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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場17番札所満願寺(まんがんじ)」

2009-04-29 11:54:22 | 旅行

            
 天気は予報通り晴れて、気温も二十度近くに上がるという絶好の日和になった。ただ、花粉の飛散が多くなるとも言っていた。自宅を出たのは午前9時。今回は妻も同行すると言って、弁当も用意してくれた。
 この時間帯は当然車が多い。しかも一般道を走るので時間はそれなりにかかる。時間がかかるといっても、満願寺に着いたのが午後1時半だったからほぼ4時間半の所要になる。
 わたしにとって4時間半は、慣れ親しんだ時間で、かつて登山に精力を費やしていたころの日常茶飯事だ。おまけに年金生活者で、時間に制約のない身となればなおさら気にすることもない。
 今回は栃木県の霊場札所満願寺、大谷寺(おおやじ)、西明寺(さいみょうじ)の三ヶ所を巡る予定になっている。栃木市出流町288にある満願寺の駐車場の車の中で弁当を広げた。
 なかなか雰囲気のいいお寺で、参拝者の来訪も多く見られる。満願寺は、天平神護元年(765年)に日光市にある輪王寺(山号日光山)を開いた奈良時代から平安時代初期の僧、勝道上人によって開創された。
 下野の国司であった高藤介の妻が、子宝に恵まれなかったのを嘆き、奥の院、「観音の霊窟」(鍾乳洞)にこもった。日夜、子授け祈願を続け、授かった一子が勝道上人。以来、奥の院に祀ってある鍾乳石で自然にできた「十一面観音菩薩」は子授け、安産、子育ての霊験あらたかであると多くの人の信仰を集めている。
 その後、弘仁十一年(820年)、真言宗の宗祖、弘法大師が勝道上人の徳をしたって参詣し、その折りに銘木で造立したのが本尊「千手観世音菩薩」である。
 わたしたちは時間がないため、残念ながら奥の院までの1.5キロの道のりを割愛した。今回から仁王像にもカメラを向けようと思っている。この仁王像、誰が彫ったのか説明がないので分からないが、お寺によってその表情が違うのでなかなか面白いものだと思っている。
            
               
            
        なかなか面白い表情ながら、降り積もった埃で真っ白
        どこでも作者不明が多い。地元の無名の人たちの作品か。
 県指定文化財本堂、市指定文化財仁王門。満願寺から下っていくと山を切り崩して土砂を採取している工場があって、道路は真っ白、人家の塀も白く汚れていた。その土砂を積んだダンプを、国道293号線まで追尾していった。
 この土砂はおそらく通気性や保水性に優れていて、農業や園芸に適した鹿沼土ではないかと思う。鹿沼市はここからたいして時間はかからない。

デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場10番札所正法寺(しょうほうじ)」

2009-04-25 14:27:58 | 旅行

            
 東松山市岩殿1229の地にあるお寺にも、道に迷いながらたどり着いた。なんだ、いつも迷うなんて、文明の利器ナビゲーション・システムなら迷うこともないのにと思うかもしれない。わたしも重々承知しているが、頑固な性格もあっていまだに道路地図を頼りに走っている。機械に指図されるのは我慢ならない。しかも迷うのもドライブの楽しみの一つと心得ているとあっては、ナビゲーションなんて生涯つけないだろう。
 県道212号線沿いの大東文化大学の広大な敷地を右手に見て、箱根駅伝でおなじみの大学だなと思いながら坂道の途中にある正法寺の看板が目に入った。車を降りると風が冷たい。小さな駐車場は車数台でいっぱいだった。小型のマイクロバスが一台停まっていて、お遍路装束の人が乗っていた。札所めぐりの人たちなのだろう。仕方がないので、たまたま休業の看板が下がっていたそば屋の駐車場に停めた。
            
