ついさっき、わたしは「宰相吉田茂論」(中公叢書「宰相吉田茂所収」)を読みおえ、その感動の中にいる。
塩野七生さんが最大限の賛辞を呈している国際政治学者・思想家の高坂正堯さんについて、猪木(正道)さんは高坂の没後に、「高坂は僕が教えた中では、ピカイチの天才だった」と回想しているそうである。(出典ウィキペディア)
現在は、「海洋国家日本の構想」とともに、中公クラシクスの一冊に収められていて、Amazonには9件のレビューが存在し、評価は五つ星である。
わたしが古書店で手に入れた「宰相吉田茂」は中公叢書の一冊だから、初版刊行は昭和43(1968)年。
この時代に、これだけの洞察に満ちた論攷が書かれていたことに驚き、感動している。
戦後日本の政治的、外交的枠組みを、ほとんど一人で作り上げた吉田茂の、政治家としての功罪が、ほぼあますところなく、鮮やかに論じられている。
いまから十数年前、高坂さんは評価の高い「文明が衰亡するとき」(新潮社〈新潮選書〉を読んで、非常に感心した覚えがある。さきほど調べていたら、この本は、高坂正堯著作集第五巻に収録され、その解説を塩野七生さんが執筆していることがわかった。
高坂さんは平成8(1996)年に、62才の若さで亡くなられている。日本はたいへんすぐれた保守の論客をこのとき、失った。
「そうか、そうか・・・、そうか!」
いままで釈然とせず、心の奥底で大きな氷塊のように沈んでいたものがあった。
それはなぜ、憲法九条なのか、なぜ自衛隊なのかという疑問に直接関係している。
そういう意味では、古びた過去の問題ではない。
日本における“戦後レジーム”を創出し、アメリカとの関係の基礎をすえ、占領軍主導の憲法を受けいれ、表向きは軍隊は保持しないといいながら、自衛隊をいつのまにかつくり上げた政治家・吉田茂。
戦後日本を論じた柄谷行人さんの「憲法の無意識」の中にも、白井聡さんの「永続敗戦論」の中にも、この「宰相吉田茂」は取り上げられていなかったのは片手落ちであろう。わたしが見るところ、それほど重要な著作である・・・ということである。
昭和38年、この時代にあって、よくもまあ、ここまで踏み込んで「吉田茂の時代」を抉りだしたものだ。脱帽せざるをえない。
しかも、その後の日本は、ここで高坂さんが予想した方向へと歩みつづけている。
つぎに本書オビの紹介文を引用しておこう。
《戦後日本を作った吉田茂は、経済の繁栄という輝かしい資産と国民の政治に対する不満という重い負債を遺して逝った。没後十年、複雑な国際環境の下でこの遺産をいかにうけつぐか、検討を迫られる。》
吉田茂のバトンを引き継ぎ、自民党のリーダーとして経済成長と外交の旗振り役=首相となった池田勇人や佐藤栄作は、元高級官僚であるが、吉田の門下生でもあった。
結果から見えてくるのは、功罪相半ばするとはいえ、政治家吉田茂の存在の大きさである。
そのあたりを、高坂正堯さんが、ほぼ過不足なく論証している。
しかも、昭和38年という時点で(昭和42年加筆)。
わたしがここでいう戦後レジームとは、サンフランシスコ平和条約と、日米安保のことをいう。
《サンフランシスコ平和条約とは、第二次世界大戦後の平和条約で、日本国と連合国各国の平和条約である。この条約の発効により、連合国による占領は終わり、日本国は主権を回復した。1951年9月8日調印、1952年4月28日発効。
第三次吉田茂内閣は、単独講和に踏み切った。1951年9月8日、アメリカ合衆国のサンフランシスコで講和会議が開かれ、日本国と48ヶ国によってサンフランシスコ平和条約に調印された。》
これがそのときの写真(平和条約の署名式)。
首相であり、全権であった吉田茂が、日本のいわば“運命”を背に負って、ただ一人署名している。
むろん脇役ではあったらしいが、日本国憲法にもかかわっている。
そうなのだ。
世界史の中の日本、世界史の中の“戦後”。
しかし、まだ冒頭に置かれた「宰相吉田茂論」しか読みおえていない(^^;)
すべて読み切ってからレビューを書くべきだろうが、最初の一章を読みおえて眠れなくなってしまったため、この時点で書いておく。
本書の最後には「偉大さの条件」という一文も収められている。
高坂さんが宰相吉田茂をどう評価しているのかが、そこに書かれている。
《吉田茂は偉大な政治家であった》と書き出されたこの文章は、政治家について書かれたあまたの論説の中にあって「稀代の名文」といえるすばらしい出来映えである。
※なお署名式の写真はWebから拝借しています、ありがとうございました。
