」の挨拶を交わして、仁王門の写真を撮ったりしてトイレを借りた。今日は何かあるのだろうかと思ったが体調が優れず訊ねもしないで車に戻った。
 このお寺は応永2年《1395年》の開創で、後醍醐天皇の皇子、大塔宮(おおとのみや)護良(もりよし)親王(しんのう)《延慶元年(1308年~1335年)》の子、教慶法親王が開基したという。江戸時代には久留里城主黒田公の祈願所であった。真言宗智山派の寺院で、本尊は大日如来。
 車に戻る道すがら住宅の庭に出ていたご婦人と挨拶を交わした。これは先方から挨拶をされたからだった。道を歩いていると、孫と遊んでいた人からも挨拶を受けた。最近では滅多にないことだ。都市近郊では、空き巣予防の一つに見知らぬ人を見かけたら、挨拶の声をかけるのもいいと言われている。そう言われていても、ほとんどかけられることはない。この村の人はどちらなのだろう。明らかにわたしは、よそ者と分かる。純朴な村の人の気持ちと受け止めたいが、こんなことを考える今時の世相が悲しい。
 なお、円如寺は、関東八十八箇所霊場第55番札所、東国花の寺第102番札所、新上総国三十三観音霊場第8番札所、上総国薬師如来霊場13番札所となっている。
          
           石 堂 寺
          
           本 堂
 同じ国道410号線が太平洋に突き当たり、交差する国道128号線の手前5キロほどのところに石堂寺はある。南房総市石堂302にあるこのお寺は、国指定文化財等データベースの解説文によると「行基が開創したと伝えられる天台宗寺院である。多宝塔は、天文17年《1548年》の建築で、細部の意匠や全体の構成が整っている。関東地方に残る数少ない多宝塔として貴重である」とある。
 約1300年前の和銅元年《708年》奈良の僧、恵命と東照が秘宝アショカの王塔を護持してこの地を訪れ、草庵を結んでこれを祀ったのが始めといわれている。その後、神亀3年《726年》聖武天皇の勅願を受けて行基上人が来訪、仏教によって国を守り安泰にする鎮護国家を作り、それにふさわしい聖山として堂宇を建立。滋賀の阿育王山(石塔寺)、群馬の白雲山(石塔寺)とともに日本三石塔寺に数えられてきた。
 文徳天皇が仁寿元年(851年)には、天台座主慈覚大師円仁が七堂伽藍を造営のときから天台宗となった。しかし、文明18年(1486年)夜盗の災火によって全山が焼失、再建はその50年後ほぼ現在の形になった。戦国時代には、足利、丸、里見等の尊崇を集め、足利三代を教養、関東天台の雄として名をはせてきた。
 天台宗長安山東光院石堂寺には、国指定の文化財として、本堂・永正10年(1513年)建立、厨子・室町時代(1513年)造営、鐘楼・江戸時代(1783年)建立、薬師堂・桃山時代(1575年)建立、多宝塔・室町時代(1545年)建立がある。
         
          旧 尾 形 家
 それに加え寺内に国指定の文化財の、旧尾形家住宅(千葉県安房郡丸山町)が移築されてある。国指定文化財データベース解説によると、「尾形家は中条流の医者尾形宮内を初代とし、その後この地で名主をつとめたこともある家柄の旧家である。この住宅は十八世紀前半に建設された上層農家で、平面は大型農家の一典型を示しており、千葉県内民家の中では重要な遺例である」とある。
 戸はすべて鍵がかけられ外観を観賞するほかなかった。本当は台所や浴室、トイレなども見たかったが。なぜかといえば、人間の生活の基本の部分を見たいと思うからだ。玄関や客間には興味はない。城郭をはじめとして武家屋敷なども、表向きのものをスーッと見せるだけでは、わが好奇心は満足しない。お寺を訪れている間、参拝の人は一人も見かけなかった。ただ、仁王門の向かいにある幼稚園から、子供たちのにぎやかな声が聞こえていた。なお、石堂寺は安房国三十四箇所霊場20番札所になっている。
         