            
 お寺はこの冬の時季、少しうら寂しさが漂っていた。源頼朝の乳母である比企尼の甥で、のちに養子となり鎌倉幕府の有力御家人の比企能員(よしかず)が頼朝の命により復興した古刹である。天正二年(1574年)僧栄俊が中興開山となっている。
 天正十九年(1591年)徳川家康より寺領二十五石の朱印地を与えられた。観音堂は養老年間(717年~724年)僧逸海の創立と伝えられ正法庵と称し、鎌倉時代に坂東十番の札所となった。千手観音が祭られており、西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番とセットされる札所の一つ。源頼朝の妻、政子の守本尊として信仰が厚かったといわれている。仁王門の仁王は運慶の作といわれている。
 そして坂上田村麻呂の伝説がある。延暦十年(791年)桓武(かんむ)天皇の勅命によって奥州征伐に向かう途中、この観音堂に通夜し悪龍を退治したというもの。なお、このお寺は、戦国時代には数回の兵火で焼け、現在の建物は天明六年(1786年)の造営と伝えられる。なるほど建物は古色蒼然としていた。
 地元の人だろう、ウォーキングに訪れているように見受けた。今日の最後のお寺、慈光寺には夕闇迫る薄暗い中についた。写真のフラッシュ撮影では雰囲気が出ない。今回は断念する。かなり広大な敷地のお寺で、春の季節に再訪することで帰路についた。順調に帰ったかというと、ご多分にもれずやはり迷ってしまった。
 陽はどっぷりと沈み、車のライトでちかちかする眼をしょぼつかせながら、夕方というのにシャッターが降りて淋しくなった商店街を通っていった。ぼんやりと考えにふけっていて気づいたのは、札所めぐりもいいが、ただ写真を撮るだけというのも、なにか不足しているようにも思える。
 何人もの高僧の名前が出てきたし、建築様式のことや仏像のこと、それに日本古来の生活様式などについて、もう少し掘り下げたほうがいいのかもしれない。たとえば仁王像。開口の阿形(あぎょう)像と口を結んだ吽形(うんぎょう)像があるというようなことなど。

デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場11番札所安楽寺(あんらくじ)」

2009-04-21 21:16:00 | 旅行

            
 埼玉県比企郡吉見町御所374にあるこのお寺へも、迷いながらたどり着いた。しかも裏側から狭い道をよたよたと。仁王門の前の人家の横に車を止めさせてもらった。
 今から1,300年前、行基菩薩が岩窟に観音像を安置したのが始まりといわれている。平安時代初期の武将、坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)。名は田村麿とも書く。正三位大納言兼右近衛大将兵部卿。54歳で没す。多くの伝説がある。その田村麻呂が堂宇(格式を備えた寺の建物)を建立したと伝えられる。
 その後、源頼朝の異母弟源範頼(のりより)がこの地を領することになり、本堂と三重塔を建立したと伝えられるが、天文年間(1532年~1554年)の上杉憲政と北条氏康の松山城合戦に際しすべての伽藍は焼失してしまった。
 現在の本堂は、寛文元年(1661年)に再建されたものであり、五間堂の平面を持つ密教本堂で、江戸時代前期の建築様式を伝える貴重な遺構である。また。堂内の欄間には左甚五郎の作といわれる「野荒しの虎」も納められている。
            
            
 三重塔は本堂よりも古い寛永年間(1624年~1644年)の創建であり、全体的に簡素な意匠ながら和様様式で統一された江戸時代初期の貴重な遺構である。
 仁王門は元禄15年(1702年)に再建された三棟造りの八脚門という建築様式を持ち、内部に仁王像二体を安置する。本堂、三重塔、仁王門は県指定、仁王像は町指定の文化財になっている。
 きれいに掃き清められ、落ち着いた雰囲気のお寺だ。人家の横に停めさせてもらったが、帰路広い駐車場があるのが分かった。そもそも道を間違えたのがいけなかった。道路に大きな看板が見えた。どうして見落としたのだろうか。

1990年~2007年エドガー賞全集(5)

2009-04-18 13:00:32 | 読書

           
 アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の最優秀短編賞受賞作を、1990年から2007年までを収めたものである。ミステリーの始祖、エドガー・アラン・ポーの胸像を贈ることからエドガー賞とも呼ばれている。

