京阪の定期があり、これで京街道を探検することにした、今までは阪急京都線主体だったが、今度は東海道五十七次の大津・伏見・淀・枚方・守口・高麗橋の京街道を辿る、24年間いた淀屋橋・本町も再訪するつもりだ
京阪はカーヴが多い、京阪電鉄カーヴ式会社と言われるゆえんだ、淀川を北に見て走るのは、阪急京都線(元新京阪)利用者としては新しい体験だ
第一弾は鍵屋資料館、枚方公園駅から歩いて数分、200円の入館料を支払う、シルバーの男性の来訪が多い
鍵屋母屋(京街道側)は1811年の墨書がある、淀川側は別棟として1928年の建築であり1997年まで料理旅館として経営されていたとある、別棟から見たが宴会用建築であり、当時は既に堤防もあり、1階のくらわんか船も後で職員のおねいさんに聞くと「昔の面影」の展示とのことだった、西本願寺 飛雲閣の舟入( https://www.hongwanji.kyoto/see/hiunkaku.html )とは違い実用性はないと聞いた
堤防のかさ上げの歴史 ( https://www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/know/history/now_and_then/taishou.html )を見ても、3m弱の堤防かさ上げと淀川の付け替え( https://www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/know/history/now_and_then/tanjyou.html )があった、我が国伝来の遊水地を利用した低水計画から水を閉じ込める高水計画への転換はヨハネス・デ・レーケらによるものであったと言われており( https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0616_yodogawa/0616_yodogawa_01.html )いる
そのため明治中期以降は鍵屋から直接船は出せなかったはずだ、なお桂川でも桂離宮の前の堤防は2.4mかさ上げされ、河床も低くなり取水できなくなったと聞いている( https://blog.goo.ne.jp/n7yohshima/e/63e1020418804d94aa65e0d607c7da94 )、淀川の舟運もまとめられている( https://www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/use/ship/index.html )
主屋は立派な骨組みとおくどさんが前、上に煙出しがある、すり上げ戸の開口は街道筋の旅行者にも「くらわんか」と土間から小上がりをさせ茶屋的な飲食場だった可能性がある、それでなければおくどさんが街道近くにある訳がない、また正面左(東側)には出格子の見本展示のような使われ方をしたのかもしれない、疲れをいやす甘いものや暖かいおでんなどが想像される、名物のごんぼ汁( https://www.city.hirakata.osaka.jp/cmsfiles/contents/0000006/6882/kyoudoryouri.pdf )ももちろんあっただろう
職員のおねいさんに質問:
①すり上げ戸
・開口部が大きい、上の虫籠窓がない2階に収納など
②虫籠窓がない理由
・分からない、市内に虫籠窓の2階は多いが→通風や明かり取りに不便だろう
京街道を歩くと昔の町家が残っているのに驚く、むくり屋根や、軒屋根の水切り部分(虫籠窓の下)にある瓦と漆喰の意匠だ、奈良や大阪では見るが京都は見ない、どんど焼けのため京都の町家は江戸末期以降が多いため簡素化したのだろうか(鍾馗様は多いが)
枚方に今でも京街道を偲ぶ町家が多いのに驚いた、今度は復活した淀川舟運( https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000023202.html )に乗ってみたい