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マンガ ゴトウユキコ「R-中学生」

2010-06-29 14:23:06 | 読書

           
 なんだって! いい年してマンガ? なんて言わないで!
実は新聞の紹介欄で褒めてあったので手にとって見た。この種のマンガ本は、図書館にはないので買った。今の中学生がどんなマンガを読んでいるのか興味があったというわけだ。
 中身は、中学生の性衝動がすべて。女子に対する臭いフェチ、オナニー、下着フェチなどを赤裸々に描く。これを嫌らしいものと断定するか、しないか。考えてみれば、自分の思春期を思い出してみると同じようなものだった。ここまで描いた本が無かっただけだ。
 アマゾンには、本のレビューが掲載されている。その中の一つを引用してみよう。「バカで、エロで、深い。こんなマンガを読みたかった。こんな青春を送りたかった。絵がすごく上手い。上手い,綺麗という意味ではない。感覚的に上手い。好き嫌いは分かれるかもしれないけれど、個人的にはものっそい好きです」
 このレビューを書いた人の興味がある分野には、民俗学、文化人類学、社会学、宗教学、心理学、会計学ほかがある。したがって「ダンゼン得する個人事業者のための会社の作り方がよく分かる本」や「社長ネットがありますよ! ヒトがいない。カネがない。仕事がない」にもレビューがある。
 マンガが一つの文化であって、幅広い層に読まれているのが分かる。マンガを異端視する私のような年代に、お暇な時Bookoffででもさがして読んでみるのも、思春期を回想するよすがになってくれると思いますがいかがでしょう。
            
                

デジカメ持って小旅行 会津のお寺紀行(3)

2010-06-26 13:24:24 | 旅行
 6月4日午前4時半起床。いつもは6時半ごろ起きるが、昨夜は早く寝たので目覚めが早い。日の出には少し早かった。午前5時前、山の稜線から真っ赤に燃える燭光が現われた。今日も穏やかな朝だ。
           
           すがすがしい日の出
           
           朝の斜光を受けるキャンプ場
 クーラーから缶ビールを取り出した。キャンプでの朝のビールは旨い。私の楽しみの一つ。で、お日様に乾杯。
 管理棟は朝8時半には窓口が開くと聞いているので、それにあわせて撤収の予定。午前7時というのにもう日差しは肌を焼くほどの強さになっていた。テント、タープを畳んでその他こまごまとしたものを車に積み終わると、ひと汗かいてビールのアルコール分は抜けてしまった。
 地元では鶴ヶ城と呼ばれる会津若松城の側を通り国道49号線に出る。事前に作ってあったラリーなんかで使うコマ図(私のは相当な略式)に従って勝常寺についた。このお寺は、弘仁年間(810年~824年)徳一によって開かれたと言う。創建当時は、七堂伽藍の荘厳さを保っていたが、応録5年(1398年)に焼失。室町時代初期に薬師堂が再建された。国宝に薬師如来坐像、日光菩薩坐像、月光菩薩坐像があって薬師堂に安置されている。ところがここでも不運に見舞われた。「六月四日、五日仏像拝観休み」という無情の張り紙には、大谷資料館の休館に続き、なんとも尽きの無い星回りに言葉もなくただ立ち尽くすのみだった。国指定の重要文化財として薬師堂ほか多数。
           
           勝常寺仁王門
           
           勝常寺本堂
           
           拝観休みの無情の張り紙
 次は北上して喜多方市にある願成寺。会津大仏としても有名らしい。嘉禄3年(1227年)浄土宗の開祖法然の高弟隆寛が開基したと伝えられる。国指定の重要文化財として、木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像があり、鎌倉時代の作といわれる。
           
           喜多方市の願成寺
           
           会津大仏
 さて、帰路に着いた。国道121号線から2008年に開通した国道289号線を走る。ここはかつて栃木県と福島県を甲子峠で越える林道が結んでいた。楽しい林道走りだった。今は長いトンネルで一気に栃木県に入る。ここでも雷雨の歓迎を受けた。さらに、新国道4号線の宇都宮付近でも強烈な雷雨に見舞われた。なんと今回二日間で三回も強い雷雨と遭遇したことになる。おまけに休館や拝観休みまで加わった。ガソリンの浪費に終わった今回の旅だった。