2007年受賞作 チャールズ・アルダイ「銃後の守り」

 第二次大戦中の物資統制は、何も日本だけではなかった。この本を読む限り。戦時というのはどこの国も同じで、官僚がしゃしゃり出てきて何かと嫌がらせをする。そういえば当時の警察は大威張りしていたっけ。オイコラ警察だった。
 アメリカもガソリンの配給制をとったようだ。クーポン券一枚で2ガロン(約7.5㍑)しか入れられない。ニューヨークの私立探偵のローリー・ハーパーも戦時徴用で、連邦政府の物価管理局職員だった。
 給油ポンプの横に乗りつけた彼は、一枚のクーポンで二ガロンしか入れられないのを承知しながら四ガロン強要する客を演じた。それに応じた若者マット・ケリーは、ローリーの奸計にはまり手錠をかけられる。人生はなにが起こるかわからない。ローリーも死の直前まで「もし、あの時……」と思わずにいられない。
 時速四十マイル(約64キロ)でカーブに差し掛かったとき、対向車と正面衝突する。ケリーは手錠のままフロント・ガラスを突き破って投げ出され、そのあとの爆発で死んだ。事故原因を、ケリーが力ずくでハンドルを奪おうとしたためだと報告した生き残りのローリーは、名前と写真が新聞に載ったせいで不用品とされお払い箱になった。
 金もなくなりアパートを出たが、車もないとあってはあてどもなく歩いていくしかなかった。やがて営業を終えようとしていたガソリンスタンドにたどり着いた。 一人の女がガレージの扉と格闘していた。それを手助けして泊めてもらうことになった。ローリーは、「トム・ドイル」と自己紹介した。彼女は名乗った。「モイラ・ケリーよ」
 なんてことだ、あの若者もケリーだった。若者を嵌めた舞台のスタンドではないか。いまさら逃げ出すわけにはいかない。モイラのためにシチューをよそってやり息子の話や家庭の話にも耳を傾けた。急速に二人は深まり、相手を受け入れた。
 そんなある日、本物のドイルが現れる。このたちの悪い物価管理局のドイルは、ローリーの正体を暴こうとする。もう逃げられないと知ったローリーは、ドイルを殴り殺す。パトカーで連行される途中、あのカーブが見えてきた。反対車線から車がやってきた。
 もし、あのときあの車がはみ出しさえしなければ、どれほど多くのことが避けられただろう。ローリーはドアを押し上げて外に飛び出した。対向車の運転者は、避ける余裕がなかった。
 巧妙なプロットの構築が冴えていて、モイラとローリーの自然な肉体関係への流れは、著者の力量の確かさを感じさせる。
 著者は、1969年生まれ。編集者として、扇情的なカヴァーのペイパーバック・シリーズ<ハード・ケース・クライム>を立ち上げる。作家としては、《エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン》や《アルフレッド・ヒッチコック・マガジン》に短編を発表している。長篇に、リチャード・エイリアス名義でものした『愛しき女は死せり』(2004年)とその続編Songs of Innocence(2007年)がある。

デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場12番札所慈恩寺(じおんじ)」

2009-04-14 11:33:35 | 旅行

           
           
