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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場16番札所水澤寺(みずさわでら)」

2009-05-30 13:17:41 | 旅行

           
                 
                 

 残雪を見た金精峠のトンネルを抜け、春色濃い沼田から国道17号線を渋川市へ走る。渋川に近づくと交通量が多くなってくる。伊香保町水澤寺には、日没にはまだ早い時刻に着いた。
           
 広い駐車場に観光バスが一台、乗用車二台停まっていた。外にでるとやはり寒い。
           
 本堂は、山かげになっているので暮色が漂っていた。本堂に近づくと、観光バスで来た巡礼グループの読経が聞こえてきた。このお寺のホームページには、開祖や由来について記されてある。それによると「1300年あまり前、推古天皇、持統天皇の勅願による高麗の高僧、恵灌僧正の開基であり、五徳山水澤寺の名称は推古天皇の宸筆(しんぴつ、天皇の筆跡)の額名によるものである。とあるが、額名の意味について、インターネット辞書で検索したがどこにも見られなかった。
           
 本尊は、国司(奈良・平安時代、地方官の称)高野辺家成公の三女、伊香保姫の持仏(守り本尊として信仰する仏像)の十一面千手観世音菩薩である。その頃は、お堂の数三十以上、仏像の数1,200体にもなったが、再三の災火のより現在の建物は大永年間(1521-1528)に仮堂を造立し元禄年間から宝暦天命年間にかけて三十三年間に及ぶ大改築によるものである。
 歴代天皇の勅願寺として伝わり、上野の国司の菩提寺であった。また、朱色に塗られたお堂と三つ葉葵は、徳川家の祈願寺として名高いものだった。
 ここも観光寺の色合いが強く商魂が見え隠れする。駐車場は無料だったが。それに、この水澤の地は「水澤うどん」の店が多いらしい。これも観光目的に作られたようだ。味は知らない。

デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場18番札所中襌寺(ちゅうぜんじ)」

2009-05-26 13:08:27 | 旅行

           
            仁 王 門
           
            ユーモラスは表情の吽形(うんぎょう)仁王像
           
            阿形(あぎょう)仁王像
 群馬の水澤寺や長谷寺(ちょうこくじ)にも足を延ばす計画のため、金精峠の開通を待って出かけた。金精峠は毎年4月末まで冬季通行止めになる。今年2009年は、4月24日(金曜日)正午に開通した。
 4月の末というのに風が冷たく気温も3月下旬というから結構冷え込んだ。朝6時に自宅を出たが国道16号線は相変わらずの渋滞。国道50号線から三桁国道122号線に入りようやく快適な走行になった。
 草木湖あたりで正午になり、草木湖展望台駐車場に乗り入れて、セブンイレブンで買った弁当で昼食にする。太陽はさんさんと照りつけるが、吹く風は真冬の冷たさで車の中の暖かさがありがたい。
 二車線の日光いろは坂で二台の観光バスを追い抜いた後は、前も後ろも車の姿を見なかった。この時季はまだ観光には早いのか、やはり湖畔に緑が満ちるときを待ちかねているのかも知れない。今はまだまだ人影の少ない季節なのだろう。おそらくゴールデンウィークがその始まりになるはずだ。
 中禅寺には午後1時半に着いた。外に出ると冷たい強い風が吹きぬけ、思わずウインド・ブレーカーの下にフリースのベストを着込んだ。仁王門の横に何台か停められる場所もあるが、仁王門前の道を回りこむと中禅寺湖畔に大きな駐車場があり、そこからも中禅寺への入口がある。ここでは拝観料として500円を払うことになる。
 世界遺産に登録された日光山輪王寺の別院であるこのお寺は、延暦3年(784年)日光山を開祖した奈良時代から平安時代初期の僧、勝道上人(しょうどうしょうにん)によって二荒山神社の神宮寺(神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院)として男体山登拝口に建立された。
 明治35年(1902年)9月28日から29日にかけての暴風雨で起こった男体山の山津波(現在では土石流といわれている)により壊滅的被害をいうけ、現在地に再建された。中禅寺の別称立木観音といわれる由縁の十一面千手観音像は、根を生やした立木に勝道上人が奈良時代末期から平安時代初期にかけて彫刻したもので、この像高約5㍍の本尊を昭和25年(1950年)8月29日国が重要文化財に指定した。
                
