↑ 日荷堂(にちかどう)の看板
7月8月、どうにも暑くてお出掛け出来ませんでした。
やっと何とか暑さも落ち着いてきたので、東京寺社巡りを再開しました。
再開1回目に選んだのは、足の悪い自分の為に 健脚の神様 です。
ご案内はこちら → 東京・谷中一丁目 健脚の神様「日荷上人」を祀る日蓮宗六浦山延壽寺
↓ 最寄りの駅は地下鉄千代田線 根津駅 出口1番です。
1番出口を出て、目の前の不忍通りを渡り、左手に向かって歩きます。
この通りにはお茶・のりや味噌の古い店が残っていたり、左右の細い道に入ると洒落た喫茶店などもあり歩いていても楽しい場所です。
2~3分歩くと大きな建物が見えてきます。
↓ 「不忍通りふれあい館」
文京区立の「不忍通りふれあい館」という施設で、ここを右に曲がって根津観音通り商店街に入ります。
↓ 根津観音通り商店街 入口
ここも風情のある店や新しい店が混在していて面白いですよ。
途中道を渡って真っすぐ行くと。
↓ この界隈で最も急勾配の坂、三浦坂。
足の悪い私にはうへぇですが、その足をお願いしに行くんだから頑張らなくては。
↓ 途中にある猫好きには有名な ねんねこ家さん
当日は残念ながら定休日でした。
えっちらおっちら登って突き当りを右に回ると。
↓ 近所のランドマーク ヒマラヤ杉が見えてきました。
あれ、写真で見て思っていたよりスリムだわ。
だいぶ枝打ちされている模様。
夏だから ? 虫でも着いた ?
その下、三叉路の角に「みかどパン店」さんが有ります。
元々「みかどパン店」のご主人のおじい様が鉢植えで育てていたのが大きくなったのがこのヒマラヤ杉だとか。
スリムになっていても、えーっ、そんなことあるのってくらい大きな杉です。
↓ そのすぐ横に目的地の延壽寺が有ります。入口
↓ 日荷堂(にちかどう)の看板
↓ 日荷堂
いつもより丁寧にお祈りしました。
「治らなくても、これ以上悪くなりませんように。」
以下はホームページより引用しています。
むかしむかし、今から約七百年前のお話
日荷上人は、南北朝時代のお坊様。
出家前は現在の横浜市金沢区六浦あたりに住む裕福な商人であったと言われていますが、残念ながら詳細な資料に乏しく、定かではありません。
しかしながら、上人様の偉業を伝える話は今も語り継がれています。
「健脚の神様」と呼ばれるようになった由縁が、以下のおはなし。
ある夜、六浦妙法 (日荷上人という尊称を授かる前の法名) の夢枕に仁王尊が現れました。
「われは称名寺の仁王だが、改宗して身延山の守護神になりたい。
おまえの力でなんとか身延山に送り届けてほしい」とのお告げでした。
さっそくそのお寺に「仁王をいただきたい」とかけあったのですが、もちろん聞き入れてもらえません。
そこで一策。和尚が囲碁好きということを耳にした妙法は、仁王像を賭けた勝負を挑んだのでした。
なんとか妙法が勝ち、約束どおり仁王を貰おうとするも、和尚は「あれは冗談」と取り合いません。
さらには、「あんな大きい仁王を担ぎ出せる訳がない」とも。
そこで妙法、ある夜のこと。
ひそかに山門から仁王尊二体を担ぎ出し、それらを背負うこと三日三晩。
横浜の地から富士山の裏にある身延山まで、歩き通しに歩き、奉納に成功したのでした。
ことの次第を聞いて身延山の住僧はたいそう驚きました。
現在伝わる「日荷」の尊称は、このときの住僧が授けたものだそうです。
「日」はもちろん、日蓮宗の開祖である日蓮大聖人から。
「荷」の文字には「荷物」の他にも、「任務」や「責任」といった意味もあります。
その怪力無双と篤い信仰心に感激した住僧が、
妙法の健脚に相応しい名前として考えたものでした。
現在の日荷上人
今なお、人々は延壽寺を「日荷さまの寺」と、親しみを込めてこう呼びます。
この日荷堂も火事や戦火によって度重なる消失を経験しつつも、その度に人々の後押しを受け再建されました。
現在の建物は、明治四十四年に再建されたもの。数回に渡る大修復を経て今日に至ります。
お堂の中には上人様の力にあやかるべく、無数の履物をあしらった絵馬が奉納されています。
今のように交通機関の発達していない昔の人にとって、足の病とはよほど大きなものだったのでしょう。
股関節の悪い私はぜひともお祈りしたいところでした。
↓ 本堂の方にもお祈りしなくては。その前に咲いていた曼殊沙華
こちらにもしっかりお願いをして暑いからすぐに帰ります。
↓ 帰り道、ここらは谷中町
↓ 三浦坂を上から見てもやっぱり急こう配。
↓ ねんねこ家さんの前の電柱に 「ねこ注意」!
