猫とマンガとゴルフの日々

好きな物を題名に↑ 最近はゴルフとグルメお出かけ主体に。以前は1960年~70代マンガを紹介していました。ネタバレ有り。

古城 武司氏の思い出

2006年10月31日 00時59分56秒 | マンガ家名 か行
             マンガ家、古城 武司氏に描いて頂いた色紙 ↓ 

                


 1967年4月4日の日付になっています。多分、ご自宅で描いて頂いた物。


 
               もう一枚 可愛いでしょ。 ↓


               



 最初は姉に連れて行ってもらって、古城氏の仕事場へ出入りしていたのは中学生の頃でした。もう、その仕事場がどこにあったかも忘れた遠い昔のこと。
 折りから学校の文化祭で有志が集まって 「マンガ同好会」 の発表をしようということになり、読みきりの生原稿をお借りして貼らせていただいたりもしました。
 
 当時描いていらしたのは、「偉大なる王(わん)」 という中国の虎のお話。少し前後するかもしれませんが。その頃の絵柄は 「ワイルド・セブン」 の望月 三起也氏のようなワイルドな絵柄でした。でも、後で代表作となった1973年から少年画報社の「少年キング」で連載が開始された『おれとカネやん』 (原作  梶原 一騎氏) は、 「紫電改のタカ」 のちば てつや氏風の柔らかい画風でした。この色紙もそんな感じですね。


 何回か伺っていたある日、いつものように突然行くと、素晴らしいクロッキーを見せられました。見るからにハーフの美少女の絵で、「とても綺麗な子なんだ・・・。」とちょっと照れて言うのを見て、子供心に何か感じた私は、その後氏の仕事場に行かなくなりました。それだけの淡~い思い出です。華奢な感じのシャイな方でした。

 実は、今年2月8日に亡くなられたことを知りました。67歳、まだまだお若い年ですが、舌のガンだったそうです。今回調べたら、集英社の学習漫画「世界の歴史」「世界の伝記」シリーズのほか、流星人間ゾーンや伝説巨人イデオンといったアニメのマンガ化作品などでも活躍されたそうです。知りませんでした。

 
              心より、ご冥福をお祈り致します。
 
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文藝春秋デラックス 日本の笑い マンガ1000年史

2006年10月30日 10時44分06秒 | マンガ周辺記事 作家別は下をどうぞ ↓

                


 昔、文藝春秋デラックスという雑誌があって、結構好きで特集により買っていました。「ネコとその仲間達」、「目で見る女性史 日本の美人たち」、「目で見る女性史 世界の美人」、「人物・日本プロ野球」、とかまだ手元にあります。ビジュアル重視で綺麗なオフセット印刷。当時 (私が買っていたのは昭和50年~53年位か) 600円~900円した豪華雑誌です。

 この写真の号は、「日本の笑い マンガ1000年史」 昭和50年(1975)9月号 9月1日発行のもの。

 大人マンガ主体の本なので、正倉院のラクガキ (奈良時代) から始まって、鳥獣人物戯画 (平安時代)、信貴山縁起絵巻 (平安) 大津絵や江戸時代の草紙ものからひも解き、明治・大正・昭和のポンチ絵、戦後の大人マンガまで網羅しています。しか~し・・・。
 昭和50年といえば、既に少年・少女ストーリーマンガ全盛で、名作・傑作あまたありしも、ここでは徹底的に無視してます。それにはもちろん理由があって、文藝春秋社には、文春漫画賞というそれまで主に大人漫画に対して贈られていた大きな賞があり、ストーリーマンガはこういった大手の出版社では一段下に見られていたのですねきっと。表紙 「のらくろ」 なのに。(文藝春秋社に確かめたわけじゃないです。)
 
 しかしこの年、昭和50年の6月に、ついに 「動物つれづれ草」 と 「ブッダ」 で手塚 治虫氏が第21回文春漫画賞を受賞されました。子供マンガを主に描いていた手塚氏のストーリーマンガにこの賞が贈られた事で、氏は 「18年間欲しくて欲しくてたまらなかった。夜も眠れないほど嬉しい」、と言っています。(朝日文庫 手塚 治虫物語 1969-1989 より)