 このお寺から埼玉県に入る。国道16号線は相変わらずの渋滞、信号機の駅入口の標識が見えたのはもう正午はすぎていた。東武野田線の豊春駅への道は、江戸時代に作ったとしか思えないし、今の時代、車のすれ違いもままならない。歩く人も苦労しているみたいだった。それにシャッターが降りている商店も見かける。駅から2キロほどでお寺に着いた。
 さいたま市岩槻区慈恩寺139という所在地にあるこのお寺は、天長年間(824年~834年)円仁の開山によって創建されたと伝えられる。天正18年(1590年)関東に入部した徳川家康から翌天正19年(1591年)に寺領に寄進されている。
 江戸時代に入ると江戸幕府のほか岩槻城主からも帰依を得た。それに、日中戦争のさなかの昭和17年(1942年)に、南京市の中華門外にある雨花台で、偶然旧日本軍が発見した玄奘(げんじょう)の遺骨がこの寺に奉安された。
 ちなみに玄奘というのは、玄奘三蔵、唐代の中国の訳経僧、三蔵法師として知られている。その遺骨というのは、縦59cm横78cm高さ57cmの石槨(せっかくと言い、棺を入れる石造りの箱)で、中には縦51cm横51cm高さ30cmの石棺が納められていた。
 石棺の内部には、北宋代の1027年(天聖5年)と明の1386年(洪武19年)の葬誌(この単語は、探した範囲では見当たらなかった。意味は分かるが)が彫られていた。石棺内に納められていたのは、頭骨でありその他の副葬品も見つかった。この玄奘の霊骨の扱いに関しては、日中で応酬を経た後、分骨することで決着を見た。中国側は、北平の法源寺内・大遍覚堂に安置された。その他各地にも分骨され、南京の霊谷寺や成都の浄慈寺など数ヶ寺に安置されるほか、南京博物院にも置かれている。ただ、どうしてこの慈恩寺に奉安されたのかは、記述されていない。さらに境内の建っている案内によると、岩槻市指定の文化財「慈恩寺文書」があるという。その説明には「平安時代の創立と伝える慈恩寺は、坂東札所などとして広い範囲の信仰、巡礼者を集め、さらに歴代の岩槻城主や幕府の保護を受けた古刹である。当寺には岩槻城主太田資正(すけまさ)の天文18年(1549年)の判物以下、518点の古文書が伝えられている。内容は、寺領寄進状、慈恩寺法度等の幕府や岩槻藩の保護・統制に関するもの、寺院の組織・経営に関するものその他がある」と書かれてある。
               
               南蛮鉄灯籠
ほかに、さいたま市有形文化財として、南蛮鉄灯籠がある。

大リーグ 川上 MLBデビュー勝利。サバシアピンストライプで初勝利

2009-04-12 16:54:09 | スポーツ

           
            好投した川上投手           
           
            スタンダップ・サインを掲げるファン
 ブレーブスのホームページでは、Kenshin Kawakami shined in his Major League debut for a 5-3 victory over the Nationals on Saturday.と紹介されていて、スタンドで応援するファンの写真も添えられている。
 地元ターナー・フィールドで行われたワシントン・ナショナルズとの試合。川上憲伸は、出足に3点を先制されたが、粘り強い投球で6回を投げ89球、被安打4、失点3、四死球4、奪三振8、被本塁打1という十分な働きをした。緊張もした中でのこの結果は、フロリダ・マーリンズとともに東地区トップを走るブレーブスにとってもうれしい勝利だっただろう。
 得点は、トップのジョンソン(2B)から二番エスコバ(SS)三番チッパー・ジョーンズ(3B)の上位ですべてを挙げた。上原に続き日本人投手の活躍が期待できる。
           
            ピンストライプで初勝利のサバシア
 Hi-CC punch; Sabathia nets first pinstripes win開幕投手で負けたサバシアは、この試合は負けられない。気合を入れたのだろう、7回2/3を108球被安打6、奪三振6、失点0の意地の投球をして、ピンストライプで一勝目を挙げた。
 この試合、一塁手のスイッシャーの3打数2安打3打点2四球の活躍が光る。ちなみに松井は、二塁打を打っている。東地区のトップ、ブルージェイズとオリオールズのあとを追いかけるヤンキースも徐々に調子を上げ始めたか。

大リーグ ヤンキース・ペティット好投、松井は驚くほど不振

2009-04-11 16:49:48 | スポーツ

            
             ぺティット投手
 現地時間4月10日カンザスシティ・カウフマン・スタジアムで行われたヤンキースVSロイヤルズのオープニング・ゲームは、ペティットの好投で、4-1で勝った。 この試合はなんと言ってもペティットの投球に尽きるようだ。7回を99球で賄い、被安打3、失点1、奪三振6、四死球1という素晴らしい投球だった。彼としても満足のいくものだっただろう。これに、サバシアと王建民が復調すれば波に乗れそうだ。
            