                 愛 染 堂
 仁王門から入っていくと鐘楼や1938年制作の上原謙、田中絹代共演の映画「愛染かつら」のロケ地となった愛染堂、木の根元に出来たこぶのような隆起を、すべての苦しみを飲み込んだ身代わりのこぶとして案内され、奥まった本堂へと導かれる。
           
            奥に本堂がある
 本堂の前で僧侶が説明をしていた。やがて本堂に招き入れられ、立木観音の故事来歴披露のあと、お守り(2,000円)の待望の子供を授かったとか宝くじに当たったとかのPRに辟易させられる。帰路は順路があって別の参拝所に立ち寄る按配になっていた。観光寺の面目躍如といったところ。
            
             冷たい風に湖面が波立っていた
 つぎの水澤寺へは、中禅寺を出て金精峠を越えることになる。峠を越えるといっても、いわゆる山肌を切り開いた切通しを越えるわけではない。金精トンネルを走り抜けるだけのことだ。
            
 交通量の少ない国道120号線の除雪は済んでいたが、残雪が道路両脇にあって木々の芽吹きはまだ先のこと。ゆっくりと下界に降りると、桜の花が春を知らせてくれた。

T・ジェファーソン・パーカー「レッド・ボイス」

2009-05-22 12:52:40 | 読書

            
 午前四時、橋のたもとの未舗装の道路を少し入ったところに、四駆のフォード・エクスプローラが停まっていた。パトカーも二台停まり、回転灯の青い光がエクスプローラーの屋根に残った雨粒に反射していた。
 一台のパトカーは、エクスプローラーと直角に停められ、ヘッドライトで照らしていた。運転席側の窓ガラスは、粉々に砕け男がぐったりと窓枠に寄りかかって眠っているように見えたが、飛散したおびただしい血がそうでないことを示していた。死んでいたのは、ギャレット・アスプルンドだった。
 ギャレット・アスプルンドは、サンディエゴ市警職業規範課の元刑事で、現在はサンディエゴ市倫理局捜査課の捜査官だった。この倫理局は、政治家や市職員や取引業者が私利のために法を破るのを阻止する目的で設立され、捜査課の職務は市職員を監視することにある。したがって対象が広範囲に及びギャレットの敵も多かった。
 それらを踏まえて捜査するのは、サンディエゴ市警殺人課刑事ロビー・ブラウンローと美人のパートナー、マッケンジー刑事だった。そのロビーには、誰にも体験できない忌まわしい過去がある。肌寒い三月の午後、ダウンタウンにある〈ラスパルマス・ホテル〉六階から火が出とき、ロビーは向かいのレストランで昼食をとろうとしていた。
 ターキーバーガーを一口かじっただけで、逃げ遅れた人たちの救助に走った。煙が充満した六階の部屋から男の悲鳴が聞こえた。ドアをけり開けて中に入ると、男は窓枠から振り向いた。その目には狂気が宿っていた。大男だった。男はロビーに突進してきて、窓から放り投げた。落下の途中いろいろな思いが去来したが、それまでしがみついていたものすべてを手放した。
 そのとたん、ものごとがはっきり見え、理解できたような気がした。これが本当に開放されたといえるのかも知れない。死の直前、人はどんな思いを抱くのだろうか。誰も真実を語ってくれない。あるのは、想像力で語るしかない。死を受け入れた瞬間、神がそれを拒んだかのように、ホテルの色あせた赤い日よけに激突し、舗道に叩きつけられた。
 三年前に起きたこの出来事が、ロビーに共感覚を植えつけた。共感覚とは、一つの感覚がほかの領域の感覚をも引き起こす現象のことで、ロビーの場合、人と話しているときに相手の声が色つきの形となって見えることがある。たとえば幸せそうな人間の声の色は、青い三角。赤い四角は、信用できない人間。緑は嫉妬深い人間というわけ。これが捜査に非常に役立っているのかというと確信を持って言える段階ではないようだ。捜査はお決まりの段階を踏んで進められる。
 最近、私はミステリーにあまり興味を覚えなくなった。殺人事件や強盗事件にしても、この世で起こるものは書きつくされている。いったいどうやって新味を出すか。この本の共感覚もその類ではあるが、それが中心となっているわけでもない。 やはり、男女の愛憎や肉親の情を描かざるを得ない。そうしたところで最終的には、作家の文章力が読者をひきつけるのは間違いない。この本の結末も平凡だったし、T・ジェファーソン・パーカーの文章力(翻訳本だから翻訳力もあわせて)で読ませている。
 この本では、本筋の犯人さがしとともにサイド・ストーリーとして、ロビーは妻ジーナの不可解な感情に悩まされる。ある日、そのジーナが探さないでとのメモを残して家をでる。ロビーは何かの拍子にジーナを思い出すという苦悶が克明に描かれる。
 ジーナの父親から聞いたラスベガスのアパートメントを訪れたとき、「ここへ来たのは人生をやり直すためよ。もっと何かあると思うの。存在するのはわかっている何か。確かに存在するけれど、わたしには理解できなくて言葉では言い表せない何か。わたしはもうあなたを愛していない」これがジーナの言葉だった。
 ロビーは決断する。落下で味わった開放を今一度実行すべきだと。ロビーも人生をやり直そうとする。「私にはきみを引き止めることはできない。きみが必要としているものを与えることもできない。それが何なのかもわからない。さよなら、ジーナ」
 ロビーは同じ共感覚者の女性シンガー・ソング・ライター リリアン・スミスと、新しい人生を歩みだす気配を見せながら物語は終わる。わたしは本筋の犯人を追うストーリーよりも、このサイド・ストーリーに強い印象を受けた。
 著者は、ロサンジェルス生まれ。カリフォルニア大学アーヴァン校で英文学を専攻する。1976年に卒業後、新聞記者となり、オレンジ郡記者クラブから三度表彰された。記者生活を送るかたわら小説の執筆を始め、1985年に処女作を発表。その後、第9作の『サイレント・ジョー』(2001年)でアメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞最優秀長篇賞を獲得した。さらに『ブラック・ウォーター』(2002年)、『コールド・ロード』(2003年)と話題作を発表し続け、『カリフォルニア・ガール』(2004年)で再びMWA賞最優秀長篇賞を受賞した。

デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場21番札所日輪寺(にちりんじ)」

2009-05-19 13:04:50 | 旅行

 日輪寺は、茨城県と福島県の県境に位置する標高1,022㍍の八溝山(はちみぞさん)の八合目にある。ここまでの道のりは、インターネットの地図でルートを選んでみた。その結果は、主要国道を避けて地方道を走ることになった。それはかなり走りやすい道だった。
 常陸太田市から地方道29号線を走り33号線に入るが、途中国道461号線と重なって地方道28号線でようやく日輪寺へと導かれる。道路工事のせいで日輪寺へ本来のルートではなく、八溝山への登山ルートの林道に迂回させられた。
           
           林道入口(登山道にもなっている。歩くとかなり時間がかかる)
 林道といっても、かつての未舗装で轍がくっきりというわけではない。舗装はされて道幅が狭いだけのことだ。林道は意外に走りやすい。みんなが慎重になり集中しているせいだろう。ガードレールもない道となれば、誰でも命は惜しい。出会い頭の衝突なんて、街中の交差点ぐらいのものだ。山はまだ冬枯れの色合いが濃い。
           
 さて、この日輪寺、写真で見るように古色蒼然としたお寺のイメージとはかなり違っている。寺の由来を見てもその辺の記述はない。
 由来の案内板によれば、1300年前に開山され(役行者が開いたと伝えられる)、大同三年弘法大師(空海)が十一面観音像を刻み本尊とした。室町時代(1336年~1573年)以降興隆し、江戸時代(1603年~1867年)には、江戸幕府から朱印状を与えられた。
 明治13年(1880年)山火事により堂塔を焼失したが観音像などは難を逃れ、大正4年(1915年)4月観音堂跡に再建された。これらの由来については、ウィキペディアと日輪寺の掲示板を参考に記した。
 なお、このお寺に5~6歳のガキがいて、私たちが駐車場に着いたとき「ここだよ。ここだよ」と囀っていた。意味がよく分からず駐車場の真ん中の案内板を見てみると日輪寺の印がない。ちょうど階段から降りてきた人に聞くと、階段の奥を指差して「ここです」と言った。その人は作務衣のようなものを着ていたので、おそらく住職だろう。
 ガキが私たちを誘導していたのだ。「ここを拝んで! お賽銭を入れて!」なんてほざくガキに妻がつかまってしまった。そんなガキを振り払って、本堂で参拝した。もちろんお賽銭とともに。
            
