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読書 ジョディ・ピコー「すべては遠い幻」

2007-12-28 10:57:47 | 読書

              
 アメリカ社会が抱える問題。多くのアルコール依存症患者の問題や幼児誘拐事件の多発がある。それらを背景に据えて、人間の怒り、苦悩、絶望それに愛と欲望を巧みな心理描写と品格のある文章で読む者を惹きつけて離さない。

 ニューハンプシャー州警察のパトカー数台が、回転灯を閃かせて家のドライブウェイに急停車した。降りてきたのは頑丈な体躯の警官で、アンドリュー・ホプキンズにミランダ警告を読み上げ手錠をかけてパトカーに押し込めた。
 アンドリュー・ホプキンズは、幼女誘拐の罪で逮捕された。その幼女というのは、実の娘ディーリア・ホプキンズだった。しかも事件は二十八年も前のことだった。
 読者は、いったい実の娘を誘拐するなんて、どういう状況だったのか興味が湧き起こる。物語は、まるで釣り針にかかった大物が、逃げ惑うようにぐんぐんと引き込まれていく。
 アンドリュー、ディーリア、ディーリアの婚約者で弁護士のエリック、ディーリアとエリックの幼馴染の新聞記者フィッツ、ディーリアの母エリセそして時折絡むディーリアの娘ソフィーたちの細やかな人間模様。
 根はアルコール依存症にあって、エリックがなかなか抜け出せないしエリセもディーリアを失う原因がアルコール依存症だった。結末を書くわけに行かないが、拘置所の様子がリアルに描写され、トレーラハウスに住むネイティヴアメリカンの老女との邂逅、裁判での緊張感のあるやり取りに時を忘れる。

 それにしてもアメリカは、時効という概念がないのだろうか。二十八年経っても追っかけてくる司法機関。アメリカに限らず多くの国が犯罪に対して時効という概念を持ち込んでいないようだ。日本の法律では、誘拐罪は三ヶ月から五年の刑に当たるそうだ。そして時効は五年になる。

 著者のユーモア・センスを知る手がかりは
“ケイティ・デズモンドに本書を捧ぐ。
 あなたはわたしの結婚式当日、オレオクッキーを朝食に用意してくれました。
 あなたはわたしの青いスエードの靴のファッション・センスを褒めてくれました。
 あなたはクィーン・エリザベスⅡ号の処女航海の夜に何人が亡くなったかを知っています。
 人は時として、すばらしい幸運に恵まれます。忘れえぬ友を持つという幸運に。わたしにとって はあなたがその人です”
 この献辞をみても著者の人柄やセンスが鮮やかに浮かび上がってくる。
               

読書 ジェイムズ・クラムリー「正当なる狂気」

2007-12-24 11:29:30 | 読書

              
 主人公は、私立探偵C・W・シュグルー。“モンタナの八月初旬の午後はフィドル奏者の牝犬のような熱気の暑さだった”というよく分からない導入部分で頭をひねりながら、まるで西部劇を見るような狂気のバイオレンスが展開される。
 モンタナは太平洋岸のワシントン州の右隣にあり、そのまま目を右に振っていくと五大湖地方に行き当たる。