評価:☆☆☆☆☆
塩野七生さんが最大限の賛辞を呈している国際政治学者・思想家の高坂正堯さんについて、猪木(正道)さんは高坂の没後に、「高坂は僕が教えた中では、ピカイチの天才だった」と回想しているそうである。(出典ウィキペディア)
現在は、「海洋国家日本の構想」とともに、中公クラシクスの一冊に収められていて、Amazonには9件のレビューが存在し、評価は五つ星である。
わたしが古書店で手に入れた「宰相吉田茂」は中公叢書の一冊だから、初版刊行は昭和43(1968)年。
この時代に、これだけの洞察に満ちた論攷が書かれていたことに驚き、感動している。
戦後日本の政治的、外交的枠組みを、ほとんど一人で作り上げた吉田茂の、政治家としての功罪が、ほぼあますところなく、鮮やかに論じられている。
いまから十数年前、高坂さんは評価の高い「文明が衰亡するとき」(新潮社〈新潮選書〉を読んで、非常に感心した覚えがある。さきほど調べていたら、この本は、高坂正堯著作集第五巻に収録され、その解説を塩野七生さんが執筆していることがわかった。
高坂さんは平成8(1996)年に、62才の若さで亡くなられている。日本はたいへんすぐれた保守の論客をこのとき、失った。
「そうか、そうか・・・、そうか!」
いままで釈然とせず、心の奥底で大きな氷塊のように沈んでいたものがあった。
それはなぜ、憲法九条なのか、なぜ自衛隊なのかという疑問に直接関係している。
そういう意味では、古びた過去の問題ではない。
日本における“戦後レジーム”を創出し、アメリカとの関係の基礎をすえ、占領軍主導の憲法を受けいれ、表向きは軍隊は保持しないといいながら、自衛隊をいつのまにかつくり上げた政治家・吉田茂。
戦後日本を論じた柄谷行人さんの「憲法の無意識」の中にも、白井聡さんの「永続敗戦論」の中にも、この「宰相吉田茂」は取り上げられていなかったのは片手落ちであろう。わたしが見るところ、それほど重要な著作である・・・ということである。
昭和38年、この時代にあって、よくもまあ、ここまで踏み込んで「吉田茂の時代」を抉りだしたものだ。脱帽せざるをえない。
しかも、その後の日本は、ここで高坂さんが予想した方向へと歩みつづけている。
つぎに本書オビの紹介文を引用しておこう。
《戦後日本を作った吉田茂は、経済の繁栄という輝かしい資産と国民の政治に対する不満という重い負債を遺して逝った。没後十年、複雑な国際環境の下でこの遺産をいかにうけつぐか、検討を迫られる。》
吉田茂のバトンを引き継ぎ、自民党のリーダーとして経済成長と外交の旗振り役=首相となった池田勇人や佐藤栄作は、元高級官僚であるが、吉田の門下生でもあった。
結果から見えてくるのは、功罪相半ばするとはいえ、政治家吉田茂の存在の大きさである。
そのあたりを、高坂正堯さんが、ほぼ過不足なく論証している。
しかも、昭和38年という時点で(昭和42年加筆)。
わたしがここでいう戦後レジームとは、サンフランシスコ平和条約と、日米安保のことをいう。
《サンフランシスコ平和条約とは、第二次世界大戦後の平和条約で、日本国と連合国各国の平和条約である。この条約の発効により、連合国による占領は終わり、日本国は主権を回復した。1951年9月8日調印、1952年4月28日発効。
第三次吉田茂内閣は、単独講和に踏み切った。1951年9月8日、アメリカ合衆国のサンフランシスコで講和会議が開かれ、日本国と48ヶ国によってサンフランシスコ平和条約に調印された。》
これがそのときの写真(平和条約の署名式)。
首相であり、全権であった吉田茂が、日本のいわば“運命”を背に負って、ただ一人署名している。
むろん脇役ではあったらしいが、日本国憲法にもかかわっている。
そうなのだ。
世界史の中の日本、世界史の中の“戦後”。
しかし、まだ冒頭に置かれた「宰相吉田茂論」しか読みおえていない(^^;)
すべて読み切ってからレビューを書くべきだろうが、最初の一章を読みおえて眠れなくなってしまったため、この時点で書いておく。
本書の最後には「偉大さの条件」という一文も収められている。
高坂さんが宰相吉田茂をどう評価しているのかが、そこに書かれている。
《吉田茂は偉大な政治家であった》と書き出されたこの文章は、政治家について書かれたあまたの論説の中にあって「稀代の名文」といえるすばらしい出来映えである。
※なお署名式の写真はWebから拝借しています、ありがとうございました。
評価:☆☆☆☆☆