 本堂では四人の参拝者が読経していた。林道には富士山も見えるという展望台もあるが、この日は春霞に覆われていて見えなかった。

デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場22番札所佐竹寺(さたけじ)」

2009-05-16 13:50:14 | 旅行

 あっという間に桜の咲く季節に入り、冬の寒さが記憶から幻のように消えてしまった。うららかな陽気は、人の心を浮き立たせるもので、茨城県常陸太田市にあるこのお寺への道のりも快適だった。あまり使わない高速道路を走ったため意外に早く着いた。
 それにしても時速百キロで走っていても、軽自動車のバンに追い越されるとはね。どう考えてもあのぺらぺらの紙のようなボディの軽でよく走るわ。ドライバーは、無知で無謀の見本に見えるがね。私から言わせれば、軽は軽くて怖い。性能がよくなったのは確かだが、高速運転には向いていない。ひたすら幸運を祈る。
 それに追い越の方法に問題のある車が多い。追い越してすぐ車線に入ってくるのはアマチュアの見本。自分の車のバックミラーに追い越した車が写ってから、走行車線に戻るべきだ。これで適度の車間距離が保たれる。これは「交通の教則」にも明記してある。そんなことに憤慨しながらも目当てのお寺に着いた。
           
            仁 王 門
           
           吽形(うんぎょう)仁王像
           
           阿形(あぎょう)仁王像
 このお寺は、寛和元年(985年)花山天皇の勅願により、元蜜上人が開山したと伝えられる。源義光の孫の源昌義は、寺領を寄進し祈願所とした。昌義はこの寺で節が一つしかない竹を見つけ、これを瑞光とし、佐竹氏を称したとされる。
 昔、鶴ヶ池の北、観音山にあったが、天文12年(1543年)10月、兵火により消失し、同15年佐竹氏18代義昭が佐竹城(太田城)の鬼門除けとして、この地に再建された。
 最盛期には六支院と三ヶ坊を有したが、関ヶ原の合戦後、佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。それでも、江戸時代には坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあったが、明治に入っての廃仏毀釈より荒廃し、昭和24年(1949年)まで無住の寺であった。
           
            本 堂
           
 往時をしのぶ本堂は、珍しい北向きで茅葺の寄せ棟造り、主屋の周囲にこけら葺きの裳階(もこし=辞書には裳層ともあった。本来の屋根の下につけられた差しかけの屋根。法隆寺の金堂や薬師寺の塔など)をめぐらし、正面には唐破風(からはふ、曲線状に作った破風)がつく。ちなみに破風というのは、日本建築で切妻屋根(二枚の板を形に合わせただけの簡単な屋根)の端につけた「⋏」の形の板。
 窓や柱、梁などに桃山建築につながる意匠が見られ、1906年に国の重要文化財に指定された。残念ながら私には建築の知識が乏しく、桃山建築の意匠につながるといわれてもよく分からない。仁王門は、昭和15年(1940年)の再建のようで、中にある仁王像は、宝永年間(1704年~1711年)の作とされている。参拝者は、わたしたちのほかに、中年の二人連れが来ていた。
 お寺の向かいの民家が乾燥の青豆や黒いもち米を小さな袋に入れたものを無人のスタンドで売っていた。青豆が一袋百円、もち米が二百円の値段だった。買って帰って食べたが美味しかった。