         きれいなあじさいが咲いていた

デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場4番札所長谷寺(はせでら)」

2009-07-19 10:09:26 | 旅行

 報国寺からバスで鎌倉駅へ。再び人ごみの中に紛れ込んだが、江ノ電の改札口はどこだ? と掲示板や看板を見るがよくわからない。バスを降りたのは東口で、江ノ電はその反対にある。
 どこの駅でも通路があるはずなので、それを探したが見かけたのは江ノ電の案内ポスターだった。それによるとJRの改札をスイカで通り江ノ電の改札で再びスイカを認識させればいいとのこと。JRの料金はかかりませんとも書いてあった。
 江ノ電は四両編成の小さな電車がホームに入ってきた。並んでいた多くの人が車内に納まった。まるで掃除機で吸い込まれたように、ホームはきれいになった。大半に人は、長谷寺や大仏の下車駅である長谷駅で降りる。
            
            「長谷寺」駅の江ノ電車両
         
         改札へは線路を渡る。今は珍しい風景
 駅前からの歩道は狭く人と行き交うのは、田んぼの畦道を歩いている気分にさせられる。日本の観光地もこの程度では、観光立国を目指すのにはチトひどすぎる。           
         
          山 門
 さて、この長谷寺まさに観光寺で外国からの観光客も多いし、もちろん日本人観光客も多い。それに拝観料は、300円が必要。浄土宗系の単立寺院、そのせいだろうか山門があって仁王門はない。
         
          本 堂
 天平8年(736年)大和の長谷寺の開基でもある徳道上人を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。その言い伝えによると、養老5年(721年)に徳道上人が楠の大木から2体の十一面観音像を造り、そのうち一体を大和の長谷寺の本尊とし、あとの一体は、開眼供養の導師をつとめた行基によって衆生済度(しゅじょうさいど:この世の中に生きるすべてのものの苦悩や迷いを救うのが仏の本願)の願が込められ海中に投じられた。その15年後、相模国の三浦半島に流れ着いた尊像を安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺となった。
 とにかく人が多く遊園地にでもきたような気分になった。
         
          本堂の先にある休憩所からの鎌倉市内
         
          境内はこのように人人人
 この近くに川端康成記念館があって、ぜひそちらにも行ってみたかったが、場所を尋ねた佐川急便の人に「閉まってますよ」と言われ、残念ながら諦めた。鎌倉駅であまり待たずに千葉方面ゆきの電車に乗って、自宅には午後4時ごろには着いた。

デジカメ持って小旅行 番外編 浄妙寺と報国寺(じょうみょうじ・ほうこくじ)」

2009-07-15 06:41:37 | 旅行

          
浄妙寺

 杉本寺から歩いて数分のところに、このお寺はある。稲荷山と号し鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古刹であり、臨済宗は釈迦如来を本尊とする。
 源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(よしかね)(1199没)が文治4年(1188年)に創建し、はじめ極楽寺と称した。開山は、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)律師(りっし:戒律を保ち、徳望の高い僧)で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の弟子月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹にあらため、次いで寺名も浄妙寺と称した。
 寺名を改称したのは正嘉年間(1257年~1259年)とみられる。中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。至徳3年(1386年)足利義満が五山の制を定めたころは七堂伽藍が完備し、塔頭(たっちゅう)二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡等で伽藍を形成している。
 境内は、国指定史跡。浄妙寺バス停の脇に寺の専用駐車場があって500円が必要。杉本寺と比べるとこちらの方が参拝者や観光客が多い。仁王門はなく(禅宗はないと思う)総門を入ると拝観料100円で入場を許される。
 この禅宗のお寺は、どこでも神社を連想させられるのはわたしだけか。本堂から読経がかすかに流れてきた。庭の手入れで脚立が木に立てかけてあった。
             
              レストランで順番を待つ人たち
 そしてここには、石窯ガーデンテラスというレストランがあってかなり賑わっていた。お寺にレストランとは、商魂たくましい。墓場の陰か天上からか知らないが、開基の高僧は“後世の人間は高潔さに欠けるなあ”と苦笑いしているかもしれない。
                
                竹 林       
報国寺
 浄妙寺からすぐのところにある。ここも人気のあるお寺のようだ。孟宗竹の竹林でも有名。建武元年(1334年)天岸慧広(れんがんえこう)の開山により創建されたと伝えられ、開基については足利尊氏の祖父足利家持とも上杉重兼ともいわれている。臨済宗における寺格は諸山に列せられていた。
 永享10年(1438年)に起きた永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏の子、義久がこの寺で自刃した。臨済宗建長派の寺院で、本尊は釈迦三尊(シャカとその両側に並ぶ文殊(もんじゅ)・普賢(ふげん)・三菩薩の三体)。
            