デジカメ持って小旅行 会津のお寺紀行(2)

2010-06-25 14:37:32 | 旅行
 疲れが出たからといって、ここでへたり込むわけにいかない。大谷資料館から国道293号線→国道119号線通称日光街道の今市の商店街を走り抜ける。多くの商店がシャッターを下ろしていた。これも最近よく目にする商店街衰退現象だろう。一抹の寂しさを感じる。
 今市からは国道121号線に入る。空模様が怪しくなってきて、鬼怒川温泉付近で雨が降ってきた。それもすぐに止んだ。この国道121号線は、ちょくちょく走った道で、川治温泉から地方道23号線を経て戦場ヶ原へ抜ける未舗装だった山王林道(紅葉期は特に美しい)。あるいは、野うさぎを見かけた素朴な奥鬼怒の温泉。さらに地方道23号線から県道350号線を辿り標高1926㍍の田代山の登山。ちょっと北に上がって平家落人伝説の里湯西川温泉先の安ヶ森林道を楽しんだりしたところだ。
 そのころは、4WD車の流行る前で普通の2WDのセダン、マニュアル・ギアで走っていた。ほとんどの林道は舗装されていなかったので、雨のあとなどは道路に水溜りが出来ていて無闇に乗り入れられない。水に隠れて(大体この水溜りは、概して大きく濁った水)大きな石や窪みがあるかもしれない。石で亀の甲状になったり窪みにはまり脱出不能という事態も想定される。
 従って車には、牽引ロープやスコップ、毛布、懐中電灯、登山用ザック、登山靴、補助食料などを積んでいた。最悪の事態に備えるために。山奥で車を動かせなければ、歩くしかないからだ。幸い歩くことはなかった。そんな昔が懐かしい気がする。
 あれこれと思い出しながら、国道121号線をひたすら走っていた。また、雨雲が湧き出してきた。田島を過ぎたあたりだった。助手席の妻が道端の看板に目を止めて、養鱒(ようそん)公園いこいの広場に行ってみようという。時刻も午後四時になっていて、暗くなってからのキャンプの設営を嫌っていた。途中で観音沼森林公園の看板も見て、キャンプ場がある可能性は森林公園だといいそちらに向かう。ところが無かった。軽トラに乗ったおじさんに聞くと、そこの駐車場でキャンプをする人をよく見るよと言う。駐車場は、舗装してあってテントの設営はムリだった。あのおじさんに軽くあしらわれたようだ。
 仕方が無いから予定地に向かった。そのときだった。強烈な雷雨がフロントガラスを叩き、前方も霞んで見づらい走行を強いられたが、それも五分ほどで収まった。地図を見て会津若松手前にせせらぎオートキャンプ場があるのを確かめ、まだ明るさの残る午後6時には着いた。河川敷の整備されたキャンプ場だった。つづく⇒

  
           
            キャンプ場の落日

デジカメ持って小旅行 会津のお寺紀行(1)

