二草庵摘録

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紀行文学における「街道をゆく」の位置 ~「甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみち ほか」を読みながら

2022年06月29日 | ドキュメンタリー・ルポルタージュ・旅行記
■「甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみち ほか」街道をゆく(朝日文庫)第7巻 「週刊朝日」連載1973年1974年1975年

「街道をゆく」を読みながら気になってきた本がある。
それは沢木耕太郎「深夜特急」である。
過去(40代の後半)に読みかけたことがあったけど、あえなく挫折。
沢木さんはノンフィクション作家、エッセイスト、小説家、写真家と、いろいろな横顔を持っておられる。

中でも「深夜特急」(midnight Express)はベストセラーとなったからお読みになっている方も多いだろう。
「キャパの十字架」で第17回司馬遼太郎賞を受賞。
わたしはロバート・キャパに関心があるから「キャパの十字架」と続編ともいうべき「キャパへの追走」はたいへん興味深く読ませていただき、レビューを書いたことがある。

友人の一人が、この「深夜特急」に刺激され、世界へ飛び出したことがあった。
アメリカ、ヨーロッパ、アジアの各地へ、年に2回3回と出かけ、わたしもインド、スペイン、上海等はいっしょに出かけた。
「深夜特急」はある時期、バックパッカーの聖書といわれた。

単行本としては「街道をゆく」の発刊が1971年、一方「深夜特急 第一便 黄金宮殿」の発刊は1986年。
この15年の差は非常に大きいといえる。
1.高度成長期
2.成熟期
3.崩壊期(バブル崩壊)
4.低迷期
ごく大雑把にこういう区分ができるとすれば、「街道をゆく」の25年間は区分1から区分3へと向かう日本の経済・社会の変遷を如実に反映したものであったと思われる。
司馬遼太郎の文学は、多くの人びとによって「高度成長期のサラリーマンへの応援歌」だと称された。

<※バックパッカー(英語: backpacker)とは、低予算で個人旅行する旅行者のこと。バックパック(リュックサック)を背負って移動する者が多いことから、この名が付けられた。・・・ウィキペディア>

コロナウィルスが世界に蔓延する以前は、バックパッカーが大流行していた。
日本も豊かになり、時間的・経済的に余裕のある若者層が、大した意味もないのに、大挙して海外を目指した。
その中の「深夜特急」である。
藤原新也さんには「全東洋街道」があって、これはわたしの愛読書の一つだが、「深夜特急」は読んでいない。
藤原新也 1944年生まれ
沢木耕太郎 1947年生まれ

このお二人のノンフィクション作家が、司馬遼太郎とはことなる背景から出発してくる。紀行文学というかたちは踏襲しているが、その舞台となるのは海外である。
そして“歴史を紀行する”要素は、しだいに希薄になってゆく・・・とわたしは観ている。
藤原新也は写真に、沢木耕太郎はスポーツに軸足を置いているところも違う。

先日ふとしたはずみで沢木さんの「作家との遭遇」(新潮文庫 令和4年刊)という本を買い、読みはじめたら、山本周五郎論(青春の救済)、塩野七生論(歴史からの救出者)、吉村昭論(事実と虚構の逆説)等々、なかなかGoodな作家論となっていて、沢木耕太郎がいたことをにわかに思い出したわけである。
「街道をゆく」と「深夜特急」では、時代背景がまるで違う。比較しても仕方ないのはわかっている。しかし、「街道をゆく」のあいまに「深夜特急」をまずは1冊読んでみようという気分になっているのだ。



まあ、そのことは後回しにし、いまは「甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか」を語るとき(;^ω^)

《直木賞受賞作「梟の城」にゆかりの「甲賀と伊賀のみち」、人気の短編小説「おお、大砲」の舞台ともなった「大和・壷坂みち」を歩く。海に生きる漁業の民をルポした「明石海峡と淡路みち」、さらには「砂鉄のみち」とつづく。島根県、鳥取県、岡山県の山間のタタラ遺跡を著者は訪ねる。日本と朝鮮文化について考え続けていた著者にとって、砂鉄は重要なキーワードだった。》BOOKデータベースより

本編はつぎの4つの旅から出来ている。
・甲賀と伊賀のみち
・大和・壷坂みち
・明石海峡と淡路みち
・砂鉄のみち

中でも「明石海峡と淡路みち」と「砂鉄のみち」は、単に長いというだけでなく、充実した、奥行きのある紀行文学となっている。
淡路が阿波へいく、阿波路だということははじめて知った。そうそう、だから「あわじ」なのですねぇ。

「歴史を紀行する」の司馬さんの持ち味が、ここでは見事に開花し、読み応えがあるものになっている。一か所だけ引用しよう。

《仕事が危険ということもあって、古代から海の民の信仰が消えずにいまもつづいている。
「やはり住吉さんですか」
ときくと、
「そうです、住吉さんです。由良に舟が百隻あったら、そのうち五十隻まで住吉丸という名前ですな」
といった。
住吉大社は大阪の住吉区にあるお宮だが、古代、応神・仁徳という天皇名で残っている大阪湾岸の王朝のころから、現在の場所にあったらしい。その王朝が、安曇(あづみ)とよばれている九州から瀬戸内海にかけての海人(あま)族を支配下に置いたとき、海人たちがそこに自分たちの海の神を祀ったのであろう。その伝承が「古事記」のなかにも説話化して取り入れられている。》170ページ

こういった基礎知識を土台として、司馬さんは歴史を、古代から近代にいたるまで必要に応じ縦横無尽に経めぐっている。
昆虫はさすがに興味がないようであるが、植物には詳しい。木や花への関心は人並以上である。
かつて村上春樹の紀行を読んでいたとき、「なあんにもありゃしないよ」と村上さんはおっしゃるが、それって単に“そこにあるもの”が見えないことを告白しているだけなのだと、気づいた。木や花やその他の生きものに対し、どれほどの知識を持っているか?
そして歴史に対してはどうか?

それが紀行を豊かにも貧しくもする。
だって単純な意味での紀行文だとしたら、とっくの昔に賞味期限が切れている。司馬さんの「街道をゆく」がしぶとく生き残っているのは、関心の在り方が、歴史を中核にほぼ全方位的であるからである。
わたしにとっては“先生”とお呼びするのに躊躇しない、数少ない文学者の一人。
本編を読みながら、そういったことをかんがえさせられた。



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