本書は、フローベールの小説「感情教育」をめぐって、19世紀パリ風俗を語った、フランス文学の入門書であり、文化論である。
18世紀に急速に成長し、フランス大革命で大きな折り返し点をむかえたブルジョアジーは、その後紆余曲折をへながら、19世紀なかばから、末期へかけて絶頂期へと入っていく。これによって、フランスの時代、パリの時代が花開き、輝かしき「ブルジョアの世紀」とよばれる時代が形成される。ユゴー、バルザック、ボードレール、フローベール、ゾラといった文学者がつぎつぎ登場し、他の西洋各国やロシアや日本に大きな影響をあたえて、その文化はやがてアジアや南米の植民地へと輸出され、全地球規模で展開されるようになっていく。
パリは「文学の都」ばかりであったわけではない。
音楽や絵画史のうえでも、後世から規範あつかいされるような大きな事績を残した。
フランス大革命と、アメリカ独立戦争が、その後のヨーロッパのターニングポイントであったことは、だれもが認めざるをえないだろう。ブルジョア革命は、その後、世界各地へと波及して、世界史的なレベルで普遍性を獲得し、文明の質を決定づけていく。日本も、そういった事績の受け容れにやっきとなった国のひとつである。
ルネサンスが、イタリアを中心とし、やがてヨーロッパのほぼ全域を巻き込んでいくのをわれわれは知っている。しかし、あくまでそれはキリスト教文化圏たるヨーロッパのものであった。ところが、19世紀パリに象徴される文化と芸術の地殻変動は、ヨーロッパからあふれ出して、もっと広い世界を席巻していく。
こういう時代の震源地こそ、まさに19世紀の首都、パリなのである。
パリの影響力は、文化的・芸術的な意味においては、20世紀半ば、第2次大戦のあとまで持続していく。
本書はそういったパリの文化や風俗を、一編の小説を土台として見ていこうという試みである。
わたしは「感情教育」は、じつはまだ読んではいない。
だからこそ、興味をいだいたので、ここには、歴史学のあらたな潮流を踏まえた、19世紀の再評価の機運が流れ込んでいる。
これまでは、「ボヴァリー夫人」ばかりが世に喧伝され、フローベールといえば「マダム・ボヴァリー」という公式のようなものが定着していた。フローベールは「ボヴァリー夫人」と「三つの物語」でことたれり、といった文学観のようなもので、中村光夫さんなども、そういった「常識」をひろめた一人ではないだろうか?
はっきりとは書かれてはいないけれど、本書は慶応大学の教授としての講義録が元となっているらしい。「感情教育」のテキストが、要所要所かなり長く引用されているのは、講義にあたって、参加者に配布された「資料」なのであろう。アナール学派によってはじまった従来の「歴史学批判」の波は、19世紀文学の再評価を生み、バルザック、フローベール、ゾラなどの「再発見」へと結実していく。
わたし自身「え? フローベールって、こういう小説家だったの」という驚きがあった。これは鹿島茂さんたちの仕事とオーバーラップしてくる。
19世紀に「小説の頂点」があったことは、ほぼ定説に近いだろう。その両雄は、フランス文学と、ロシア文学である。20世紀は、この時代の遺産で生き延びてきたようなものだと断定してもいいくらいである。
「感情教育」は、「自分と同世代の人びとの精神史を書きたい」というフローベールの意図のもとに練り上げられている。「歴史をうつす鏡」としての小説。「ボヴァリー夫人」が、地方風俗を通して精神史を語ったとすれば、こちらはまさに19世紀の首都たるパリ風俗を通して語られていく精神史となっていく。恋愛もまた歴史的な産物であり、われわれは、都市の風景を眺めることによって、時代の空気を呼吸し、自己を認識する生き物なのである。
アマゾンで検索すると、小倉さんは鹿島さんなどとならんで、いまもっとも活躍しているフランス文学者のおひとり。学生あるいは一般人相手の講義録・講演録として、本書はわかりやすい「感情教育」入門書であり、「いま」が脈打っているフローベール論となっている。時代のなかで読み継がれていく小説は、当然ながら、時代のうねりのあいだで忘れられたり、思いがけないスポットライトを浴びて再評価されたりする。
鹿島さんの「パリ風俗」と本書は、19世紀文学を読み解くそういった光の役割を、たしかに担っている。