 中の記事で 「ゴルゴ13が出来るまで」 として、さいとう・たかをプロダクションを4Pほど紹介しています。プロダクション形式の紹介記事です。そして、特別描き下ろし長編(?)と銘打って、手塚氏の 「鉄腕アトム」 続編、核爆発抑制装置をかかえて太陽へ向かって飛びこんでいった後の後日談を7Pで掲載しています。

 これが笑えて・・・・くくく・・・。
 
 本当のアトムは宇宙人に助けられて他に生きている、という前フリが少しあってから、日本政府は第2のアトムをお茶ノ水博士に作らせます。がっ、それは政府の要望で、「人間そのもの」 に作られるのです。
 アクビをしながらお尻をボリボリ掻き、顔を洗うとこなんかいかにも人間 ! テレビばかり見て、社会見学するからお金おくれとお茶ノ水博士にせびり、女の子をナンパして 「7つの威力の1、女千人斬り!」 なんぞとのたまう始末。(人間そのものですから、有るんですよ生殖機能が)
 「シラケー」と呟き、「正義の味方なんて古いなぁ博士」 ですもん。挙句に自分のコピーを大量生産して世界中の国に売りつけ大もうけ、背任横領罪で御用となります。
 この本全体が大人マンガの特集ですから、当時の世相を風刺した作品となっているのでしょうか。

 この作品、実は数ヶ月前にマンガ喫茶で他の後日談作品とともに読んだばかりでした。「鉄腕アトム」のコミックスの最後、番外編ばかり集めた最後の2巻の中に入っていました。初出誌がうちにあったとは・・・・。

 古城 武司氏の色紙を探している時に昔の雑誌を見つけて、読みふけってしまいました。
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イラストアルバム 「萩尾 望都の世界」

2006年10月27日 10時38分35秒 | マンガ家名 は行
               

               


 A4サイズのイラスト集です。テレビランド増刊 イラストアルバム ⑥ 昭和53年(1978)7月30日 2刷 (あら、私が入社した年だわ) 
 94Pのうち、半ページ近くがカラーページです。「ポーの一族」 唯一のムック本という じゃっく(なんで漢字が出てこん ! 惹句) につられて買ったのに、ポーばかりじゃなかったです  ま、萩尾 望都様 好きだからいいけど。ポーのエドガーの素敵なイラストもありますが、ゴールデン・ライラックとか、詩画集にあったのやら、百億の昼と千億の夜の阿修羅とか、描き下ろしのイラストなどもあって、出版当時580円なら、お徳でしょう。デビュー前の作品や、デッサンなんかも巻末に載っているのです。

 その他、「百億~」 の原作者 光瀬 龍氏 や 中島 梓氏の寄稿文、「トーマの心臓」 の連載時の全扉絵集、とか 「ポーの一族」 の1740年から1932年までの年表なんてのまであります。ファンにはたまりません。

 私が興味深かったのは、 「九州時代の萩尾さん」 と題した、マンガ家 福山 康治氏の文章でした。

 お二人とも高校時代に初めてお会いしたようでしたが、当時の萩尾氏は、ペンもケント紙も使わずに、大学ノートに鉛筆だけで描いていたというのです。しかも、ぱらぱらと描かれたデッサンや周りに書かれたモノローグのようなアイディアなどでも、群を抜いて上手く、その世界観も現在の 「萩尾 望都」 の世界を既に内包していたというのです。福山氏も再三ペン描きを薦めたそうですが、
 
 以下まま転載
 
 萩尾さんほどの実力の持ち主ならば、すぐにでも雑誌に載るはずである。しかしなかなかペンを持とうとしなかった。まわりのものにはじれったく感じられた。
 しかし、今にして思えば、彼女はあの時期にじっくりと方法論なり、自分の世界なりを構築しつつあったのだろう。
 大学ノートにギッシリとつまったアイディアの数々、さまざまなキャラクター、現在の彼女の世界は、それらの一つ一つが色々に姿をかえ、昇華していったものであろう。