井原西鶴 現代語訳「好色五人女」

2009-05-13 13:04:37 | 読書

           
 “好色‘というのはいつも目を惹くもので、角川の新聞広告だったか、井原西鶴のこのタイトルが目に留まった。図書館で借り出したのは、吉行淳之助、丹羽文雄訳の河出文庫版だった。
 内容は、“好色五人女”“好色一代女”それに“西鶴置土産”という構成。解題によれば、“掟と道徳の支配下にある一般社会の愛欲を、女性を主人公として描いたもので、自由な姿勢でテーマを追求している”という好色五人女は、「お夏清十郎物語」「樽屋おせん物語」「暦屋おさん物語」「八百屋お七物語」「おまん源五兵衛物語」で、主人公となるのはいずれも絶世の美女で若くてお色気も申し分がない。
 で、いい女とはどんな女かというと“頸(くび)すじがほっそりと長く、目がぱっちりして、額の生え際は化粧しないでも美しく、下の小袖は白絹(しらぎぬ)の裾まわし、中に浅黄色の裾まわし、上に樺色(かばいろ)の裾まわしでそれに日本画を描かせて、左の袖に兼好法師の面影、ひとり燈(ともしび)のもとに古き文など見て……、の条(くだり)を絵にしているとは、勿体ぶった趣向である。
 帯は市松模様を織り出したビロウドで、御所染めの被衣(かつぎ)をかぶり、薄紫の絹足袋。三色の紐で編んだ鼻緒の雪駄(せった)をはいて音も立てずに歩いてゆく恰好のよい腰つき”という色っぽい女の一例。
 顔は現代でも通用するが、衣装については、理解の及ばないところが多い。これは辞書を引きながら読むしかない。小袖(袖の小さな普段着)、裾まわし(腰のあたりから下につける裏布)、御所染め(寛永(1624~1644年)の頃、女院の御所で好んで染められ官女などに贈った染物。これを模したものが各地で流行したという)これだけでは配色などは分からない。被衣(かつぎと読み、頭にかぶること)というがこれもイメージが湧かない。それにしても、薄紫の絹の足袋などなかなか粋でお洒落ではないか。そんな見事な衣装に身を包む女の素肌は? と、つい思ってしまうが、西鶴は詳しくリアルにはしていない。古い掟と道徳の下では、この表現が精一杯だったのだろう。
 次いで「好色一代女」は、遊女の男遍歴を語るというもの。親からの遺産や築き上げた財を色事の道にのめり込んで没落する様が悲しい。男は女の手練手管にかかれば、蜘蛛の巣に囚われた蝶々のように手も足も出ない。
 じゃあ女はいつも安泰かというと、実はそうでもない。情欲の強い年増女が、策を弄しすぎて男が没落すれば女の運命も下り坂となる。この時代、食糧事情は今と比べて劣悪のはずだが、情欲のほうはお盛んだった。
 夜ともなれば薄暗い油の明かり(ろうそくはぜいたく品)ではすることがない。出来ることといえば、アレしかない。皆さん熱心に励んだことだろう。それにしても人生50年ほどの時代、40代後半には性欲も衰えたのだろうか。強壮剤を飲んでいたようだが。効いていたのかは不明。
 とは言っても70歳まで生きる人もいる。元遊女がこの老人の家に下女と妾の二役をするという約束をして住み込んだ。足元のおぼつかない老人だから寝床で足をさするくらいと思っていたが、猛烈に元気な股間の一物に女の寂しさを紛らわせてくれるどころか、一晩中攻められ二十日も経たないうちに疲労困憊しせめて死なないうちにとお暇をもらったという小話もある。
 では現代人は精力絶倫かといえば、答えはノーだ。過度のストレス(毎日の通勤の満員電車は、かなりのストレスだ。それに仕事の重荷、あるいは家庭の悩みなど)に加え、栄養の過剰摂取で成人病が蔓延、飲む薬の副作用が男性機能不全に拍車をかけている。元禄の世も現代も変わらぬ悩みなのだろう。あっ、そうそう春画がこの時代、結構劣情に刺激を与えていたようだ。浮世絵師も金儲けに余念がなかったのかもしれない。
 なお、「西鶴置土産」は、西鶴の遺稿で傑作の評が高い。さて、文体から受ける印象は、簡潔な表現と独特の比ゆに面白味を味わう。少し引用してみると、“松の風さえ枝を鳴らさない、太平の御代(みよ)、長年、江戸詰めであったある大名の奥方がご逝去になった。
 家中の者は、世継ぎの若殿がないのを心配して、みめ美しく家筋正しい女を四十人あまり、お局(つぼね)の才覚で、殿様のご機嫌のよい時を見計らい、お寝間のお伽(とぎ)にさし出してみた。みないずれも初桜、花のつぼみ、一雨ぬれたほころび、盛りをみせよう面影の美しさ、眺めに飽きるはずもない。けれども、このうち一人として、殿様のお気に召さず、家中の心配は、ひととおりではない……”とまあこんな具合で、丹羽文雄の名訳もあろうが風雅の趣に余裕を感じる。
 井原西鶴は、寛永19年~元禄6年(1642年~1693年)8月51歳で病没。江戸前期の俳諧師、浮世草子作者。本名、平山藤五。大坂の町人の家に生まれる。10代から俳諧の世界で活躍。41歳で発表した浮世草子の処女作『好色一代男』が大変な話題を呼び、人気作者となる。『好色五人女』『男色大鑑』『世間胸算用』など数多くの著作がいまも親しまれている。

デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場20番札所西明寺(さいみょうじ)」

2009-05-10 21:05:56 | 旅行

            
             仁 王 門
            
             阿形(あぎょう)仁王像
            
             吽形(うんぎょう)仁王像
             
 このお寺は、天平9年(737年)行基の草創、紀有麻呂(きのありまろ)によって建立され、天平11年(739年)落慶供養が行われたと伝えられる。
 延暦元年には一山12坊を数えて隆盛を極め、また延喜5年(905年)栄山師によって観音像が修造された。しかし、約220年後の大治2年(1127年)の兵火により堂塔12坊とも焼失したが、治承2年(1178年)堂宇宝塔再興し、承元3年(1209年)には、宇都宮景房によって本堂が修理され、更に建長7年平時頼によって七堂伽藍が再興されて壮麗を極めた。
 正平6年(1351年)には再び兵火にかかる災厄に遭遇したが、約40年後の応永元年(1394年)益子勝直によって堂宇が再建され、明応元年(1492年)には楼門が、天文7年(1538年)には三重塔が益子宮内大輔家宗によって建立された。その後、元禄14年(1701年)には平野亦市発願により本堂の再建が行われ、正徳4年(1714年)には閻魔堂が建立され、享保7年(1722年)には鐘楼が再建されて現況となった。
 国指定重要文化財 楼門、三重塔、本堂内厨子(ずし、仏像を安置する、堂の形をした仏具)県指定文化財 本堂、鐘楼ほか。あまり出来が良くないが、西明寺のホームページを見ると、治療院や老人ホームもあった。
 駐車場には巡礼のバスなのだろう、一台停まっていた。陽射しは西に傾いて黄昏時の雰囲気に包まれていた。車を発進させたのは、午後5時を回っていた。妻は高速道路で帰ろうと言い張っていたが、肝心のインターにたどり着けずに、どんどん南下して気がついたときには国道4号線の流れに乗っていた。
 車はスムーズに流れていて、妻も高速道路をあきらめたようだ。それにしてもいつもは混む国道16号線もスムーズな流れだった。この間の埼玉の札所めぐりのときと同様だった。トラックの少なさが目に付く。どうも深刻な不況の影響のように思える。

デジカメ持って小旅行 番外編「千葉・飯高寺(はんこうじ)」

2009-05-07 13:32:11 | 旅行

           
           飯 高 寺 講 堂
 ゴールデンウィーク真っ只中、遠出は渋滞で時間がかかりすぎるというわけで、例年は家で大リーグをテレビで観たり、近所の遊歩道でウォーキングをしたりしていたが、今年は天候に恵まれ地元のお寺に行く気になった。
 このお寺は、文化庁の国指定文化財等データベースで見つけていて、いつの日か訪ねてみたいと思っていたところだ。
                
                 木々に覆われた総門
            
            木立の影を講堂まで歩く
 千葉県匝嵯市飯高(そうさしいいだか)にある飯高寺は、観光寺とは一線を画していて、広い森に囲まれ入口にあたるひっそりとした総門をくぐると、講堂(本堂)までは林立する大木が作る暗い影の中を歩いていく。
            