             総 門
 高級料亭を思わせる総門を入っていくとなだらかな上り坂の途中から本堂の屋根が見える。不謹慎かもしれないが、その本堂が宴会場に見えた。今から芸者を挙げて宴会でも始まる雰囲気だった。どうも仁王門で仁王像の門番に会わないと、料亭と錯覚するわたしはとんでもないヤツなのだろう。
            
            本 堂
 しかし、本堂の前に立つと、そこはやはり仏のお住まいだった。

デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場1番札所杉本寺(すぎもとでら)」

2009-07-11 17:13:16 | 旅行

           
           バス通りから入り、階段の奥に仁王門がある
 横浜市南区弘明寺から、土曜日で乗客の少ない横浜市営地下鉄とJRを利用して鎌倉の駅に降り立った。行楽シーズンとあって、駅前は年齢も高齢者から十代の若者の雑多な人びとと、それに外国からの観光客も混じって大変な混雑。
 今日は暑くなるという天気予報通り、陽は燦々と降りそそぐ眩しさに目を細めて駅前風景を見回した。これから行く杉本寺に連れて行ってくれるバス停はどこか。 事前に調べてあったせいか、何の苦もなくすぐ見つかった。京急バスの「ハイランド」行きに乗り込んだ。このバスもスイカのカードが使えるとはありがたい。
 バスは鶴岡八幡宮前を右折しながら、やがて喧騒から抜け出し杉本寺バス停に着く。
           
 このお寺は天平6年(734年)の春、光明皇后の御願により藤原房前と僧行基に堂宇建立を命じた。行基は十一面観世音を彫り安置した。
 ついで、仁寿元年(851年)に僧円仁(慈覚大師)が参籠した折、十一面観世音を刻み安置した。また、寛和2年(985年)僧源心(恵心僧都)が花山法皇の命により十一面観世音を刻み安置し都合三体の本尊となった。
 文治5年(1189年)11月23日夜、隣屋の火災で類焼の際、この三体の本尊自らが境内の大杉の下に避難したといわれ、杉の本(もと)の観音として寺の名前の由来となった。建久2年(1191年)には源頼朝がこの寺を再興したという。天台宗の寺院で鎌倉最古の寺とされている。
 拝観料100円を払って仁王門への階段を上がっていくが、今日は修理中ということもあって、足場が組まれ仁王像はビニールで覆われていた。
               
 その仁王門をくぐると、遮断の横木の向うに青々と苔むした旧階段が本殿にのびていた。
よく見ると石段はかなりすり減っていた。ほぼ1,200年の時を経た石段と思うと、気の遠くなる感覚を覚えた。その石段を回り込むように新しい階段が設けられていた。帰路、拝観料を支払った係りの女性に、旧階段は苔むすままにするのですか? 仁王像の作者は分かりますか? と尋ねた。階段は苔むすまま、仁王像は運慶作といわれているとの返事だった。弘明寺の仁王像も運慶だったので、運慶さんもお忙しいようだ。

デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場14番札所弘明寺(ぐみょうじ)」

2009-07-07 13:32:23 | 旅行

          
           本 堂
 この弘明寺をはじめ鎌倉の杉本寺には駐車場がない。ということは、電車やバスの利用になる。わたしの住む千葉の鎌取からは、東京湾をぐるーっと半周する恰好になる。JR東日本のホームページでみつけたお得なチケット一日乗り降り自由の「ホリデーパス」を購入した。
 事前に料金の比較をしてみると、通常の切符を買っていくより、900円ほど安くなることが分かった。エリアは限定されていて鎌倉はその範囲内だった。その料金は2.300円。出かける日の土曜日、JR東日本のジパング会員カードのスイカに追加チャージをしておいた。土曜日を選んだのは、通勤・通学の混雑がないからだ。
 横浜駅には午前9時11分に着いた。それから京浜急行に乗り換える。スイカで切符購入の煩わしさがない。朝方曇っていた空が、弘明寺駅では陽射しが出ていた。 駅周辺は、郊外の宅地開発で見違えるように立派になった駅と違って、朝餉の味噌汁の匂いが漂うような懐かしい雰囲気があった。その駅前の坂道を下っていくと、横浜市南区弘明寺町にあるお寺に行き着く。
 商店や住宅が密集している坂道の途中に山門があった。そこから入ったが、仁王門のある本来の入口は、鎌倉街道(地方道21号線)から商店街に入ってアーケードの先に位置する。
          