 萩尾さんがペンを持つようになってからのデビューは、あっという間だった。

 流石です。私も萩尾 望都を始めて見始めた時から、最初から上手い人だなぁと思っていた。当初は絵柄が 八代 まさこ氏 に少し似ていたが、後で何かで見たけど、当時好きで、影響を受けていたようです。でも、初期作品の 「10月の少女たち」 の中にある洋物などを見ると、やっぱり 萩尾 望都の世界 は 萩尾 望都の世界 で、誰のものでもないのです。
 絵柄も、ご本人は変わった、変わったと言っているし、もちろん 「ポーの一族」 の頃と今とは違うけれど、他の長年活躍されている女流マンガ家の方と比べたら、始めの頃と全然違うという事も無いと思うんですけど・・・。

 巻末の方に、COM が 「星とイモムシ」 というお題を出した時に描いて、結局締め切りに間に合わなくて出さなかったというお宝マンガも出てました。その時の入選者は 忠津 陽子氏 だったそうです。(!) 
 後、1度だけ COM に12Pの投稿作品を出したが、落選したとかインタビューに書いて有りました。ぐら・こんを探さないでよかった・・・。
 でも、その後すぐにプロとして各少女雑誌や、 COM に掲載されるようになったのですから、前述のペン描きするようになってからは早かった、というのもうなずけます。
 
 やっぱり書き足りない ! 又、萩尾作品をUPする時に参考として、引用させて頂きましょう。


 今 市子氏 「B級グルメ倶楽部」 1巻目 ゲット 今晩から読書予定。 るんるん 
 早く2巻目出ないかな。
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石ノ森 章太郎 「竜神沼」

2006年10月26日 10時27分08秒 | マンガ家名 あ行
 これ、間違いなんだか何かあるのか、表紙には 「竜神沼」 になってて、中のマンガの題名の方は 「龍神沼」 になっているんです。


                


 この本は、昭和42年(1967)2月1日 ㈱朝日ソノラマ発行 (初版とも書いてませんよ) の サンコミックスです。

 龍神沼・金色の目の少女・雪おんな・昨日はもう来ない だが明日もまた・きりとばらとほしと の5編が収録されています。初期の石ノ森少女マンガの傑作ぞろいです。このうち、龍神沼・昨日はもう来ない だが明日もまた・きりとばらとほしと は、少女クラブ(当時でも廃刊済み)、「金色の目の少女」 は少女フレンド  「雪おんな」 はなかよし に発表されています。

 はじめに として、石ノ森氏がコメントを書いていますが、引用させて頂きますと、

 ぼくの今まで出版した十数冊の新書版ものの中でも、特に好きな一冊になりそうです。いづれも少女雑誌に掲載したもので・・・略・・当時としてはどうしても描きたかった・・・略・・そして真剣に描いた、というなつかしい思い出がある一連の作品ばかりだから・・・略・・。

 そして、デビュー当時さる編集者のすすめで少女マンガではタブーとされていたスリラーもの、SFラブロマンスものといったマンガを描かせてもらったが、ぼくの力量不足で成功せず、その後は普通の少女マンガに近いものを描いていたが、図々しくダダをこねて、「夏冬二回の臨時増刊号で好きなものをかいてごらん」 と言ってもらい、描いたのがこれらの作品です。

 と言っています。思い入れは相当有ったようです。

 「龍神沼」 は、秋田書店刊の 「マンガ家入門」 1965年8月15日発行 の作例に使われていて、マンガの技法について例としていろいろ出ています。「マンガ家入門」 は自分も持っていたのですが、大分前に処分してしまって (泣) 取っとけば良かったなぁ。映画好きな石ノ森先生らしく、映画的手法を駆使した解説だったと記憶しています。(フラッシュバックとか) 

 東京から、いとこのユミの村にやってきた研一は、龍神沼のほとりで白い着物の少女に出会う。折からの村の龍神祭りに乗って話は進み、大人たちの生臭い思惑も絡んで・・・。白い百合を持ち、白い着物の少女は龍神沼の守り神、龍神様なのか・・・。静かなクライマックスと、エンディングが印象深い作品です。

 「金色の目の少女」 は少女フレンドを取っていた私は、リアルタイムで見てます。表紙の絵をよく覚えてます。
 雪に閉じ込められた雪山の山荘に金色の目の少女が現れ、――― SF的雪おんな ? 