             不振に喘ぐ松井秀喜
 その中で不調に悩むのは、松井秀喜だ。この試合も無安打で、打率.071は目を覆うばかり。固め打ちで打率をあげないと、7月末までにトレードの危険もある。
 ジェラルディ監督は、うちは10人のレギュラー選手が居ると言っている。つまり松井の代役には事欠かないというわけだ。
 スポーツ選手は怪我がすべての引き金になる。それが原因で不調になり、レギュラーをはずされ、そうこうするうちに他球団へトレード。そしていつの間にかリタイアしていたという例が多い。ジェラルディは、トーリのように我慢強くなさそうだしね。松井秀喜には、まだこのまま終わって欲しくない。

短編小説を読む 1990年~2007年エドガー賞全集(4)

2009-04-11 12:54:22 | 読書

            
 アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の最優秀短編賞受賞作を、1990年から2007年までを収めたものである。ミステリーの始祖、エドガー・アラン・ポーの胸像を贈ることからエドガー賞とも呼ばれている。

1998年受賞作 ローレンス・ブロック「ケラーの責任」

 この受賞作品集は、殺人に関する短編でありながら、血なまぐさい現場はほとんど出てこない。長々とどのように殺したかという記述をするスペースが無いこともあるだろう。
 原稿用紙30枚から60枚程度であれば贅肉の部分はそぎ落とさなければならない。一度この程度の長さの小説を書いてみれば実感できる。
 ケラーは、プロの殺し屋だ。ターゲットの写真を持たされているが、どんなによく撮れた写真でも、日常の暮らしの中の姿を見ることには適わない。ここテキサス州ダラスの豪壮な大邸宅で開かれているパーティに下見に入り込んだ。これらのパーティ人種は、友達の友達を呼ぶ関係でホストあるいはホステスは、半数の客が見知らぬ人たちということになる。
 レンガ敷きの通路を歩きながら、長い足のグラスのカクテルをちびりと飲んでスイミング・プールに足を向けた。プールの周辺には若い何組かのグループが、酒を飲みながら談笑していた。少年がひとりバカでかいプールを往復していた。
 ケリーは物思いにふけっていて、ふと気がつくと少年の姿が見えない。プールの端で水泡が沸きあがっていた。ケリーはとっさの判断で、上着とズボンを脱ぎ飛び込んだ。
 少年の命を救ったケリーに話しかけたのは、少年を溺愛する伯父でホストのウォレス・ベンローズ・ギャリティだった。何のことはない、まさにターゲットだった。夕食に招待されてマイクと名乗り、高級なブランディやキューバ葉巻を振舞われた。おまけにギャリティは、自分のところで働かないかと持ちかけてきた。しかも、高給で。
 ようやくケリーは考え始めた。これは人生の転機になるのか。しかし、ひたすら殺し屋人生を送ってきたケリーは、常に偽名の人生だった。人を雇うのに身元を確認しない雇用主はいない。いずれケリーの実像が暴かれることになる。まっとうな人生への招待は諦めざるを得ない。
 ギャリティとマイク(ケリーの偽名)は、書斎でお互いの立場を理解し、ギャリティは癌に侵されていて余命僅かと語る。ギャリティ自身は、銃の暴発事故を装って自殺も考えたが踏ん切りがつかず、かつてある男に「誰かを殺す必要が生じたら連絡してくれ」と言われたのを思い出してその通りにした。しかも殺すのは自分自身。
 これは失敗だった。生への執着が心に不安を与えた。人生は、つぎの角を曲がったら何があるのか、分からないからこそ生きていけるともギャリティは言う。癌の進行に伴い痛みはひどくなるが、耐えながら生涯を全うするよとも言う。嘱託殺人は解消された。しかし、契約金は予定通り支払われる。
 ケリーは、窓口になっているエージェントの女性ドットに電話をする。「ドット、もう少しこちらにいるよ。気の合った女性と知り合ったんでね」そんな女性がいればいいが。ケラーにとって好意の殺人は初めてだった。ギャリティの苦しみの解放に手を貸すのはケリーの優しさだった。
 さて、どんな方法で? 遺族を納得させるためには、事故に見せかけ少しの疑問も浮かばないような。足を滑らせて転倒! それもいい。いっそのことバナナの皮を散らしておくか。どうもうまくいきそうにない。ケリーなら何か考えつくだろう。わたしにはムリだ。おそらくプロの殺し屋には向いていないのだろう。