 こういう場面はまさに西部劇だ。“7シリーズのBMWがとまった。スーツとオーバーコートと毛皮の帽子に身をくるんだ大柄の二人の男が車から降り、三インチも積もった湿った雪をゴム製の防水靴で踏みならしてこちらに近づいてきた。手はポケットに突っ込んだままだ。
 男の一人はだらしのない口ひげをたくわえ、もう一方は眉毛が一本につながっている。二人は階段の下で立ち止まったが、挨拶に時間を費やすことはなかった。口ひげが吠えた。
「ラリーズ・グルベンコに会ったことがあるか?」私(シュグルー)は答えなかった。「あいつはおれたちの妹だ」まだ何も答えなかった。
「カネは払う」一本眉毛が言った。
「五百ドルでどうだ」
「さもなくば、膝をかち割ってやる」口ひげが言って、内部撃鉄式の三十八口径スミス&ウェッソンをポケットから引き抜いた。短い銃身にじゃがいもサイズの消音器がとりつけられているが、消音器自体が本体の同じほどのでかさだ。わざと見せつけるようなゆっくりとした仕草だった。
「あんたらはとても兄弟には見えない」私は言った。「うしろのやつらのほうがよっぽど似ている」
 男どもは振り返りこそしなかったが、私が銃を抜くのに十分な時間をくれた。短身のワルサーPPK/Sは長距離射撃には向かないが、幸運にも口ひげの目に一発、一本眉毛の顔に残り六発の二十二口径弾をぶち込んでやった。
 戦争とその後の人生で、最初にパンチを放ったやつが喧嘩に勝つことを私は身に着けていた。弾丸がやつらの頭蓋骨の中を便器の中のおはじきみたいに跳ね回り、もともと少ない脳ミソを頭蓋にぴったりと貼りつく血みどろのゼリーにした。
 二人は牛のわき腹肉のようにどさっと倒れ、解けかけた雪が二つの死体の輪郭にそって跳ねあがった“

 映画「シェーン」で、ジャック・パランスが扮する殺し屋が、木の歩道から農民の男を見下ろすように撃ち殺す場面を連想した。この場面は実に印象的だった。そういう風に見るとバイオレンスの美学と言えるのかもしれない。
 物語は、ニットの白シャツ、オリーヴ色のカーキのズボン、カシミアのスポーツコートといういでたちのマック、正式にはウィリアム・マッキンデリック博士から、〈スラムガリオン〉の店名が入ったTシャツ、ジーンズのズボン、〈オールド・ゴーツ〉のウィンドブレーカーをまとったシュグルーは仕事を依頼される。
 マックは精神科医で、長期の精神分析治療を受けている患者の治療経過を記録したミニディスクをコピーされたという。マックは患者の一人の可能性が強いといい、その調査を依頼してきた。
 殺人が起こりシュグルーにも危険が降りかかる。というようなハードボイルドだ。シュグルーが聞くルシンダ・ウィリアムズ、ケリー・ウィリスという二人のカントリー系女性歌手は、おそらくクラムリーの好みなのだろう。
 以前読んだ本の中にも出てきていて、CDを買ったり図書館で借りたりした。いずれもシンガソングライターで独特の節回しは共通するものがある。
          ルシンダ・ウィリアムズ          


ケリー・ウィリス
 
著者は、1939年テキサス州スリー・リヴァース生まれ。ジョージア工科大学を卒業後、兵役を経てテキサスA&I大学に進み、続いてアイオワ大学のライダーズ・ワークショップに学んだ。69年にヴェトナム戦争を題材にした『われ一人永遠に行進す』でデビュー。その後、酔いどれ探偵ミロを主人公にした『酔いどれの誇り』『ダンシング・ベア』『ファイナル・カントリー』、探偵シュグルーが主人公の『さらば甘き口づけ』『友よ、戦いの果てに』を発表し、現代ハードボイルドの第一人者としての地位を確立した。