 「雪おんな」 は、日本昔話。鶴の恩返しと、雪おんなを足して・・・。こちらでは、木原 敏江先生の可愛いバイプレーヤー、あの白菊君に会えます。(笑) 実は主人公の女の子の目が白菊君しているんですよ。

 「昨日はもう来ない だが明日もまた」 は以前書いたので ↓


              マンガ 「時空を越えて逢いに来る少女」 の系譜


 「きりとばらとほしと」 も以前の記事をご参照下さい。 ↓


               「きりとばらとほしと」~「ポーの一族」~「銀河荘なの!」 吸血鬼の系譜


 個人的な意見ですが、1960年代の石ノ森作品は、実験的なものも多くて、SFでは原作付き (福島正美・小松左京・平井和正・福本和也) もあって、意欲的にマンガの可能性を探っていらした時期でないかと。もっと後になると、先生の周りも大きくなって、商業的なことも絡んで、好き勝ってにあまり描けなくなっていったんでは無いかと・・・。歌手なんかも売れてくるとそうですけどね。
 
 その時期の象徴的な作品が、手塚先生をして 「あれはマンガじゃない」 と言わしめた問題作 「章太郎のファンタジーワールド ジュン」 COM 1967年1月~1969年2月号 になるのですが、えっと、まだ資料探してないので、この項は又、次の機会に・・・・。
 
 『もしもし~、予告ばかりたまってますけど~』

 はい、すみません。のんびりやります。(汗)
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有給とって、太平洋クラブ&アソシエイツ美野里コース へ

2006年10月25日 14時13分47秒 | ゴルフ
 サラリーマンの我々夫婦。春と秋の年2回、お互い有給を取って、高級ゴルフクラブさんへお邪魔するのが大変楽しみとなっております。なにしろ半額程の金額で、接待用のゴージャスなゴルフクラブへいけるのは平日しかありません !
 うっうっ。あーそれなのに、1ヶ月も前からそれは楽しみに待っていたこの日が台風並みのこの天気  (10月23・24日は関東地方は大荒れでした) 
 おかしいなぁ、我々二人して晴れバカップルのはずなんだけど。午後からなんとか曇りにはなりましたが。今日、会社の同僚に気の毒がられてます。


      太平洋クラブ 美野里コース

 
 HPご覧になってもらえれば判るとおり、それは綺麗な、手入れの行き届いた、ゴルフ場さんでした。太平洋クラブさんのゴルフ場は、どこへ行ってもちゃんとした、良い所ばかりです。

                  ロッカー室もこの通り。↓


                


 
                エントランスの花も草月流してます。↓


                


              絶対又、リベンジするぞ
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山岸 凉子 「私の人形は良い人形」

2006年10月24日 00時09分47秒 | マンガ家名 やらわ行
        山岸ファンの方、びっくりしたでしょ。ごめんなさい。 (いや確信犯だから)

 では、全身を。山岸 凉子 「私の人形は良い人形」のコミック付きで。


                


 お話の内容から、暗~く写しましたが、本当はもっと可愛いんですよ。この市松人形さんは、今から50年以上昔、私の姉達に1体づつ買ったお人形のうちのひとつです。最初は私のものでは有りませんでした。

 ハコセコ付きの絢爛豪華な七五三の衣装と、夏用に浴衣と団扇付きの2種類のお衣装持ちでしたが、長い間に浴衣しかなくなってしまって寒そうでした。実家から貰ってきてからもずっとそのまま飾ってました。浅草橋で調べたら、(東京の人形の町です) 衣装だけ作っても、何十万とかかるんですよ。

 あるとき姉が、母親の産着を持ってやってきました。大きかったけど、着せ付けて、姉自作の人形用付け帯を着付けたら、まあまあ見られるじゃないですか。袖とか着丈とか全然大きいですけど、そのうち小さく作り直すという事で、このまま飾っています。母親の産着ですから、まあ80年くらい経ってますね。中身も着物も古いので、マジ、夜中歩っていそうです。

 貰った時にちゃんと大きな人形屋さんに行って、顔を少し綺麗にぬぐってもらい、不ぞろいに伸びた髪の毛 (本当に伸びるんですよ、人形の髪の毛って) を切りそろえてもらい、すっかり私のものです。50年前の買ってもらえなかった恨み、晴らしました。自分じゃ覚えてないけど。