2010-06-24 13:23:23 | 旅行
 予想最高気温をチェックすると、会津若松で26度とあった。これならキャンプOKだ。しかも好天が続くらしい。6月3日午前9時自宅を出た。朝の予報では、急な雷雨があるかもしれないとも言っていた。訪ねるお寺は、福島県河沼郡湯川村にある勝常寺(しょうじょうじ)と福島県喜多方市上三宮町にある願成寺(がんじょうじ)である。
 井沢元彦著「古寺歩きのツボ」で、訪れておきたい古寺一覧リストに載せられているお寺だ。それに加え、途中宇都宮の大谷資料館に寄り道する計画だ。この大谷資料館は、大谷石の採掘跡で、美術展やコンサートが開かれる巨大地下空間というからぜひ見たいと思っていた。この日は夏日ではあるが冷たい空気が流れ込んで爽やかさもあった。
 国道6号線の取手から国道294号線に折れる。いつもは国道4号線を走るが、目先を変えたくなって294号線を走ることになった。どこを走ってもあまり代わり映えしない。どこにでもある日本のちまちました風景だ。
 茨城県下妻市に入って正午になった。田んぼの真ん中に広大なイオン下妻ショッピングセンターが見え、小貝川ふれあい広場の標識に誘われるように駐車場に乗り入れた。木陰を探して停めた。昨夜の夕食をわざわざアジのフライやエビの天ぷらにして、弁当の惣菜とした。正午のNHKラジオの放送を聴きながら、フライや天ぷらに卵焼きを加えた弁当をあけた。コンビニなんかの弁当と家庭で作る弁当に違いがあると思うのは私だけだろうか。家で作る弁当はなぜか旨い。
 余談ながら、私の作る卵焼きには砂糖を入れるがほんのちょっぴりだ。隠し味で卵焼きに甘さはない。関東地方の甘い卵焼きにはどうしても馴染めない。
 右手遠方に筑波山を望みながら先を急ぐ。宇都宮市の大谷資料館には午後2時過ぎに着いた。ところが木曜日は、休館日だった。大谷資料館のホームページも見たが、そこまで気が回らなかった。たいてい月曜日の休館が多いと思い込んでいたためかもしれない。一気に疲れが出てきた。つづく⇒
          
          筑波山を遠望
          
          大谷資料館近くの公園にある大谷石の崖
          
          せせらぎキャンプ場

読書 スー・グラフトン「ロリ・マドンナ戦争」

2010-06-21 10:35:58 | 

           
 1960年代のテネシー州の片田舎。フェザー家とガッシャル家の確執を冷たい秋の風景と冷たいバイオレンスに包まれて描かれる。家長としての存在を冷酷に示す両家の父親像は1960年代というよりも100年も遡った1860年代を彷彿とさせる。命令は絶対であり反抗は許されない。違反者は死ぬ苦しみを味わう。
 ライフル銃やショットガン、拳銃が、粗末な小屋と家族を守る。長く続く両家の諍い。路傍を歩いていたロリ・マドンナをフェザー家の男たちが拉致する。このロリ・マドンナをガッシャル家の娘と思い込んだ結果だった。
 フェザー家には、五人の息子がいる。ガッシャル家には、三人の息子と一人の娘がいる。ロリ・マドンナを挟んで両家の人間ドラマが展開される。人の命も失われていく。
 アルファベットのAから始まるキンジー・ミルホーン・シリーズで成功を収めたスー・グラフトンの別の顔が楽しめる。もともとスー・グラフトンは、テレビ映画の脚本を書いていたようである。この作品は、スー・グラフトン29歳のときのもので、丁寧な人物造形や仕草、風景の描写が厚みを加えている。