読書 村松英子「三島由紀夫 追想のうた」

2007-12-20 11:01:48 | 読書

              
 著者あとがきの一行目“正直な話、当初この本をお頼まれしたときは、もっと気楽にできるはずでした”この「お頼まれしたときは」という言葉にワードのチェック機能も不自然な日本語ではないかと指摘するほどで、わたしも一寸驚いたがこれが東京方言の山の手言葉だと気づくまで少々時間がかかった。
 「おばあちゃま」なんて言うのもそうだろう。この言葉も廃れてきているそうだ。
 村松英子という女優の舞台や映画、テレビを見たことがないわたしは、三島由紀夫をどのように切り刻んで読者の前にさらけ出すのかと思っていたが、敬愛する三島由紀夫への鎮魂のうたになっている。
 読み物としてはそれほど感銘も受けないが、中にコロンビア大学の名誉教授(日本文学)。東京大学大学院で日本文学を専攻。「源氏物語」の全訳ほかがあるサイデンステッカー氏の言葉が印象に残る。
 “私が最も評価するのは、三島さんの批評眼です。他の追随を許さない。卓越したすばらしさですよ。例えば、谷崎潤一郎の文学を「美食の文学」、川端康成の文学を「旅の文学」と、三島さんは一言で表しているが、けだし名言です。
 よほど深い洞察力と、最高の修辞力(レトリック)がなければ、すらりと一言であれほど的確な表現ができるものではないでしょう”
 それからもう一つ「ブロードウェイの大統領のような重鎮」といわれ演出家で劇評家のハロルド・クラーマンが演出を頼まれての来日のときの模様が書いてある。 かなり厳しい演出家で「そんな恥ずかしい演技は寝室でやれ。観客の前でやるな」あるいは「演技はナマではダメだ。模倣といっても抑制のない汚い演技はダメだ。模倣を作り直して創造するんだ。自然な演技なんてありはしない。自然さを演じるんだ」
 そして英子に言うのは「英子、舞台に表れる『心の弾み』を大事にしなさい。役者の魅力は『心の弾み』なんだ。
 静かな演技でもそれはにじみでる魅力になる。弾みのない役者には、わたしは興味がもてないのさ」映画にも共通するのだろうから、これから気をつけてみてみたい。
 村松英子は、1938年3月31日生まれ。兄に評論家の村松剛がいる。品のある理知的な顔立ちが印象的だ。


 

読書 ジョディ・ピコー「偽りをかさねて」

2007-12-16 11:07:56 | 読書

              
 アメリカでかなりの人気を得ているジョディ・ピコー。1992年のデビュー以来着実な歩みを続け、2004年の「わたしのなかのあなた」が評判となり以来人気作家の一角を占める。
 本作は、2006年に上梓して彼女の13作目にあたる。家族の物語といえば、困難や苦悩を一致団結して解決するというほほえましい展開が常道ではあるが、この小説は趣を異にしていて、冷徹な視線が容赦なく注がれ、家族といえども嘘や裏切りからも無縁ではない存在であることを、作者独自の哲学的比ゆを随所にちりばめながら語られる。

 一人娘で14歳のトリクシィがレイプされる。そのとき古典の教授である母親のローラは、教え子と研究室で不倫の真っ最中だった。それらを感づいていた夫ダニエルは、在宅の漫画家で日常は家事やトリクシィの面倒を見ている。反抗期のティーンエージャーを持つ親、その親たちに横たわる隙間風。
 トリクシィが言うレイプ犯は、同じハイスクールの上級生ジェイスン・アンダーヒルだった。このジェイスンは追い詰められて自殺したと思われたが、捜査が進むと殺人に変わる。
 容疑はトリクシィにかかり、トリクシィは父の育ったアラスカに逃げる。アラスカに見当をつけてトリクシィを追ったダニエルとローラではあったが、トリクシィを見つけて連れ戻したダニエルがジェイスン殺しの告白を妻ローラから聞かされるとは夢にも思っていなかった。
 トリクシィを主人公に、ティーンエージャーの心の動きを追いながら家族の絆を描いてみせる。よくできた作品ではあるが、注文もつけたくなる。
 ローラの不倫の原因が今ひとつ明確でない。刑事マイク・パーソロミューは、彼の娘がドラッグの過剰摂取で死亡した重荷を背負っている男として描かれるが、トリクシィたちの年代にも触れてあって、掘り下げれば社会性を帯びた厚みのあるものになったのではないかと思う。