 えーっそれはさて置き、マンガの話。
 
 私の持っているのは文春文庫ビジュアル版というもので、1997年6月5日 第2刷 自選作品集 山岸 凉子のホラーワールドというもの。この中の、表題作 「私の人形は良い人形」個人的に、山岸作品の中で 最怖 なんです。

 最初読んだ時、あまりに怖いので、初めて電車の中のざわざわした中で読みました。恥ずかしいなんて言ってられなかった。それから何年も読めなくて、封印してて、やっと2度ほど読み直したかな。昨日もこれを書くのでざっと読みましたが、最初ほどではないものの、やっぱり怖い~。キロッと人形がこっちを向くときなんか、きゃ~~~

 戦後すぐの頃、女の子が死んで、お友達の母親が自分の子が引っ張られないように人形をあげて供養してもらおうと思ったら、貰ったうちの家族がもったいないと一緒に供養しなかったので、怨念が残ってしまい・・・・云々かんぬん、時代が変わっても・・・。というお話です。

 初出は 「ASUKA」 の1986年3月~5月号、短期連載というのでしょうか。出てきた霊感の強い男の子が曰くありげだったので、他にもシリーズであったのでしょうか ? 私はほかで見たこと無いけど。この文庫には、他に
 
 千引きの石・汐の声・ネジの叫び の3篇が収録されています。

 この中では ネジの叫び が一番古くて1971年7月 月刊りぼん が初出です。みんな怖いです。でもねー、一番怖いのはなんたって人間ですよね。山岸作品にも女の業のすんごいのがいっぱいありますもの。このお人形さんだって、人形そのものではなくて、人間の怨念が乗り移っているわけですから。
 今 市子氏の 「百鬼夜行抄」 にも似たようなエピソードありましたね。昔は子供と一緒にお人形をお供えしたのでしょう。この間うちの猫が死んだ時には、木綿製品しか入れられなかったので、私と叔母のハンカチを入れてあげましたけど。

 ええ、私の いちまさん は、誰も引っ張っていかないように、私と一緒に燃やしてもらおうと思ってます。多分、100まで生きるであろう私には、身内は残っていないと思うので、他人様に迷惑かけたらいけないもんねー。


 2006年 ネムキ9月号増刊 買いましたか? 「百鬼~」 の新作書き下ろし+自選作品9編をカラー再現して載せてます。私は文庫しかもっていないので喜んで買っちゃいました。
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萩尾 望都 「銀の三角」 何で知名度低いの?

2006年10月23日 09時46分20秒 | マンガ家名 は行
 やっと記事UP出来そうです~。ぜぇぜぇ。予告なんかしなけりゃ良かった。

 写真は私の持っている ㈱白泉社 の白泉社文庫版 「銀の三角」 1994年9月21日 初版のもの。新しいものだと思っていたけれど、既に12年経っているのですね。

 裏表紙に書いてある内容説明から、ちらちら引用すると、

6年に一度の朝を迎える惑星 「銀の三角」。そこに住む民人(たみびと)は長い金虹彩(きんこうさい)の瞳を持ち、近未来を予言する音楽を奏でる事が出来た。だが、特殊な能力を持つがゆえに、惑星戦争に巻き込まれ、絶滅したと思われていた。しかし、3万年後再びなぜか姿を現す。時空人マーリーの謎解きの旅が始まる・・・。

 とかなんとか。でもこのお話、読んだ方はわかると思うけど、あらすじはほんの取っ掛かりというか、はっきり言うと意味ないんだな。

 初出は 「SFマガジン」 早出書房 1980年12月号~1982年6月号までの連載、300ページ程です。この文庫の解説は、SF作家の 野阿 梓氏 ですが、中で

 SFマガジンはSFを書く人間にとって特別な場所である。その頃はSF専門誌も他に数誌あったのだが、その中でも SFマガジンは特殊な位置を占めていた。小説であれマンガであれ、そこに書く事はなんというか別格なのだった。

 と書いている。私はレイ・ブラッドベリは好きだったが、他のSFには興味がなく、この雑誌も買った事は無い。でもその世界では有名な雑誌だという事は知っていた。(今も ?) 始めに読んだ時は ふ~ん、あれに載っていたんじゃ、凝りに凝ってて当然かしら、なんて思ったものだ。生意気にも。

