このところ、詩作へと回帰しながら、萩原朔太郎とその周辺をうろついている。
わが国の明治期以降の詩人で人気度の高い詩人といえば、萩原朔太郎、宮沢賢治、高村光太郎、中原中也とおおよそ相場が決まっている。中学・高校の教科書に頻繁に取り上げられ、わたしも最初はそこで読んだのかもしれない。
戦後登場した詩人の中では、なんといっても谷川俊太郎さんで、これは圧倒的人気を誇る。同じく「櫂」の同人で谷川さんの僚友であった茨木のり子さんの詩集なども、詩のコーナーには、何冊かかならずならんでいる。ほかには、田村隆一さん、吉本隆明さんの本はかかせないようである。
詩や詩集は昔(わたしが若かったころ)から、売れないという“定評”がある。
1000部も売れたら、一応は万々歳・・・といった小さな世界。詩人を「職業」として成り立たせているのは、谷川さんお一人ではなかろうか?
ところで、同じく群馬県出身で、朔太郎と同時代の詩人に「いちめんのなのはな」「雲」など、童謡詩ふうの作品で知られる山村暮鳥がいる。この人に、暗喩だけでできた激越な作品があるのは、ご存じだろうか?
「青空文庫」から引用させていただく。(ラッパは三毛ネコが補った)
囈 語
竊盜金魚
強盜喇叭(ラッパ)
恐喝胡弓
賭博ねこ
詐欺更紗
涜職|天鵞絨《びらうど》
姦淫林檎
傷害|雲雀《ひばり》
殺人ちゆりつぷ
墮胎陰影
騷擾ゆき
放火まるめろ
誘拐かすてえら。
暗喩は失敗すると、チンプンカンプンで読者を煙に巻くだけだが、成功すると、すごい威力を発揮する。暮鳥のこれは成功例である。
ちなみに、囈語と書いて普通は「うわごと」と読む。
いま読んでも、このラディカルぶりは際立っているし、戦後の詩人たちに、大きな影響をあたえた作品である・・・とわたしは考えている。
詩を書く人間として生意気なことをいわせてもらえば、喩法(暗喩や直喩など)を自家薬籠中のものとして、はじめて詩のおもしろさがわかってくるのではないか? そんなことを考えながら、つぎの作品をアップしておこう。
<やややと「な」(ポエムNO.40)>
ややや。
けけけ。
ももも――。
ぼくは怪しみ
嘲笑い
手さぐりする。
やってくるものと
遠ざかるもののはざまで。
テレビもケータイも電子手帳もいらない。
工業製品というすぐに消える鳥たちの囀りや 媚びは。
ぼくは農夫であり
えらそうにかまえてみても やっぱり無骨な農夫なのだから。
あっちへ蹴飛ばしておいて
それを拾いに出かける。
サッカーボールでもなく ゴルフボールでもない球体
としての欲望。
もう タイムアウトが近づいているにせよ。
うま酒をさがし足のながい詩人と千里の旅をする ってのはいいな。
夜ごと 夜ごと違った昔の女に抱かれて
鬱金いろした ペーソスと笑いのベッドに倒れこむ。
さあ あしたも出かけるぞ千里の旅。
朔太郎の後ろ姿がかげろうの彼方に霞んで見える道をたどって。
やや や
けけ け
もも もっと。
と呟きつつ 皺だらけのハンカチーフにアイロンをかけて
それにことばをつつむ。
ささ さ。受け取っておくれ。
ぼくは笑いながら哀しみ 哀しみながら笑うすべを心得たんだ。
野の花が咲き 野の花が散る前橋。
ここらあたりで 道が尽きてきたとは。
けけけー。
無意味という意味がぼく解放する。
さて 大胆にいってのけるぞ。
なは名であり 菜であり 汝(な)である。
な。
わかった
な。
※写真と詩のあいだには、直接の関係はありません。