 ここで描かれるティーンエージャーの生態の一端は、私のような年代には理解できないし恐怖すら覚える。
 具体的に引用すると“最近、パーティで広まっている三つのゲームがある。ディジーチェインというのは、連鎖式にセックスをすることだ――ある女の子が一人の男の子とやり、彼が別の女の子とやり、その女子がまたほかの男の子とやる、というふうにして、最初に戻るまで続ける。
 ストーンフェイスでは、男の子たちがテーブルを囲み、パンツを下ろしたまま何の表情も浮かべずに座っていると、女の子がテーブルの下にもぐりこんで、中の一人にフェラチオをする――そして全員でそれを受けたラッキーな人を当てる。
 レインボウは、その二つを組み合わせたようなものだ。十人程度の女の子たちが、それぞれ違う色の口紅を塗ってから、男の子たちとオーラルセックスをする。その晩のおしまいに一番多くの色をつけている男の子が勝者になる”信じられない思いだ。
 しかし、このような記述が物語を強化こそすれ、低俗に堕していないところは文体の品性によるところが大きいのだろう。この本は、幾通りにも読める気がする。

 著者は、1966年ニューヨーク州生まれ。プリンストン大学で創作を学んだ後、ハーヴァード大学大学院にて教育学修士号を取得。1992年にSongs of the Humpback Whaleで作家としてデビューする。以来、ほぼ年一冊のペースで作品を発表し続け多くの読者を獲得。社会に深く切り込むテーマと、ドラマティックなストーリー展開には定評がある。夫と三人の子供とともしニューハンプシャー州在住。

読書 アイラ・レヴィン「死の接吻」

2007-12-12 13:06:06 | 読書

              
 1929年8月にニューヨークで生まれ、今年の11月他界した著者が二十三歳のとき発表した作品。
 どうしてこの作品を読むことになったかといえば、ある新聞の記者が怖い作品として紹介していたからだ。図書館から借り出したのは昭和五十六年(1981年)12月発行の第四刷だった。何人もの手でページが繰られ何人もの人がスリルとサスペンスを楽しんだようで、表紙は擦り切れ本の中まで黄色く変色していた。
 図書館の係りの人が「くたびれていますが」と断りを言いながら手渡してくれた。

 貧しい家の出の青年バッド・コーリスが、母親に苦労しないで済むお金を与えようと、金持ちの子女を狙う。狙ったのはキングシップ製銅社長の末娘、同じ大学の同級生ドロシイだった。結婚にこぎつけて財産分与に預かろうという遠大な計画だった。
 この時代、第二次大戦が終わったあとで、若い連中はアプレゲールと呼ばれ戦前の価値観や権威を否定し道徳観も変容していた。そんな風潮の中で、若い二人はセックスを自重せずドロシイは妊娠してしまう。
 戦前の価値観や権威を引きずるドロシイの父親は、結婚もしないで妊娠した娘の結婚は認めるはずがないし、ドロシイはドロシイでモータハウスでもいいから二人で力を合わせようと言って聞かない。
 それではバッドの計画が破綻する。何が何でも父親に認めさせなくてはならない。堕胎しかない。胡散臭い薬を飲ませたがまったく効かない。このままではずるずると無為に時間が流れる。殺意を持ったバッドは、ドロシイに砒素を飲ませて自殺に見せかけようとするが、彼女が飲まなくて失敗する。
 考えあぐねた末、市政会館の屋上から突き落としてしまう。こうして第一の殺人が実行された。
 バッドに罪の意識は希薄だった。自殺に見せかけるため巧妙に誘導して書かせたドロシイの遺書とも言える手紙が姉のエレンに届いていた。警察はそれによって自殺と断定した。しかし、エレンは納得できず真相に迫る。危険を感じたバッドは、エレンも強盗に見せかけて拳銃で撃ち殺す。
 最後に残った長姉のマリオンに近づき、挙式目前にまでこぎつける。ここから意外な展開になりバッドの転落死で終焉する。
 