 とにかく、複雑難解な作品で、発表雑誌を選ぶというか、SFマガジンだから萩尾先生もここまでやったのよね、と言う感じか。今回、何度目かの読み直しをしたが、未だに3つか4つのポイントを、私は理解していないんじゃないかと・・・。うー。
 萩尾先生がこれ以前に描いた作品のアイデアや、SFの古典的なエピソードなども登場する。6年に一度の周期で来る婚礼 (繁殖期) の話は、「ハーバル・ビューティー」 の中で7年ごとの革命の季節という (本当は繁殖期) ことで、出てくるし、1980年のイラスト集 「金銀砂岸」 に初出している 「酔夢」 の中でも、同じ夢を繰り返し見る、実は生まれ変わって同じ出来事を繰り返している、という設定も出てくる。ただ、同じ時間を違う設定で何パターンも繰り返す、という話は、いろいろなSFで見た(読んだ)ことがある。

 「金銀砂岸」 の中で登場人物に 「時空間のトラウマの傷を治癒しようとしているとも・・・」 と言わせているが、それはまさしく、「銀の三角」 のモチーフなのだ。こちらの作品を発展させて、「銀の三角」 が出来たのかも知れない。とにかく、萩尾 望都のSF的なものがてんこ盛りなのだ。絵柄も、個人的にはこの頃のものが好きで、どのページを開いてもそのままイラスト集になりそうな美麗な描線で、私の一番好きな作品です。

 ところが、世間的には 「ポーの一族」 とか、「11人いる!」 とか、他の萩尾作品よりちょっと知名度が落ちるのはなぜ ? 掲載誌がマンガ雑誌でなかったから、当時のマンガ少女達の目には触れにくかったのか。そんなところでしょうね。

 1992年9月の雑誌 「CREA」 の大アンケートによると、「永遠の少女マンガベスト100」 の中で58位に入っている。結構健闘していると言うべきか ? 
 ちなみに、そのときのベスト10は、

1位 ポーの一族
2位 日出処の天子
3位 ベルサイユのばら
4位 ガラスの仮面
5位 リボンの騎士
6位 エースをねらえ
7位 動物のお医者さん
8位 はいからさんが通る
9位 つる姫じゃ~
10位 トーマの心臓

となっていますが、なにしろ14年前のアンケートなので、今やったら何が残って何が入るんでしょうね。

 しかし、同じ「CREA」の 私だけのベスト10 というコーナーには、吉野 朔実先生が、ダントツの一位に 「銀の三角」 を押していた。好きな人は大好きな作品なのだなぁ~。

  未読の方はぜひ一読、と言わずに多分難読になる いや 何度読みでもして下さい。
 
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自己紹介の写真変えました。

2006年10月20日 12時58分23秒 | 雑記
 このブログを始めてからずっと自己紹介の所の写真を替えてなかったのですが、飽きたので替えようと思ったのが、運のつき。
 またゴルフの写真もつまらないし、現在のおばんの写真も載せられないし、最近マンガブログになっているから、そうだ、昔描いた自画像なんて良いんでないの・・・とひっぱり出してきたのがこれ。多分19~20歳の頃の自画像です。
 今見ると、うっ、口のデッサンが~~~ まっいっか、プロじゃないし、30数年前の若気の恥じだもん。A全の大きさでPCに取り込めないので、セピアに写ったフラッシュなしの写真にしました。
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竹宮 惠子氏のデビュー前作品 「弟」

2006年10月19日 14時15分25秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 以前、山岸 凉子先生のデビュー前作品について記事にしましたが ↓


         山岸 凉子先生のデビュー前の作品

 
 竹宮 惠子先生のもCOMに有ったので、紹介します。

 漫画雑誌 「COM」 というのは、旧虫プロの子会社、出版部門の虫プロ商事が1967年から発刊していた漫画専門月刊誌で、商業性にとらわれない実験的作品を発表させるという趣向で、新人の登用や、投稿作品の掲載に積極的な雑誌でした。虫プロ商事が1973年に本体の虫プロダクションより少し早く倒産した為、「COM」 も7年経たずに廃刊になったと思います。最後は出たり出なかったり、体裁が変わったりしたので、私も最後の最後までは見届けられませんでした。これはその前の石ノ森 章太郎先生がデビューした 「漫画少年」 の最後と同じですね。

