病院のベッドから見えるのは、青い夏空に浮かぶ白い雲だけだった。それを見ていると、浅見けいとどこかの海辺で眺めてみたいと考えたのを思い出した。しかし、それを諦めたことで、10年前の恋人霧子と再会することになろうとは思ってもみなかった。
一ヶ月前の木戸正道は、腕に点滴のチューブが刺さり、放射線治療の外照射の影響で喉がひりひりしていて食事に苦労する状態だった。朝起きるとうんざりとした気分になり自力で起き上がれないほど衰えを感じる。
それも入院の前には、ジョギングを短い距離ながら楽しんでいたのがこのざまだ。70歳を過ぎた木戸には人並みに病魔が襲ってきていた。医師や看護師は、気持ちを楽にしてガンを克服するという気力で頑張りましょう。 と言うが自分ではそんな気分になれない。自分の死期が近づいているのを、はっきりと自覚しているからだ。朝食も口に不味く半分も残すことが多い。それでも空腹感がない。
元気な頃は、食べ物も脂っこいものが好きだったし、ウォーキングやジョギングも雨や雪の日以外は欠かさず行っていた。今はその一切が面倒でどうでもいい気がしていた。新聞すら読まない。
入院の翌日、今井という女性看護師が車椅子を押して放射線治療室に連れて行ってくれた。1~2分の照射の間、じっと動かないでいることぐらいが気を引き締める瞬間と言えば言えるかもしれない。それを除けば、一日がなんとなく過ぎて行く。看護師が病室に戻してくれた。
「また、あとできます」と言ってナースステーションへ戻った。その後姿が、見事なスタイルでくびれたウェスト、丸く素敵な曲線のお尻が印象に残った。妻を亡くして15年だが、目を外したとたんに忘れ去った。
次の日は、沢谷という女性看護師だった。彼女も今井看護師同様スタイルのいい女性だった。三日目は木暮という女性看護師。この人も美形だ。病院の看護師は、毎日勤務形態が変わるようでせいぜい二日も同じ人が続けば珍しいことと思える。いずれまた今井という看護師が担当する日が来ることになるが。
「木戸さん、おはようございます。治療室へ行きましょうか?」四日目に現れた女性看護師が言った。顔を見た瞬間、彼女から目を離すことが出来なかった。瞬き一つできない。見られている彼女も不思議そうな表情で笑みが消えていた。
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでもないよ。他人の空似というのかな。昔の知り合いの人とそっくりに思ったもので、ちょっとびっくりしたよ」と木戸は慌てて言い訳のように呟いた。
照射を終えて病室で体を休めている時、さっきの彼女の名札を見るのを忘れているのに気がついた。彼女も美人だった。そこでふと毎日美人の看護師がやってくるのが不思議に思い始めた。さらに次の日もきのうの看護師だった。名札を見ると「浅見けい」とあった。
「木戸さん、ベッドでいつも過ごすのは良くないですよ。少し歩きませんか? 廊下ですけど」廊下に出ると彼女は当然のように木戸の左腕に手を添えた。おぼつかない足取りで、4階の廊下を一周して談話室に腰を下ろした。
「疲れましたか?」と彼女。そのふくよかな頬と唇。ふと10年前の霧子を思い出した。もう一度逢いたいと心から思った。
浅見看護師とは、院内散歩が当然のように毎日行われた。一週間が過ぎる頃には、木戸も自力で普段通りの歩行ができるようになった。時折、談話室で自動販売機のコーヒーを飲みながら浅見けいを眺めていると霧子と重なり飛び掛って抱きしめたくなる。ある時、「一緒に旅行に行きたい」と浅見けいに言った。すると浅見けいは、左手を上げて開き薬指のリングを見せた。そこにはプラチナの結婚指輪が輝いていた。けいを諦めた正道は放射線治療の効果もあって、再び生きる意欲を取り戻してきたようだった。
浅見けいは、パソコンで日誌の仕上げをしていた。今日一日の患者とのやり取りをこと細かく記録して置く決まりになっている。Aさんがどうも精神的に不安定。Bさんはこのごろ快調の様子など。
「木戸さんは、今日退院したんだね」
突然、頭の上から声がした。振り向くと頭頚部外科耳鼻咽喉科の香取先生が立っていた。
「ええ、晴れやかな笑顔でお帰りになりました」
「それはよかった。昔の恋人にも会えるのかな?」
「そうですねえ。メールをしたところ彼女がこちらに来るそうです。木戸さんも見違えるように元気になられました。先生が希望をお与えになりましたから」
「うん、ある意味であの指輪が功を奏したとも言えるね」
「本当にそうですね。ああ、この指輪をお返ししなくちゃ。先生もかなり策士ですね」
「うんまあね。思想家のヴォルテールの言葉があるよ。“神は現世におけるいろいろな心配事の償いとして、われわれに希望と睡眠を与えた”とね」
<なるほど、素敵ね。恋心は何物にも勝る良薬というわけね>魅力的な浅見けいには恋人がいない。少し寂しい気持ちになった。 了