大リーグ エンジェルスのルーキー事故死。レイズの注目選手、エバン・ロンゴリア

2009-04-10 17:07:27 | スポーツ

            
 Angels rookie Adenhart,22, dies in car crashこんな悲劇があるのだろうか。残念ながら人間のもっとも愚かな行為で、将来に希望を見出した若者を抹殺する結果になった。
 カリフォルニア州オレンジ郡フルトンで夜中の12時半ごろ、エンジェルスのルーキー・アデンハート投手は、乗っていた車に赤信号を無視したミニバンに激突され、病院に搬送されたが死亡した。激突した車を運転していた男は酒酔い運転が濃厚という。どこの国でも飲酒運転による事故はなくならない。特に車社会のアメリカでは。
            
             好投したアデンハート投手
 この日アデンハートは、アスレチックスとの試合で、今季初先発。6回を被安打7、奪三振5、四死球3.無失点の好投を演じていた。おそらく両親や兄弟は、球場に駆けつけて応援していたのだろう。いい仕事をした息子を自慢に思いながら帰宅。そして、不吉な予感の真夜中の電話。事故を知らされて、一瞬のうちに暗転した。家族の悲しみは計り知れないだろう。エンジェルスは、翌日の試合を中止して彼の冥福を祈った。

 一方こちらの初先発ダイスケは、ピリッとせず、100球を投げて被安打9、被本塁打3、奪三振5、与四球3、失点4という結果。チームは4-3で負けてダイスケは一敗を喫した。
            
              レイズ・ロンゴリア三塁手
 この試合、岩村も元気だったが、このチームで最も注目したいのが三塁手のエバン・ロンゴリアだろう。なんと言っても長打力の持ち主で、今季もすでに二塁打2本、本塁打2本と力を出している。
 ダイスケの球をはじき返した三塁線を破る二塁打は、球足の強さと速さで三塁手は追いつけなかった。岩村を三塁から二塁の守備に追いやった男で、去年に続き今年も活躍すれば岩村も本心から納得するだろう。
 わたしもはじめは岩村が文句も言わずおとなし過ぎると思っていたが、このままロンゴリアが実績を積んでいけば、堂々たる四番バッターに成長するのは確実だろうし、そうなったら納得する。MLBを代表する選手になるのを楽しみにしたい。彼はまだ24歳だ。

大リーグ 上原、うれしい勝利デビュー

2009-04-09 17:30:09 | スポーツ

           
 オリオールズのホームページには、上原の名前浩治をもじり、「こんにちわ」をKoji-chiwa, MLBと笑わせる。MLB.COMのフロントページでもUehara beats vaunted yanks in debut(上原、デビューでヤンキースを叩く)、Righty hurls five strong innings in first big league start(右腕投手5回を好投して大リーグでスタート)と賑やか。
 オリオールズの本拠地チャーム・シティ・ボルティモアのカムデンヤーズに22,856人のファンを集めてニューヨーク・ヤンキースとの開幕2試合目のゲーム。 日本人先発投手としてMLBで15人目になる上原、オリオールズでは日本生まれの選手は初めてだ。5回被安打5、失点1、三振0、四球1、投球数86球を投げ、チームは7-5で勝ち1勝目をあげる。低めにコントロールされたボールは、容易に打ち崩すことが出来ないヤンキースの打線。松井もなすすべもなく沈黙。強豪チームは初物に弱いというジンクスがあるようで、今回もそれを証明した形になった。
 ヤンキース先発の王建民は不調で、被安打9、失点7、四死球4、被本塁打1、3回途中までで交代した。