読書 デボラ・シャープ「ママのトランクを開けないで」

2010-06-18 10:37:53 | 読書

            
 シャーベットオレンジのパンツスーツを着て、それに合わせたパンプスを履いたママ62歳のロザリー・デブローが警察署で座っていた。原因はママの車のトランクから男の死体が発見されたからだった。
 ママには三人の娘がいる。長姉のマディ、中学校校長。末っ子のマーティ、図書館司書。そして次女で主人公のメイス、森林公園で動物保護の仕事をしている。
 女四人の個性を際立たせながら、メイスが犯人に近づいていく。犯人探しの物語はどこにでもある。いずれ犯人が分かることも決まっている。そこまでの過程をどう描くかが勝負の分かれ目だ。
 この本は、アメリカン・ミステリーによくあるユーモアや比喩が横溢しているが、ちょっと回りくどく感じるところもある。ところはフロリダ州オキチョビー湖の脇を走る州道98号線にあるヒマーシ(架空の町)。メイスが警察署に入っていって「すみません」と言った。受け付けの彼女は雑誌から顔を上げ、私のことを、道端で踏んづけて靴の底にくっついた何かででもあるかのように見つめた。これはくどいと思った所の一つ。
 マディからの褒め言葉は、七色の猫よりも珍しいとか闇よりほかに何も見えなくなったは、気の利いた言い回し。それに面白いのはメイスの朝食で、バターを塗ったトースト二枚にバナナのスライスを挟んだものだ。食べたことはないが、悪くはない気がする。私の朝食もトマトジュース、ベビーチーズ一個にバナナ一本だから。
 もう一つ面白い比喩。メイスが行方不明になった女性が飼っている猫を誘い出すとき、猫というものは男みたいなもの、興味を示しすぎるとそっぽを向いて逃げてしまう。知らん顔をすると必死で追いかけてくる。というのを思い出す。これは何も男だからでなく、女も同じだろう。
 それに女が男を見る目は、どんな目なのか。厚い胸板に引き締まった腹を見るメイスは疼きを感じる。これなんか男が女の胸や尻に感じるものと共通している。しかもメイスは、寝る時はトランクスを脱ぐのだろうかと頭の中をめぐらす。
 女性たちを個性豊かに描いてあるが、もっと言えば中学校長のマディ、図書館司書のマーティの私生活の描写をサイドストーリーとしてあれば厚みのあるものになった気がする。
 著者は、1954年フロリダ州生まれ。ジョージア大学大学院卒業。USAトゥデイ紙に記者として20年以上勤務したのち、2008年に本書でデビュー。3作まで上梓されている。 

読書 ロブ・ホワイト「マデックの罠」

2010-06-14 09:45:19 | 読書

            
 この本は、児童向け図書であるが大人が読んでも十分に応えてくれる。作家の逢坂剛が、新聞に紹介していた。児童向けとあって漢字にかなが振ってあるのがややめざわりといえなくもない。読後感は実にスリリングでしかも偶然や嘘っぽい表現が全くない。ストーリーの組み立てがしっかりしていて、しかも不要で饒舌な部分もない。一級の冒険小説だ。
 600人の人間を雇用する会社を経営するマデックという男。人当たりがよく信頼できるという印象を与えるが、これまでの事業展開でここまで成功するには、狡猾で残酷な面も持ち合わせていた。
 ビッグホーンの狩猟ガイドを引き受けた大学生のベンがまさかの苦境に突き落とされるとは、夢にも思っていなかった。それは、マデックがビッグホーンと見誤って撃ったのが、砂漠をさすらう老人だった。まさに事故だったが、手に汗握る物語が展開される。
 砂漠でのベンの死線をさ迷う様子は勿論だが、私はむしろ後半の治安判事や保安官それにマデックの弁護士たちの事前調査の緊迫したやり取りから目が離せなかった。
 ようやく嫌疑が晴れたベンに治安判事は言う。「さて、われわれは、マデック氏を告発しなければならない。罪状は……殺人未遂……加重暴行……」治安判事は、ベンを見た。
「彼は君を殺そうとしたんだろ、ベン? 彼は君を撃った。きみ、証言してくれるね、彼が殺人を行う意図のもとに、凶器によって暴行を加えた、と?」
「いや、それはしません」ベンは答えた。
「僕がここへ来たのは、事故の報告のためなんですから」
 小説はここで終わる。治安判事の言う、殺人未遂や加重暴行をマデックは行った。ではなぜこの結末にしたのか。ベンの崇高な人間性を描出したかったのだろうが、ややキレイごとと思わないでもない。この本は、学校の副読本として格好の素材で、教室で大いに感想を述べ合うのも楽しい時間の過ごし方だろう。なお、本書は、1972年度アメリカ探偵作家クラブの最優秀ジュニア向けミステリー小説としてエドガー・アラン・ポー賞を受賞した作品。
 著者は、フィリッピン、ルソン島生まれ。アナポリス海軍兵学校卒業。第二次大戦中は、パイロットや潜水艦、航空母艦に乗り組む。瀕死の重傷を負うこともあったが、海軍をやめてから、中東クルディスタンの洞窟、カリブ海の孤島など世界各地を探検しながら多くの作品を書いた。一時ハリウッドで映画の脚本も手がけテレビドラマの「ペリー・メイスン」の脚本もある。

