二草庵摘録

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「月と六ペンス」サマセット・モーム(新潮文庫)金原瑞人訳 レビュー

2015年06月18日 | 小説(海外)
とても有名なサマセット・モームのロングセラーだけれど、プロローグが長く、そこを切り抜けることができずに挫折していた。中野好夫さんの訳で、過去に2回も。
活字が大きく読みやすくなった新訳が出たので、3回目の正直!

さきほど読了することができたが、こんなに興味深い長編小説は、じつに久しぶり♪ それだけの手応えを感じさせずにおかない出来映えである。
作者はそうしてはいないが、本書の舞台はロンドン、パリ、タヒチの三部に分かれている。
これはゴーギャンを思い出させずにはおかない主人公ストリックランドの“遍歴”のあとを、語り手が追いかけているのである。
語り手を設けた小説は、登場人物の内面にはもぐりこまない。外面からの観察と、彼らのことば(会話)の積み重ねによって描かれていくということである。画家ゴーギャンをモデルにしているとかつていわれたことがあったが、本書はモームの完璧なフィクション、創作のヒントを得ただけといえる。

モームの辛辣きわまる皮肉に満ちた人間観察はときおりうんざりしないでもないが、個性ある登場人物の造形、ストーリーテリングの見事さがこの小説の核をささえていて、それはいまでも色あせては見えない。
天才と凡人の相克を描いた芸術家小説だと予想していたが、いやはや、この長編はそんな単純な図式があてはまるようなシロモノではない。

へんなたとえかもしれないが、おいしく実ったぶどうの実を連想する。一章一章が、その房となって、敏感な味覚を備えた読者には、その一章ごとに、ときには散文的な、ときには詩的な、またときにはドキュメンタリーふうなさまざまな悦楽がひそんでいることがわかるだろう。
各章に箴言めいたことばがさかんにばら撒かれている。それらは、わたしのみるところ大方は正鵠を射たものといっていい。いかにも英文学らしい、人間に対する“辛辣な痛快さ”がある。しかし、実生活にとって、シニスムとはなんであるか・・・鎧にすぎないというのが、わたしの意見である。毀れやすい肉体や精神を守るために、人はそれを身につける。ところが、1年365日、その鎧だけ着て過ごすことができないのも、また人間である。

舞台をタヒチに移してから、モームの筆は本領を発揮している。
遍歴の涯にたどり着いた桃源郷。いや文明社会の住人の眼には、アンチ桃源郷ともいうべきタヒチで語り手が出会う人びとのなんという精彩感あふれる人間像だろう!
そういった人間像を描くために、モームはこの作品を書いたのだといっても、過言ではない。
バルザックがいて、ドストエフスキーがいて、トルストイがいる。フローベールもいるし、メルヴィルもいる。現在も読み継がれている名著「世界の十大小説」(岩波文庫)を書いたモームは自分の才能に、自信がもてなかったに違いない。自分が小説の天才ではないことは十分知っていた。
だから、引き立て役の二流画家、ストルーヴェを、こうも生き生きと描けたのだろう。しばしば主役のはずのストリックランドを喰っている。そのあたりを、モームは明らかに舌なめずりしながら書いている。それは「人間にとって、真の幸福とはなにか」という問いにつながっている。

心理主義小説のように「外科医が人のこころにメスをふるう」といった手つきが見え隠れしないではないが、それは本書の前半まで。カタストロフィーが近づくにしたがって、ベートーヴェンの「歓喜の歌」のような人間賛歌が聞こえはじめる。わたしは途中でやめることができず、深夜までかかって、最後の1/3を読みおえ、しばらく胸の震えを抑えることができなかった。
ゴーギャンの手記として知られる「ノアノア」を書棚の奥から探し出し、読み返してみよう。

「月と六ペンス」。
本書は100年後であっても、新たな読者を獲得しつづけること請け合いの傑作である。

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