評価:★★★☆
18世紀に急速に成長し、フランス大革命で大きな折り返し点をむかえたブルジョアジーは、その後紆余曲折をへながら、19世紀なかばから、末期へかけて絶頂期へと入っていく。これによって、フランスの時代、パリの時代が花開き、輝かしき「ブルジョアの世紀」とよばれる時代が形成される。ユゴー、バルザック、ボードレール、フローベール、ゾラといった文学者がつぎつぎ登場し、他の西洋各国やロシアや日本に大きな影響をあたえて、その文化はやがてアジアや南米の植民地へと輸出され、全地球規模で展開されるようになっていく。
パリは「文学の都」ばかりであったわけではない。
音楽や絵画史のうえでも、後世から規範あつかいされるような大きな事績を残した。
フランス大革命と、アメリカ独立戦争が、その後のヨーロッパのターニングポイントであったことは、だれもが認めざるをえないだろう。ブルジョア革命は、その後、世界各地へと波及して、世界史的なレベルで普遍性を獲得し、文明の質を決定づけていく。日本も、そういった事績の受け容れにやっきとなった国のひとつである。
ルネサンスが、イタリアを中心とし、やがてヨーロッパのほぼ全域を巻き込んでいくのをわれわれは知っている。しかし、あくまでそれはキリスト教文化圏たるヨーロッパのものであった。ところが、19世紀パリに象徴される文化と芸術の地殻変動は、ヨーロッパからあふれ出して、もっと広い世界を席巻していく。
こういう時代の震源地こそ、まさに19世紀の首都、パリなのである。
パリの影響力は、文化的・芸術的な意味においては、20世紀半ば、第2次大戦のあとまで持続していく。
本書はそういったパリの文化や風俗を、一編の小説を土台として見ていこうという試みである。
わたしは「感情教育」は、じつはまだ読んではいない。
だからこそ、興味をいだいたので、ここには、歴史学のあらたな潮流を踏まえた、19世紀の再評価の機運が流れ込んでいる。
これまでは、「ボヴァリー夫人」ばかりが世に喧伝され、フローベールといえば「マダム・ボヴァリー」という公式のようなものが定着していた。フローベールは「ボヴァリー夫人」と「三つの物語」でことたれり、といった文学観のようなもので、中村光夫さんなども、そういった「常識」をひろめた一人ではないだろうか?
はっきりとは書かれてはいないけれど、本書は慶応大学の教授としての講義録が元となっているらしい。「感情教育」のテキストが、要所要所かなり長く引用されているのは、講義にあたって、参加者に配布された「資料」なのであろう。アナール学派によってはじまった従来の「歴史学批判」の波は、19世紀文学の再評価を生み、バルザック、フローベール、ゾラなどの「再発見」へと結実していく。
わたし自身「え? フローベールって、こういう小説家だったの」という驚きがあった。これは鹿島茂さんたちの仕事とオーバーラップしてくる。
19世紀に「小説の頂点」があったことは、ほぼ定説に近いだろう。その両雄は、フランス文学と、ロシア文学である。20世紀は、この時代の遺産で生き延びてきたようなものだと断定してもいいくらいである。
「感情教育」は、「自分と同世代の人びとの精神史を書きたい」というフローベールの意図のもとに練り上げられている。「歴史をうつす鏡」としての小説。「ボヴァリー夫人」が、地方風俗を通して精神史を語ったとすれば、こちらはまさに19世紀の首都たるパリ風俗を通して語られていく精神史となっていく。恋愛もまた歴史的な産物であり、われわれは、都市の風景を眺めることによって、時代の空気を呼吸し、自己を認識する生き物なのである。
アマゾンで検索すると、小倉さんは鹿島さんなどとならんで、いまもっとも活躍しているフランス文学者のおひとり。学生あるいは一般人相手の講義録・講演録として、本書はわかりやすい「感情教育」入門書であり、「いま」が脈打っているフローベール論となっている。時代のなかで読み継がれていく小説は、当然ながら、時代のうねりのあいだで忘れられたり、思いがけないスポットライトを浴びて再評価されたりする。
鹿島さんの「パリ風俗」と本書は、19世紀文学を読み解くそういった光の役割を、たしかに担っている。
評価:★★★☆