 「COM」 については、1冊、1冊に当時の情報がつまっているので、いづれ1冊づつ紹介しようかと思っています。(又々、いつになるやら 泣)

 さて、竹宮 惠子先生のデビューは、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)によると、

 1968年1月、17歳の時に「りんごの罪」が「週間マーガレット」の新人賞に佳作入選し、デピュー。同年、「かぎっこ集団」で「COM」月例新人賞も受賞している。

 となっていますが、その前より当然 「ぐら・こん」 という「COM」の投稿コーナーの入選常連者となっています。絵柄が掲載された最初は、1967年7月号の 「ここのつの友情」 だと思いますが、これは少年とハーフの少年との友情を描いた作品。全部は掲載されていないので良く判りませんが、多分8Pくらいのものでしょう。丸っこい絵柄で、手塚先生や石ノ森先生っぽい絵です。総合で375点取っています。

 次に出てくるのは、投稿コーナーでなく、1967年の12月号の女流新人まんが家競作集という特集です。やはり8Pで、全ページフルサイズで掲載、これは商業誌としては竹宮先生の初めてと思います。嬉しかったのでは無いでしょうか。題名は 「弟」。
 兄と実は捨て子だった弟の葛藤と仲直りのお話。これも丸っこい絵柄で、特に兄の方はモデルが石ノ森先生じゃないかと思われるような丸顔ですが、(絵が上手という設定だし) 弟の方がですねー  後の竹宮先生の描くイケメン男子の面影見え見えで良いんですよー。切れ長目の、しょうゆ顔って言うんでしょうか。シャープな影のある男の子、となっております。あー皆様に見せたい 

 欄外の所に作者の紹介があり、引用させて頂きますと、

 徳島県のある高校の3年生。小山田つとむ君の率いるまんがグループ 「宝島」 に所属。肉筆回覧誌 「宝島」 の中で 「ナイーダ」 等力作を発表している。

 となっています。

 その後、1968年7月号でついに月例の新人賞をお取りになり、もうプロということですが、その後活躍の場を少女マンガ誌の方に移されたので、「COM」 の方には発表されていないと思います。尚、1971年に「週間少女コミック」30号に「ここのつの友情」、37号に 「ナイーダ」 を発表されていますが、私は見ていないので判りませんけど、多分アマ時代の旧作を描き直されたものでしょう。

 今回、調べるために「COM」の1967年一年間12冊だけをざっと見ましたが、「ぐら・こん」 の中に後のマンガ家さんたちのお名前がいっぱい。あだち 充さんとか、もとやま 礼子さんとか、青柳 裕介さんは最初からセミプロの活躍だし、本名で出ていて、私には分からない方々も多分た~くさん。今となっては貴重な資料なので、1冊ずつじっくり読んでみようと思います。 (いづれ そればっかり)
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西岸 良平氏の色紙、発掘。

2006年10月19日 08時47分58秒 | マンガ家名 さ行
         
                


 古城 武司氏 「代表作 偉大なる王(ワン)」 の色紙を探していて見つからず、忘れていた 「西岸 良平氏」 の色紙が出てきました。どういう状況で頂いたか、全然覚えが無いのですが、ちゃんと私の名前も入っているし、カラー色紙です。どこかサイン会なんか行ったかなー ??? 誰かの紹介でお会いしたかなー ??? 
 
 1976年6月26日の日付ですから、ビッグコミックオリジナルに 「3丁目の夕日」 を連載し始めてすぐの頃ですかね。絵もばっちり 「3丁目の夕日」 です。
 しかし、何で覚えていないんでしょうね。こんな有名な方。当時は興味なかったんですね。今は映画も喜んで見に行くのに。水野 英子氏のサイン本もサインあることすっかり忘れていたし、やっぱり私の 鳥あたま 決定 


 捨てるわけ無いので、引き続き 古城氏 の色紙を捜索します。可愛い男の子の色紙なんですよ。せっかくブログの記事ネタを見つけたのに・・・。ちょっと思い出があるのです。


  今 市子氏 「あしながおじさん達の行方」 読了 推理小説でした。眠れなくなっちゃったじゃないの・・・。はぁ~。

  今 市子氏 「笑わない人魚」 ポケット版ゲット ただ今読書中。
                
 
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