読書 毛利孝一「死の瞬間」

2010-06-10 10:48:16 | 読書

           
 生き物は生まれると同時に死に向かって前進を始める。死ぬまでの時間が生き物の種類毎に決められているようだ。夏の夕暮れ、浮遊するゴミを思わせる小さな虫が、雲霞のように丸く固まりながら移動するさまを見ることがある。
 彼らは一体何をしているのだろう。彼らは生殖行為をしているという。彼らの一生は、約五分だそうだ。五分の間に子孫を残そうと懸命な努力をしている。人間も同じで第一の目的が生殖、あとは生きるための仕事に従事する。人間の生涯は、概ね80歳前後が標準だろう。 生殖を終えて、持ち時間の残り少なくなった人間の考えることは、死に直面する恐怖だろう。なぜ死が恐いのだろう。それは死の瞬間のイメージによるところが大きい。
 「人間死ぬ時はどんな見苦しい死にざまだって免れない。みんなもがいて、苦しんで、みじめに死んでいきますよ」
 これは名脳外科医といわれた医師の言葉だそうだ。この言葉が代表されるように、多くの人の心に苦しみと惨めさに包まれた恐怖が住みついている。
 ところが著者の毛利孝一さんは、「ほう、そうかなあ!?」と思う。というのも毛利さんは、長年の開業医で多くの人の臨終に立会い、また死線をさ迷った人にも接してきた。しかも自身、脳卒中や心筋梗塞の体験もあって、「あのまま死んでいたら死ぬというのは楽なことではないか」と、意識が戻ったときの感想だそうだ。
 脳卒中の発作の様子が書かれている。「何かぼうっとして、雲にでも乗ったような気分だったことです。それもふわふわした羽根布団にでも包まれているように、寝ている自分の両わきや足もとにオレンジ色の雲がむくむく重なっていて──色も見えました──それに埋まるようにして空に浮かんでいる全く無重力の状態です。
 そしてそういう自分の姿をもう一つの自分が、山藤章二さんの漫画の片隅にいる小人のように、隅から見上げて眺めている、という風景です。面白いのは自分を包んでいるその雲の肌触りが、暖かく柔らかく両肘や脚に感じられるのですが、その快い感触は、浮かんでいる自分が感じているのか、眺めている方の自分が感じているのか分からない、両方の自分がその快さを感じているといった奇妙な感じがちらとしたことを憶えています。全体の気分は何一つ苦痛もなければ不安もない、ゆったりとした、最上に安楽な解放された気持ちでした。その心境とイメージが今もわたしの記憶に深く刻み込まれて残っているのであります」 
 著者は内科医として開業していて死を看取ったのも高齢者が多い。高齢になるほど死にざまは穏やかだそうだ。長生きするほど安らかに死ねるのは確かなようだ。それはある研究報告にも表れているという。
 ところで、著者の実体験は誰でも体験できるものでもないし、その原因の究明に至っては一般人には不可能だ。従って確かめる術がない。そこは著者の親切で、いろんな文献から引用されている。
 原因については、血液循環が低下して、脳の酸素欠乏が進むと、人々は苦しみを感じなくなるのだろう、と言う。そのとき発生するのがエンドルフィンという物質だそうで、モルヒネのように鎮痛作用があるようだ。
 このような体験は、柔道の落ちるという意識がなくなるときが、桃源郷に遊ぶような陶酔感に包まれるという。そのまま絞めていけば死に至る。絞殺というまがまがしいものも、案外殺される方はそれほどの苦痛もないのかもしれない。
 さらに登山家の転落体験、ランナーズハイに至るまで詳しく記述してある。しかし、果たして誰でも夢見るように冥界の門を叩けるのだろうか。これには終末医療の問題があるようだ。
 末期患者の病室の模様は、病気の種類にもよるのかもしれないが、概ね患者の意識はない。しかし、酸素マスクが鼻から口にかけてあり、点滴がぼとりぼとりと落ちている。手足には血圧計や心電図のバンドが巻かれている。やがて心臓停止のピーという音が響く。
 医師は心臓蘇生器で死者を飛び上がらせる。そして「ご臨終です」という医師の言葉。この医師の一分一秒も長く命を永らえさせる行為は崇高ではあるが、患者の立場を考えると素直に頷けないという。
 著者も酸素マスクや点滴も本人の意志に従って取り払い安らかな眠りにつかせてはどうか。と体験的に主張している。私もそろそろその局面に対応する準備がいるようだ。この本で少し死の恐怖が和らいだ気がする。
 著者は、1909年(明治42年)名古屋市に生まれ、第八高等学校、名古屋医科大学卒業、1946年内科医院を開設。名古屋内科医会会長、愛知医科大学客員教授、名古屋大学講師を歴任。2002年没。