             
              吽形仁王像 ご面相は、インド系と思わなくもない
             
              阿形仁王像
 横浜市教育委員会が設置したお寺の由来を引用すると“弘明寺は、瑞応山蓮華院と号す真言宗の寺院で、寺伝(辞書にない単語ではあるが、よく使われている)によると、今から1,200余年前、天正天皇の養老5年(721年)、インドの善無畏(ぜんむい)三蔵法師が、仏教弘通(ぐずう:「仏教が広まる」意の古語的表現)のため、日本渡来の節開創されたお寺で、それより17年後、聖武天皇の天平9年(737年) 諸国に悪病(どんな病気だったのか? 北山茂夫著「女帝と道鏡」には、大疫瘡とある。この瘡は、かさぶたの意と梅毒という意味もある)流行の際、行基菩薩が勅命により、天下泰平祈願のため、全国巡錫(じゅんしゃく:徳の高い僧が各地を回って仏法を説くこと)の際、当山の霊域を感得し草庵をつくり観音様を彫刻し安置された。
 鎌倉時代には、源家累代の祈願所とされた。本尊の木造十一面観音立像は、関東に遺る鉈(なた)彫りの典型的な作例として有名なものである。(鉈彫り像とは、丸のみの彫り痕を像表面に残した特殊な彫り口の作品をいう)像高181.7cm、ケヤキ材、丸彫り、一木造り、平安時代(11~12世紀のころ)の作。
 造形はかなり荒々しく、かつ粗略なもので、一見未完成のような印象を受けるが、全身にわたって丸のみの痕を規則的に横縞目に残しており、顔面は肉身や着衣に比べきわめて入念に整えられている。彩色は、わずかに本面の唇と化仏(けぶつ)の唇に朱を点じ、眉目、口ひげ、胸飾を墨で描いている”
            
            七つ石 見えるのは六つだが手前に一つ隠れている
 このお寺には七つ石の由来があって黒い丸石が七つ鎮座してあり、その説明によると“天平時代(710年~784年)、インドの善無畏三蔵法師日本へ渡来し、全国巡錫の際瑞雲(めでたいとされる紫色や五色の雲)になびく当山の霊域を感得し、陀羅尼(呪文として唱える経文中の長い梵語の句)を書写して七つ石の盤石を埋め、道場として結界し境域を定むとの寺伝あり、以来当寺の歴史は始まる。石に尾りょ石・福石と刻みあり、万人に吉事を授く霊石として今なお信仰を集めている”と言うありがたい石らしい。
 江戸時代中期の寛政10年(1798年)の作といわれる梵鐘は、横浜市指定の有形文化財となっている。なお、仁王像は、運慶の作とも言われているとお寺の人が言っていた。
           
 門前商店街のアーケードを鎌倉街道に下っていくと、「車は通れません」という電光掲示板が屋根からぶら下がっていた。ところが車が入ってくるので、お店の人に聞くと「午後1時まではOKです」という。初めてくれば戸惑うことになるなあと思いながら地下鉄「弘明寺」駅の階段を下りた。

