まるでジョン・グリッシャムのベストセラー「法律事務所」を彷彿とする展開に時間を忘れる。
ワシントンDCの巨大ロビイスト、デイヴィス・グループに一本釣りされたのがマイク・フォード。一本釣りされた所は、バーヴァード大学のゼミ。
マイクはロースクールの三年生、同時に政治学も学ぶ。そしてハーヴァードのラングデル・ホールを闊歩する前途洋々のエリート学生である。ゼミの名前は、「政治と戦略」。ジャケットにボタン・ダウンのシャツ、そしてチノパンといういでたち。ところどころほつれたり擦り切れたりしているが、選考制で定員16名のこのゼミにもぐりこんだが違和感なく溶け込んでいる。
このゼミは、経済・外交・軍事・政治などの分野でリーダーになるための登竜門と言われる。各界の大物たちが招へいされて講師を務める。このゼミには、フォーブス誌が年一回アメリカ合衆国企業上位500社を作成するが、その500社を顧客に取り込むことを目標に掲げるデイヴィス・グループの代表ヘンリー・デイヴィスが今教壇に立っている。超大物といっていい。
彼は低い声で「さて、問題のガブリロ・プリンツィップだ。彼は前に進み出て、見物人のひとりをブローニング1910で殴った。そしてそのあと、オーストリアの皇太子の喉と、その前に立ちはだかった夫人の腹部に銃弾を撃ち込んだ。そうやって、結果的に第一次世界大戦を引き起こすことになった。問題は動機だ。受け売はダメだぞ。大事なのは自分で考えることだ」
昨夜からの睡眠不足でこのゼミに遅れたマイクは、その答えを考えるよりも喫緊の課題に流れていく。マイクは、バーリーというバーでアルバイトをしている。(これを読んだとき、マイクは恵まれた家庭の出ではないと分かる。ハーヴァード、プリンストン、エール、ブラウン、コロンビア、コーネル、ダートマス、ペンシルベニアの8大学、いわゆるアイビー・リーグの学生の約7割がアメリカの上位20%の収入の家庭出身といわれる)
そのバーのウェイトレス、ケンドラが仕事中”わたしのうちでファックしない?”という目で誘われ、溺れそうになる黒髪と、淫らな妄想を抱かせるのに負けたせいだった。そんな至福のときを経て、自分のアパートに帰ってきて目にしたものは、路上に放り出されたガラクタや雑多なものだった。
キッチンのテーブルの上には、小さなメモが残されていた。「家具は借金のカタとしてもらっていく。未払いの負債額8万3千3百59ドルだ。クレンショー信販」とある。これは母親の胃がん治療に借りたものだ。未払いの返済金があり、学費の未払まである。
そんなことに思いをはせていると、「退屈なのかね、ミスター・フォード」研ぎ澄まされたナイフのような視線を向けられたマイク。「いいえ、そんなことはありません」
「だったら、この事件に対するきみの意見を聞かせてもらおうじゃないか」
威嚇するような声音のヘンリー・デイヴィス。マイクの頭の中で”しまったこれで競争相手のひとりは減った”と感じ、一流企業への就職も途絶えたかもしれない。
「復讐です。プリンツィップは貧しい家庭の出で捨て子です。みじめな境遇は、オーストリア人に踏みつけられているせいだと考えていました。19年にもわたる憎悪が、世に名を成すためなら、人殺しもいとわなかった。ターゲットは大物であればあるほどよかった」
マイクは上品なハーヴァード英語でなく、街のチンピラのような話し方をした。周囲には不快感が漂った。教室を出たマイクは、昨夜の疲れもあって早くシャワーを浴びたいと思いながら歩いていると、肩に手が置かれた。それはヘンリー・デイヴィスだった。
「話したいことがある。10時45分に私の部屋に来てくれ」これがすべての始まりとなる。
デイヴィス・グループの新入社員には、個室とアシスタントと隔週4千600ドル(約50万円ほど、月に直すと100万円になる)の給料が与えられる。それ以上のことは本人次第。説明会もノルマもガイドラインもないところから、仕事は自分で探さなくてはならない。
総務課や人事課と同様、新入社員には1階の部屋が割り当てられる。2階はシニア・アソシエイト(中間管理職といえばいいのか)、3階にはグループ代表のヘンリー・デイヴィスや幹部や上級管理職の部屋が連なっている。1日18時間以上働き、グループに利益をもたらせないとお払い箱になる。
マイクは根性のある男だ。生い立ちからして異色だ。子供のころは兄とともに悪の道で窃盗や住居侵入、自動車盗を繰り返していた。警察に捕まり刑務所か軍隊かと選択を迫られ、19歳で海軍に入った。
下士官に昇級、ペンサコーラ短期大学で1年学ぶ。そのあとフロリダ州立大学に移り、最優秀の成績で2年で卒業。ハーヴァード・ロウ・スクールの進学適性検査にはほぼ満点の成績で合格した。そして今、デイヴィス・グループの1階の部屋にいる。
時間が経つにつれ同期の桜の一人が去っていった。レースに負けたのだ。そんな厳しい現実の中で、一人の女性に行き当たった。2階のシニア・アソシエイト、アニー・クラークだ。アニーはマイクが惹かれる女性のすべてを持っていた。黒い巻き毛、あどけなさの残る顔、茶目っ気たっぷりの青い瞳、数か国語を操るアニー。
