新聞の投書欄を見ていて、注目した投書があった。19年アメリカ暮らしの女性の方で、一部を引用すると“私の偏見かもしれませんが、全体的に英語は知的な部分で遊べる言語で、日本語は情緒的な部分で遊べる言語のような気がします。米国の新聞を読んでいると、硬い内容でも「ウフフ」といいたくなる部分がよくあります。逆に日本語の新聞では、淡々とした事実が並べられているだけで、なんだか味気ないと感じます”あと天声人語を例に挙げて情緒的な面を書いていらっしゃいます。この方の意見に同感。
この「ウフフ」をユーモアと解すると、ここで思い出すことが二つある。松井秀喜がヤンキースに入ったとき、ジョー・トーリ監督は「彼はユーモアも理解するようだ」とコメントしている。ユーモアに対するアメリカでの位置づけが分るような気がする。
もう一つもヤンキースの話題で、当時はドン・ジマーがベンチ・コーチでいつもトーリ監督の横に座っていた。試合でボールかバットか忘れたが、ベンチの中に飛んできて、危うく逃れたことがあった。その翌日ドン・ジマーは、野球のヘルメットではなく、軍隊で使うようなライトグリーンの鉄兜をNYのマークを貼り付けて、ベンチに座り笑いを誘っていた。このユーモア感覚は好ましいと思ったものだ。
日本人で思いつくだろうか。そしてなぜ出来ないのだろうと考えると、それは、そういう環境で育たなかったことがあげられるだろう。日本の伝統がそうなんだから、それでいいのではないか。という意見もありそうな気がする。このユーモアを一種の遊びつまり余裕と考えると、人間関係の潤滑油の役割を果たすはずだ。国際化も今以上に進むはずだし、やはりユーモア感覚はあったほうが得だろう。
ここで、はたと心配事が浮かんだ。いつも翻訳した本を読んでいるので、本の真髄が的確に表現されているのだろうかということだ。翻訳者によって全く違うニュアンスの本にならないとも限らない。翻訳者にユーモア感覚があればと願わずにいられない。そういう私の文章は、全くユーモアのかけらもない。最悪の見本になってしまった。
この「ウフフ」をユーモアと解すると、ここで思い出すことが二つある。松井秀喜がヤンキースに入ったとき、ジョー・トーリ監督は「彼はユーモアも理解するようだ」とコメントしている。ユーモアに対するアメリカでの位置づけが分るような気がする。
もう一つもヤンキースの話題で、当時はドン・ジマーがベンチ・コーチでいつもトーリ監督の横に座っていた。試合でボールかバットか忘れたが、ベンチの中に飛んできて、危うく逃れたことがあった。その翌日ドン・ジマーは、野球のヘルメットではなく、軍隊で使うようなライトグリーンの鉄兜をNYのマークを貼り付けて、ベンチに座り笑いを誘っていた。このユーモア感覚は好ましいと思ったものだ。
日本人で思いつくだろうか。そしてなぜ出来ないのだろうと考えると、それは、そういう環境で育たなかったことがあげられるだろう。日本の伝統がそうなんだから、それでいいのではないか。という意見もありそうな気がする。このユーモアを一種の遊びつまり余裕と考えると、人間関係の潤滑油の役割を果たすはずだ。国際化も今以上に進むはずだし、やはりユーモア感覚はあったほうが得だろう。
ここで、はたと心配事が浮かんだ。いつも翻訳した本を読んでいるので、本の真髄が的確に表現されているのだろうかということだ。翻訳者によって全く違うニュアンスの本にならないとも限らない。翻訳者にユーモア感覚があればと願わずにいられない。そういう私の文章は、全くユーモアのかけらもない。最悪の見本になってしまった。