川端康成「山の音」

2009-07-03 13:07:28 | 読書

           
 この「山の音」は、名作だとか傑作だとか言われている。そう言われているからと言って、同調することもない。読み手の感性がそれを判断すればいいだけのこと。 とはいっても川端康成は、ノーベル賞を受賞するほどのスーパー・スターだ。このレベルになると、決して読者を裏切ることはない。古臭い陰気な物語も、途中で放り出すこともなかった。
 この本も60歳を超えた男の心情を、細やかな襞を重ねるように個性を表現した語り口が印象に残る。もっと砕いて言えば、性的な匂いに包まれたきれいな日本語で表現してあるとでも言えばいいか。
 尾形信吾は61歳になる。妻保子は、一つ年上の62歳。鎌倉に住んでいて、東京の会社に出勤している(現在でも一時間近くかかる。当時は冷房がなかったので、夏の通勤は大変だっただろう)。息子の修一も同じ会社に勤めている。息子の嫁菊子ともども同居していて、四人家族で住んでいる。
 最近まで女中を使っていたというからかなりの資産家なのだろう。当時、昭和24年ごろ(1949年)といえばどこにでもある日本の家庭風景だろう(家族構成に限れば)。修一はかなりハンサムで、妻の菊子も美人だった。そんな妻を持ちながら、修一は別に女を持っていた。不憫を思う信吾が、徐々に菊子に一方ならず思いやりを示すのも自然なものに思われた。
 しかし、信吾には人には言えない、ましてや妻の保子には言えない秘密があった。それは保子の人妻の姉に恋焦がれたことだった。いまだに早く他界した義姉の面影が菊子に重なるようにまとわりつく。どうしても菊子が気がかりになる。気がかりになると挙動の観察が細かくなる。
 修一の相手というのは、戦争未亡人だった。信吾は修一がほかの女と関係を持ち始めてから、菊子の体つきに変化を見ていた。川端康成は次のように表現する。“菊子のからだつきが変わった。さざえの壺焼の夜、信吾が目を覚ますと、前にはない菊子の声が聞こえた”これは修一が未亡人から受けた技巧で、菊子が愉悦の声を上げたということだろう。川端康成は絶対に直截的な表現はしない。
 直截的でないだけに、非常にエロティックに感じられる。ある人が「川端康成は、性作家と言ったか性表現の巧みな作家」と言ったかはっきりしないが、そんな記事をどこかで読んだ記憶がある。まさにそういう作家で間違いないだろう。
 花のひまわりを見て“さかんな自然力の量感に、信吾はふと巨大な男性のしるしを思った。この蕊(しべ)の円盤で雄しべと雌しべとが、どうなっているのか知らないが、信吾は男を感じた”
 “ワイシャツを脱ぎ、シャツを着替えるとき、修一の乳の上や腕の付け根が赤くなっているのを、信吾は見て、嵐の中で(台風が来た夜があった)菊子がつけたのかと思った”というような記述が随所に出てきて、信吾もまだまだあちらのほうは元気なのだろうと想像するが、戦中からずっと女の肌に触れていないという。
 それはあきらめたわけではなく習い性になっただけという説明だ。妻と同じ部屋で寝ているが“保子はいびきの癖があったが結婚で止まっていたのが、五十を過ぎて再発した。信吾は保子の鼻をつまんで振るようにする。それでもとまらない時は喉をつかまえてゆすぶる。それは機嫌のいいときで、機嫌の悪い時は、長年つれ添ってきた肉体に老醜を感じる。今夜も機嫌の悪いほうで、信吾は電灯をつけると、保子の顔を横目で見ていた。喉をつかまえてゆすぶった。少し汗ばんでいた。はっきり手を出して妻の体に手を触れるのは、もういびきをとめる時くらいかと、信吾は思うと、底の抜けたような哀れみを感じた”とある。
 これは男の傲慢さを感じるが、信吾が菊子を性的に見つめる伏線となっているように思う。菊子のうなじの美しさや、体につけた香水の匂いに心が乱れる様は、信吾の内奥を表している。
 信吾が老醜を嫌うのであれば、若い肉体に傾斜していくはずが、若い芸者と小部屋に入っても何もしなかった。まるでのちの作品「眠れる美女」ではないか。「眠れる美女」は高齢の男が、眠っている若い女と横臥しながら肌に触れないという、なんともわたしには理解しがたい精神世界を描写してあった。
 この「山の音」は、信吾と菊子の濃密な関係が目を引くが、妻の保子や出戻り娘の房子と二人の子供、それに信吾の会社の秘書谷崎英子、修一の女絹子といったバイ・プレイヤーの存在が、一小市民の日常に欠かせないものになっている。
 言ってみればこれは一人称の小説で、信吾の視点だけで人物を浮かび上がらせ描写している。一人称は、平板になりやすいともいわれるが、「山の音」はそれを感じさせない。
 この小説は読者が限定される。60歳以上で若い女性に視線を這わせチョットした妄想を楽しめる人なら、信吾の気持ちが痛いほどわかるだろう。若い男やましてや女が読むのは、時間の無駄というものだ。ただし、川端康成の文体を楽しみたいと思うなら、それはそれで意味のあることだろう。