 かいつまんではこんなプロットだが、第一部がドロシイになっていて犯人の名前は出てこない。第二部のエレン編でバッドが現れる。プロットの構築には不自然さを極力排除しなければならない。そういう意味ではこの犯人の出現は、巧妙な伏線もあり納得できるものだ。そして、登場人物の繊細な描写も二十三歳という年齢を感じさせない。
 父親の娘たちに対する厳格な態度やそれに反発する娘たちという図式は、戦後の急速な意識の変革が見えてくる。
 この作品で1954年アメリカ探偵作家クラブ(MWA)の新人賞を受賞。また2003年には、MWA巨匠賞を受賞している。なお、‘67年「ローズマリーの赤ちゃん」’や‘72年「ステップフォードの妻たち」があり、これは二コール・キッドマン主演の「ステップフォード・ワイフ」として映画化されている。

読書 ロバート・B・パーカー「秘められた貌(かお)」

2007-12-08 10:43:03 | 読書

              
 銃で撃たれた後、木に吊るされたテレビ・キャスターとして有名人のウォルトン・ウィークス、その後すぐ大型ごみ容器で発見されたウィークスの妻も銃で撃たれていた。
 小さな田舎町のパラダイスで起きた大きな事件。それを捜査するのは、ジェッシイ・ストーン署長ほか数名の警察官。捜査で忙しい最中にジェッシイの元妻ジェンがレイプされたとジェッシイの元に駆け込んでくる。
 ジェンの件は恋人で私立探偵のサニー・ランドルに任せながら、元妻ジェンとそれにサニーとの愛の行方が大人の雰囲気で繊細に語られる。二つの件が並行して進み、パラダイス署の警官たちのやり取りにユーモアでくすぐられながら読後感に余韻を残す。
 とりわけジェッシイ署長、モリイ巡査、スーツ警官の日常は、ほのぼのとした雰囲気は捨てがたい。特にジェッシイ署長の頭のよさをひけらかせず、喋りすぎず相手の言葉に耳を傾けるという聞き上手で、ユーモア感覚あふれる言葉に魅入られる。それでも鋭い質問が飛ぶという相手にするとかなり手強い。
 おまけに腕力も相当なもの。それからもう一つ気づいたのは、男性作家の共通点として、女性を描写するのに性的なものを匂わせる点だろう。これは男の宿命みたいなものだろう。
「ジェッシイは大きなグリーンのレザー・ソファの片側に、ローリーがその反対側に座った。彼女は、白地に大きな赤い花柄模様の、丈の短いサマードレスを着ていた。脚を組むと、太股が露わになった。“なかなかいい腿をしている”ジェッシイが思った」女性作家の場合、こういう描写はないだろう。当たり前か。視点の違いは当然だから。

読書 マイクル・クライトン「NEXT-ネクストー」

2007-12-04 11:40:52 | 読書

              
 私たちには次ぎがあるが、それは一体どんなものなのだろう!遺伝子の売買か?ここでは遺伝子がテーマで、特別な細胞を持つ男の遺伝子をめぐり、その遺伝子の使われ方やバイオテクノロジー企業の儲け主義の破綻を多くの事実や作り話でスリリングに展開する。
 そもそも遺伝子とは何なのか? 私は具体的に説明できない。そこでいつものようにウィキペディアに跳んだ。そこにはこう書いてある。“遺伝子は生物の遺伝的な形質を規定する因子であり、遺伝情報の単位である”と書いてあるがこれ以上深入りしたくないので、遺伝子操作の作物やクローン牛・羊を連想する程度にしておこう。なにやらしち難しい題材ではあるが、表現は易しく随所に読者サービスと思われる箇所もある。やたら美女が出てきて眺める男たちをむずむずとさせる。
 それにこれこそ本題のメーンといえる、おうむのジェラールと類人猿のディヴによって活気とユーモアを与えてくれる。どちらも言葉が喋れる共通点がある。
 特にジェラールは、喋れるだけでなく人の物まねや物音をリアルに再現するという特技がある。ジェラールにかかればセックスシーンも下手な映画より圧倒的な迫力がある。あえぎ声は勿論絶頂をむかえた絶叫、ことの途中でかかる電話の音それにいらつく男女という具合。