↓ 商店街の空き地に畑が有り、端にはお花が植わってました。
なんかのんびり。
でも9月にしては暑過ぎました。
今度はどのお寺さん・神社さんに行こうかな。
7月8月、どうにも暑くてお出掛け出来ませんでした。
やっと何とか暑さも落ち着いてきたので、東京寺社巡りを再開しました。
再開1回目に選んだのは、足の悪い自分の為に 健脚の神様 です。
ご案内はこちら → 東京・谷中一丁目 健脚の神様「日荷上人」を祀る日蓮宗六浦山延壽寺
↓ 最寄りの駅は地下鉄千代田線 根津駅 出口1番です。
1番出口を出て、目の前の不忍通りを渡り、左手に向かって歩きます。
この通りにはお茶・のりや味噌の古い店が残っていたり、左右の細い道に入ると洒落た喫茶店などもあり歩いていても楽しい場所です。
2~3分歩くと大きな建物が見えてきます。
↓ 「不忍通りふれあい館」
文京区立の「不忍通りふれあい館」という施設で、ここを右に曲がって根津観音通り商店街に入ります。
↓ 根津観音通り商店街 入口
ここも風情のある店や新しい店が混在していて面白いですよ。
途中道を渡って真っすぐ行くと。
↓ この界隈で最も急勾配の坂、三浦坂。
足の悪い私にはうへぇですが、その足をお願いしに行くんだから頑張らなくては。
↓ 途中にある猫好きには有名な ねんねこ家さん
当日は残念ながら定休日でした。
えっちらおっちら登って突き当りを右に回ると。
↓ 近所のランドマーク ヒマラヤ杉が見えてきました。
あれ、写真で見て思っていたよりスリムだわ。
だいぶ枝打ちされている模様。
夏だから ? 虫でも着いた ?
その下、三叉路の角に「みかどパン店」さんが有ります。
元々「みかどパン店」のご主人のおじい様が鉢植えで育てていたのが大きくなったのがこのヒマラヤ杉だとか。
スリムになっていても、えーっ、そんなことあるのってくらい大きな杉です。
↓ そのすぐ横に目的地の延壽寺が有ります。入口
↓ 日荷堂(にちかどう)の看板
↓ 日荷堂
いつもより丁寧にお祈りしました。
「治らなくても、これ以上悪くなりませんように。」
以下はホームページより引用しています。
むかしむかし、今から約七百年前のお話
日荷上人は、南北朝時代のお坊様。
出家前は現在の横浜市金沢区六浦あたりに住む裕福な商人であったと言われていますが、残念ながら詳細な資料に乏しく、定かではありません。
しかしながら、上人様の偉業を伝える話は今も語り継がれています。
「健脚の神様」と呼ばれるようになった由縁が、以下のおはなし。
ある夜、六浦妙法 (日荷上人という尊称を授かる前の法名) の夢枕に仁王尊が現れました。
「われは称名寺の仁王だが、改宗して身延山の守護神になりたい。
おまえの力でなんとか身延山に送り届けてほしい」とのお告げでした。
さっそくそのお寺に「仁王をいただきたい」とかけあったのですが、もちろん聞き入れてもらえません。
そこで一策。和尚が囲碁好きということを耳にした妙法は、仁王像を賭けた勝負を挑んだのでした。
なんとか妙法が勝ち、約束どおり仁王を貰おうとするも、和尚は「あれは冗談」と取り合いません。
さらには、「あんな大きい仁王を担ぎ出せる訳がない」とも。
そこで妙法、ある夜のこと。
ひそかに山門から仁王尊二体を担ぎ出し、それらを背負うこと三日三晩。
横浜の地から富士山の裏にある身延山まで、歩き通しに歩き、奉納に成功したのでした。
ことの次第を聞いて身延山の住僧はたいそう驚きました。
現在伝わる「日荷」の尊称は、このときの住僧が授けたものだそうです。
「日」はもちろん、日蓮宗の開祖である日蓮大聖人から。
「荷」の文字には「荷物」の他にも、「任務」や「責任」といった意味もあります。
その怪力無双と篤い信仰心に感激した住僧が、
妙法の健脚に相応しい名前として考えたものでした。
現在の日荷上人
今なお、人々は延壽寺を「日荷さまの寺」と、親しみを込めてこう呼びます。
この日荷堂も火事や戦火によって度重なる消失を経験しつつも、その度に人々の後押しを受け再建されました。
現在の建物は、明治四十四年に再建されたもの。数回に渡る大修復を経て今日に至ります。
お堂の中には上人様の力にあやかるべく、無数の履物をあしらった絵馬が奉納されています。
今のように交通機関の発達していない昔の人にとって、足の病とはよほど大きなものだったのでしょう。
股関節の悪い私はぜひともお祈りしたいところでした。
↓ 本堂の方にもお祈りしなくては。その前に咲いていた曼殊沙華
こちらにもしっかりお願いをして暑いからすぐに帰ります。
↓ 帰り道、ここらは谷中町
↓ 三浦坂を上から見てもやっぱり急こう配。
↓ ねんねこ家さんの前の電柱に 「ねこ注意」!
↓ 商店街の空き地に畑が有り、端にはお花が植わってました。
なんかのんびり。
でも9月にしては暑過ぎました。
今度はどのお寺さん・神社さんに行こうかな。
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