アニーに対する思いが募り始めたころ、マイクはシニア・アソシエイトに昇進した。アニーとは同格ではあるが、4年間のアニーの経験はまだマイクをリードする立場だった。マイクは二人きりになる機会を探っていたが、それは向こうからやってきた。
深夜1時、仕事の疲れと気分転換に地下のジムで汗を流していた。そこに現れたのがアニー。マイクは思い切って誘ってみた。「この週末は予定が入ってるの」これにひるむマイクではない。
「わかった。でも、いつか外で会えないかな」
「いいわよ。じゃあ、ハイキングとかは?」
そして実現したのは、仲間数人とシェナンドア国立公園でのハイキングだった。トレッキング・シューズに膝まであるウールのソックスを履いたアニーは、巨大な花崗岩を這いあがっている。しかもイエール大卒の良家のお嬢さまが、川でひと泳ぎしようと言い出したのだから驚く。友人たちは水が冷たいと言って敬遠する。アニーの視線は、マイクに向けられた。マイクが断れるはずがない。(愛しのアニーの言葉に反発したら、思いの成就は不可能)
アニーは靴と長袖のシャツを脱ぎ、マイクもシャツを脱ぎ半ズボン姿で川に飛び込む。そこで言ったのは、「滝の裏に行ってみない? ちょっとおっかないかもしれないけど」どうやらアニーは、マイクを試しているみたいなのだ。マイクは二つ返事で「OK]
暗い洞窟をアニーがマイクの手を引きながら前に進む。「いいこと。ここから水に潜って小さな水中トンネルを抜けるのよ。長さは12フィート(約4メートル弱)。流れに乗って進めば、滝の下に出る」
閉所恐怖症のマイクはビビったが「わかった」1分後には二人は滝つぼに落下していた。
恐怖の数十秒後の二人は昂奮していた。じっと見つめ合いマイクが顔の距離を詰めても、アニーの表情が変わらない。「こんなところでキスしないでいるのは難しいかも」とマイク。「わたしも。あなたがどこまで押してくるか興味があったの」
もうあとは、彼女の耳の上の髪に指を通し、手のひらを首筋にあてがって、まるで映画のように膝から力が抜け落ちてしまうようなキスをした。
その後アニーはマイクのアパートに転がり込んできた。そしてアニーの実家を訪れた。アニーの父ローレンス・クラーク卿は、ハント・カントリーと呼ばれる地域で、ブルーリッジの山腹とミドルバーグの街のあいだの緑したたる美しい丘陵地帯で、宅地の一画がけた外れに広く極端なイギリスびいきの土地柄なのだ。
ローレンス卿の敷地は、2500エーカー(一辺が3キロの正方形)の土地、1970年代に建てられたコロニアル様式の家屋。8つの寝室。6000本のボトルを収蔵できるワイン・セラー。馬20頭が飼える厩舎。屋内・屋外のプール。テニスコート、ラグビー場、拳銃・クレー射撃場、ゴルフ練習場、ソフトボールのフィールドなど。ここでアニーは育った。
ところで、このローレンス卿が食えないヤツなのだ。おんぼろのチェロキー・ジープにアニーを乗せて、ゲートから半マイルほどある道を屋敷に向かった。ローレンス卿が待ち構えていて、ドーベルマンを従えていた。握手の後、ジープを眺めマイクという男を値踏みし始めた。
ディナーは、20人用のテーブルに三人でついた。「きみとなんとかうまくやって行けたらいいのだが……」といってローレンス卿は微笑んだが目は笑っていなかった。ローレンス卿のようなイギリス風の気取った話し方だと、誰が相手でも人を見下しているようにしか見えない。
翌日、辞去するときアニーのいないところで「きみが何を考えているのかは知らないが、いずれにせよ、わたしはきみが娘にふさわしい男だと思っていない。娘がきみにどんなに熱をあげているとしても―――まあいい、もし娘を傷つけたら、たとえそれがわざとではなかったとしても容赦はしない。必ずきみを追い詰めてハリツケにしてやる」
マイクの胸のうちでは、そうそうあんたの思うようにはいかないぜ。この借りは返すつもりだからなと。
その後マイクは、グループの意向に沿うよう若き下院議員のエリック・ウォーカーと友人になることに専念した。しかし、マイクは盲目的に意向に沿う気はなかった。持ち前の猜疑心がフル稼働し始めた。ミステリーは必ず正義が勝つようにできている。
ヘンリー・デイヴィスは、何も秀才一人欲しかったわけではなかった。マイクのことは一切合切調べ上げ、忠実な番犬に仕立て上げようとしたがそうはならなかった。
マイクにとって特に役立ったのは、ロースクールの講義でもなければ、政治学のテキストでもなかった。若き日々のカギを使わず部屋に入る方法とか車を盗む方法、テロリストがやる連絡方法などだった。
ちなみにテロリストの連絡方法は、ホットメールのアドレスとパスワードを伝え、こちらからのメッセージは送信せずに下書き用のフォルダに保存しておくから、そちらも連絡したいときには同じようにして欲しいというものなのだ。
ちなみにマイクが車で移動中に聴く音楽は、ハリー・チャピンの1977年の「Cats in the cradle」だ。加えてハリー・チャピンは故人である。
著者マシュー・クワークは、ハーヴァードで歴史と文学を学び、卒業後はアトランティック誌の記者として、民間軍事請負企業や麻薬取引やテロ行為の訴追問題や国際ギャング団などに関する記事を書いている。ワシントン郊外に在住。本書は処女作。