デジカメ持って小旅行 秩父札所めぐり 1番四満部寺(しまぶじ)から10番大慈寺(だいじじ)まで(5)

2010-06-06 06:49:41 | 見て歩き

 いよいよ最後の二寺になった。九番目は、札所三番の常泉寺。地方道11号線から住宅に挟まれた細い道を行くと駐車場がある。両側に田んぼが広がっていてその先に森を背景に常泉寺はある。
 弘化4年(1847年)に消失したが、安政5年(1858年)に再建された。本堂左手の観音堂は、明治3年(1870年)に秩父神社境内にあった蔵福寺の薬師堂を移築。軒には見事な海老紅梁の龍の籠彫(かごぼり)を見ることが出来る。この籠彫というのは、彫刻の技法の一つ。籠のように内部を透かし立体的に彫り上げる方法。本尊は、聖観世音菩薩
         
         田んぼに囲まれた常泉寺への道
         
         薬 師 堂
         
          龍の籠彫
 そして最後の十番目。札所十番大慈寺(だいじじ)。同じ地方道11号線にある。道の脇に駐車場があった。ほんの少し歩く。石段を上がると仁王門がある。仁王像を撮ろうとしたがムリだった。撮影の便宜がない。延徳二年(1490年)秩父大宮郷の広見寺の東雄朔方禅師によるとも、明応二年(1391年)に同じく東雄禅師による再興ともいわれている。本尊は、聖観世音像で恵心僧都の作と伝えられている。
             
              仁 王 門
          
              本 堂

デジカメ持って小旅行 秩父札所めぐり 1番四満部寺(しまぶじ)から10番大慈寺(だいじじ)まで(4)

2010-06-01 11:34:46 | 見て歩き

 七番目には、札所一番の四満部寺(しまぶじ)。小さいがお寺らしい雰囲気がある。本堂の観音堂は、元禄10年(1697年)建立。四満部寺の名は,性空上人の弟子幻通が四万部の仏典を読経して経塚を築いたことに由来する。
 また、曹洞宗で年中行事として行われる施食会(せじきえ)でも有名。施食会は、祖先、父母、親類、縁者の死者の魂である精霊または無縁の精霊に供養するために行われる。本尊の聖観世音菩薩は、行基の作と言われる。なお、
 このお寺の前に、時代劇映画のロケに使ってもいいような旅館がある。営業をしているのだろうかと外から中を覗いたりした。道路に面した広い店先の中は、テーブルが並べられていた。軒先に紐で吊るした板に「お休処」とかろうじて読める。
 「旅籠一番」という旅館名、インターネットで検索するとホームページがあった。なんと広い日本間や洋室まであって驚いた。あの建物の裏側に露天風呂まで設えてあるとは想像もできない。
        
         四満部寺
        
         本 堂
        
         旅籠一番
           
           字が消えかけている「お休処」の看板
 八番目の札所二番の真福寺へは、細い山道をたどる。真福寺左折地点を見過ごしこれまた山道を下っていって気がついて引き返した。万延元年(1860年)の消失前は、諸堂のある大伽藍であったという。現在の観音堂は、明治41年(1908年)に再建されたもの。老婆が観音様におすがりし、大棚禅師が開基したと伝えられている。納経は、山道を2キロ下った光明寺で行われる。徒歩ならハイキングのつもりで行かなくてはならない。本尊は、聖観世音菩薩
         
         真福寺本堂