 その一端を少し長いかも知れないが引用してみよう。大物投資家の秘書が持ち込んだジェラールとペットショップのスタン。“スタン・ミルグラムは、カリフォルニアの叔母の家を訪ねるため、車で家を出発した。現地まではちょっとした長旅だ。だが、走り始めて一時間もしないうちに、ジェラールがさっそく文句をいいだした。
「ああ、くさい」バックシートの鳥かごの中で、とまり木にとまったまま、ジェラールはいった。
「猛烈にくさくて鼻が曲がりそうだ」
ジェラールはそこで、窓の外を見た。
「このくさい場所はどういう場所だ?」
「オハイオ州コロンバスだよ」スタンは答えた。
「じつに不愉快だ」
「俗にいうだろう――コロンバスは華麗さのないクリーブランドだって」
オウムはなにもいわない。
「華麗ってわかるかい?」
「わかる。だまって運転しろ」
ジェラールは機嫌が悪そうだった。スタンにしてみれば、その点は納得がいかないところだ。この二日間、下にも置かないあつかいをしてきたのだから。ネットで洋鵡(ヨウム)の好むエサを調べ、旨いりんごや特別の青菜を与えてきたし、夜間にはジェラールが見られるように、ペットショップのテレビをつけっぱなしにしておいた。一日も経つと、ジェラールはスタンの指をかまなくなった。スタンの耳をかまずに肩に乗ってくれるようにもなった。それなのに……。
ジェラールがたずねた。
「もうそろそろ到着するのか?」
「なにいってんだい。まだ出発して一時間じゃないか」
「あとどのくらいかかる?」
「三日はドライブすることになるな。ジェラール」
「三日。二十四時間かける三、つまり七十二時間だな」
スタンは眉をひそめた。計算をする鳥なんて聞いたこともない。
「どこでそんな芸を憶えたんだ?」
「わたしはさまざまな才能を持つ人間だ」
「きみは人間じゃないだろ」スタンは笑った。「映画で憶えたのかい?」
時々このオウムは、映画のセリフを繰返すことがある。それはたしかだ。
「デイヴ」ジェラールは感情の欠落した男の声でいった。「これ以上は、この会話を続ける意味がない。さよならだ」(2001年宇宙の旅)
「ああ、待った。そのセリフ、知ってるぞ。『スターウォーズ』だっけ」
「シートベルトを締めて。大荒れの夜になるわよ」(イヴの総て)
スタンは眉をひそめた。
「飛行機の映画だったかな……」
「ここも捜すだろう、あそこも捜すだろう、フランス人どもは、ありとあらゆるところを――」(紅はこべ)
「ああ、それは映画じゃないな。たしか、詩だった」
「これはしたり!」(紅はこべ)こんどは英国風の発音だった。
「降参だよ」スタンはいった。
「わたしもだ」ジェラールは答え、リアルなためいきの音をまねた。「あとどのくらいかかるんだね?」
「三日だっていったろ」
ヨウムは窓の外と後方へ流れゆく街を眺めた。
「文明の恩恵から切り離されたってわけだ」(駅馬車)
こんどはカウボーイ風の、語尾を引きずるしゃべりかただった。続いて、バンジョーをつまびく音をまねしだした。

