ノーベル賞授与理由に「現実的なものと幻想的なものを結び合わせて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像の世界」を創り出したことにあった。という作家の作品。
恋人に振られてから51年9ケ月と4日も待って、ようやく彼女を手にする。そんな純粋な精神と感情が内包する男を描く。あの若々しかった女性もすでに72歳、あらゆるところに皺が刻まれているが愛していることに変わりはない。
待ち続けた男フロレンティーノ・アリーサの身辺に女気が一切なかったとは言えない。コロンビアの西部を南から北に流れるマグダレナ川の船旅で、船室に連れ込まれて童貞を奪われてから、あちらの未亡人こちらの未亡人あるいは若い娘とねんごろによろしくやっていた。
おまけに、年老いたかつての恋人フェルミーナ・ダーサと裸でベッドに横たわっているとき「あの町では本当かどうか分からないことさえ噂になって広まるというのに、あなたの周りには女性の影も見えないと言われているけど、あれはどういうことなの?」という問いに「君のために童貞を守り通したんだよ」とぬけぬけと言い放った。
彼のくれたラブ・レターは、意味内容ではなく、言葉で人の心を幻惑するような文章で綴られていて、彼の言葉を信じなかったにしてもその心根が嬉しかった。と、フェルミーナ・ダーサに言わせている。
70歳を過ぎた人生経験豊富な男女にとって、些細な嘘の裏側に潜む真実を洞察する知恵を持ち合わせていた。私のように俗物的関心で読むノーベル賞作家の作品でも女性をどのように描写するのかも関心の一つだ。
『薄いスリップ一枚でカンバス地のベッドに横たわったリンチ嬢は息をのむほど美しかった。身体全体の造りが大きくて、圧倒的な存在感が備わっていた。セイレーンのような太腿、じっくり時間をかけて焼き上げた肌、ドキッとするほど豊かな胸、透明な歯茎の上に並んでいる美しい歯、全身から立ち上る健康な人間特有の香り』作家の理想や願望がこの中に包含されているのだろう。男性作家は押しなべて作品のどこかに女性を崇めるように描写する。
海外の作家は、女性を詳細に描写する人が多い。私の読んだ範囲での日本人作家の女性描写は、まるで和食のように淡白な人が多い。正に元来の食生活を反映しているようだ。
表現と言えば、セックスの描き方だ。人間を描く上でやはりセックスは外せないと思う私にとって重要な関心事だ。マルケスもそういう立場なのだろうか、リアリティを持たせるためか老いたアリーサとダーサの愛の営みを描写している。
『暗闇の中で彼女が手を伸ばしてきて、彼の腹部や脇腹、毛のほとんどない恥部のあたりを愛撫しはじめたのだ。《まるで赤ん坊みたいな肌ね》と彼女が言った。そのあと、最後の一歩を踏み出した。つまり萎えしぼんだ彼の一物をまさぐったのだ。彼女は別に期待していなかったが、さぐりあてたものはやはりぐんにゃりしていた。「言うことをきかないんだ」と彼は言った』
おそらく六十代以下の人たちは、想像の域だろう。ところが、同年代となると俄然現実でありほっと安心する部分でもある。安心する部分と言うのは、読み進むうちに70代の男女が愛を確かめる描写を期待していた。期待に応えるかのようにそれはあった。その描写が活力十分で若者のように悶えるというのであればこちらが落ち込んでしまいかねない。そうでなかったので安心だという意味だ。
この作品が書かれたのは、1985年で著者の57歳の時になる。著者は、「この世で愛ほど難しいものはない」と言う。男女の愛を語る時、どうしても外せないのがセックスだろう。(絶対とは言わないが)70歳を過ぎた男女のセックスをわざわざ描いてあるのはその証左と言える。
セックスを随所に描いてあるにもかかわらず、下品さもなく会話の少ない記述ながら飽きさせない豊かな想像力に敬意を表したくなる。
なおこの作品は、‘03『モナリザ・スマイル』’05『ハリーポッターと炎のコブレット』のマイク・ニューウェル監督、‘07『ノーカントリ』で特異な犯罪者を演じたハビエル・バルデムで映画化されている。
著者は、1928年3月6日コロンビア生まれ。1982年にノーべル文学賞を受賞。ウィリアム・フォクナーを崇拝し、「ある朝、グレゴリール・ザムザが何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した」という出だしのカフカの『変身』、『お花を買ってくるわ』という出だしのヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』にかなり影響されたという。息子のロドリゴ・ガルシアはハリウッドで映画監督をしている。最近の作品は、アン・ハサウェイの『パッセンジャー』がある。
57歳ごろのガブリエル・ガルシア・マルケス