 このお寺は、別名飯高壇林(いいだかだんりん)と言い僧侶の学問所だった。先週は、中禅寺や水澤寺という観光寺を巡ってきたせいか、ここの素朴でひっそりとした静寂に心が休まる思いを味わった。もちろん参拝者も何人か見かけた。講堂も素朴そのもので木のぬくもりが伝わるようだった。
 文化庁の解説文を引用すると“天正8年(1580年)に開創された日蓮宗の壇林で、慶安年間(1648年~1652年)に現在の伽藍が整えられた。講堂は壇林の中心建物であり、規模が大きく、禅宗の客殿型(客殿とは、貴族の家や寺院などで客を接待するために造られた建物または広間)本堂と似たような平面構成になる。
 鐘楼は方一間、鼓楼(ころう、寺院で、時を告げる太鼓をつるした建物、古くは鐘楼と相対して建てられた)は袴腰付で講堂の前方左右に建つ。総門はかなり離れて建つ簡素な高麗門である。近世において僧侶の学校であった壇林のうち、日蓮宗では最も古くまた格式が高く、規模も大きく、旧態をよく残した遺構として貴重であり、文化史上の価値も高い”とある。
               
               鼓 楼
            
             鐘 楼
            
             ボ タ ン 園
 国指定文化財は、講堂、鐘楼、鼓楼、総門で、境内を史跡として県が指定している。講堂の裏に小さなボタン園もあった。
 いずれにしてもこのお寺を訪れて、「来てよかった」と思うはずだ。お寺を出て九十九里浜方面に車を走らせたが、案の定渋滞につかまった。こうなれば家に帰るしかない。地元を巡るとこういう時の変わり身の早いのがいい。

デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場19番札所大谷寺(おおやじ)」

2009-05-03 13:14:47 | 旅行

           
 今回妻が助手席でナビゲーターを務めたので、迷うことは少なかった。もっともポイント地点を地図からコピーしたものを渡してあったが。
 宇都宮市大谷町1198にある通称大谷観音の大谷寺は観光寺だった。バス用の駐車場や整備された仁王門、各種案内板や看板の新しいこと。入場料は300円必要。
               
 洞窟の本堂の中は、人が近づくと作動する案内テープに宝物館まであった。勿論、堂内や宝物館は撮影禁止になっている。この日も、参拝者あるいは観光客が来ていた。
               
               パンフレットからスキャン
 弘法大師の名で知られる真言宗の開祖空海が断崖に彫ったとされる千手観音は、弘仁元年(平安時代初期、810年)の作といわれる。この像の下部に足組みを組んだと思われる四角形の穴が並んでいた。
 そして宝物館には、発掘された石斧などの土器が展示してあり、その中でもっとも注目されるのが人骨の展示だ。わざわざ本物とことわってあった。
            
 この人骨について、1998年(平成10年)5月29日付け読売新聞切抜きによると、33年前に出土したこの人骨は、縄文時代最古の「草創期」にあたる約1万1千年前のものだったことが専門家の調査で分かったとある。
 そして展示の説明では、「横臥屈葬(おうがくっそう)の姿が見られるこの人骨は、年齢20歳前後、身長154cmの男性で、昭和40年(1965年)4月、特別史跡、重要文化財大谷磨崖仏防災工事中、お堂下約150㎝位の地下より出土したもので、私たち現日本人のはるかな祖先の姿を知るのに貴重な資料です」とある。
 そしてこの人骨の頭蓋骨を基に、粘土で肉付けをした写真を見ると、鼻筋が通りなかなかのハンサム男だ。口元がやや猿を連想させるが。この時代の寿命は、30歳ほどだという。木の実が主食で、動物性たんぱく質が極端に少ないのがその原因と思われる。
 縄文時代から連綿と種が引き継がれ、今私たちがいると思うと、悠久なる時を隔ててはいるが、この青年に親しみが湧く不思議な感覚を覚えた。
             
             阿形(あぎょう)仁王像
             
             吽形(うんぎょう)仁王像