 その日、だいぶあとになって、ヨウムはフランス語の歌を歌いだした。いや、もしかするとアラビア語の歌かもしれない。スタンにはよくわからなかった。いずれにしても、外国の言葉であることはたしかだ。まるでライブ・コンサートにきたみたいだった。少なくとも、ライブ録音を聞かされているみたいではある。というのは、ジェラールは歌を歌いだす前に、聴衆のざわめきや楽器のチューニングの音、演奏者たちがステージに出てくるときの歓声なども再現してみせたからである。歌自体は、“ディディ”だかなんだかのことを歌っているように聞こえた。
 しばらくはおもしろかった。外国のラジオを聴いているような感じだったからだ。しかし、ジェラールは何度も同じことを繰返す傾向があり、そのうちにつらくなってきた。あるとき、ある狭い間道で、女性ドライバーの車のうしろについてしまった。進みが遅いので、一、二回、追い越そうとしたが、なかなかうまくいかない。しばらくのろのろと進むうちに、ジェラールがいいだした。
「ル・ソレイユ・セ・ボーおてんとうさんはきれいだね」(勝手にしやがれ)
そして、大きな銃声をまねた。
「それ、フランス語かい?」スタンはたずねた。さらに何度か、銃声が響いた。
「ル・ソレイユ・セ・ボー」バン!
「ル・ソレイユ・セ・ボー」バン!
「ル・ソレイユ・セ・ボー」バン!
「ジェラール……」
「女の運転は臆病でいけねえ、とろとろ走りやがって」ヨウムはそういって、低く響く音を出した。
「なんで追い越さねえんだよ?……あ、そうか、ちっ、工事中か」
女性ドライバーは、やっとのことで右に折れてくれたが、右折ぶりがまたのろのろとしていて、そのうしろをすり抜けるとき、スタンは少し速度を落とさねばならなかった。
「ブレーキを踏むなっての……ブガティじいさんもいってたぜ、車は走らせるためのもんで、止まるためのもんじゃねってよ」
スタンはためいきをついた。
「きみがいってることはひとこともわからないよ、ジェラール」
「やべえ、ポ リ だ!」
こんどはパトカーのサイレンのような音をたてはじめた。
「もういいから」
スタンはラジオのスイッチを入れた。午後も遅くなっている。すでにメリーヴィルを通りすぎ、セントルイスに向かっているところだ。だいぶ車が多くなってきていた。
「もう着くか?」ジェラールがたずねた。
スタンはためいきをついた。
「訊かないでくれ」
どうやら、長くて消耗する旅になりそうだった“

チョット長かったかな。この辺でコーヒーでもどうぞ。

 訳者あとがきによると、本の中に現れる人名や事件はほぼ実在、実名をひねったものだという。勿論フィクションの部分もあるが、金髪遺伝子をめぐる報道のドタバタは本当にあったことだし、イタリア首相が吸引した体脂肪で作った石鹸の話、自分の体脂肪を燃料にしてしまった男の話、DNAのモザイク、サイトカイン・ストーム、カナバン病試料の私物化、少女たちの卵子売り、精子バンクの提供者を捕捉して養育費を請求する話等、すべて実話であるという。
 わたしは千葉に在住していることもあって、「箱には〈追跡技術(トラックテック)インダストリーズ、チバシティ、ジャパン〉の文字が入っている」という記述を見てインターネットで調べたが不明だった。それにしても日本の一地方都市名が作品に表れるのを見たのは初めてでこれが最後かもしれない。この追跡技術というのは、例えばスニーカーに埋め込んだ小さな部品からの電波で居場所を知らせるというものだ。日本人なら出来そうな技術に思える。
 著者は、1942年、イリノイ州シカゴ生れ。ハーバード大学で人類学を専攻後、ハーバード・メディカル・スクールを卒業。在学中からミステリを書きはじめ、1968年に発表した『緊急の場合には』でアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長編賞を受賞し、69年の『アンドロメダ病原体』がベストセラーとなる。その後『ジュラシックパーク』『ディスクロージャー』『エアフレームー機体―』『タイムライン』『プレイー獲物―』『恐怖の存在』など、次々と話題作を世に送り出し、その著作のほとんどが映画化されている。また、自らも映画監督として活躍した経験を持つほか、人気TVドラマシリーズ『ER』の製作者としても知られる。