批評というよりも、いつも「時評」的な言説ばかりが目立つ斎藤美奈子さん。他人の著作をネタにして、おちょっくたり、イナしたり、ゲップをあびせたり、毒を吐いたりがお得意なのはいいが、こういったゲリラ的、時評的な書物にはおのずから「賞味期限が短い」という限界がある。一貫していて、ご本人がマジで主張しているのは、フェミニズム的な立場からの男性および男性社会批判だろうな。彼女自身の思想を正々堂々と展開すればいいのに・・・、と思えるところでも、他人を引き合いにだして手早くまな板にのせてさばき、そのあとで、ほんのひと言、ふた言、大向こうをうならせるような台詞を書き「はい、できあがり」といわんばかりの料理は、調味料の味が濃すぎる。
「妊娠小説論」は意表を衝かれたし、わたしもその包丁さばきに喝采を送ったひとりではあった。しかしなあ。70年代はこうだったし、80年代はこう、そして90年代は・・・という論調が彼女の拠ってたつ立場のいわば底の浅さを露呈しているようにも思える。
その作家や批評家の「部分を衝く」のは、とてもうまいから、おもしろく読まされてしまうけれど、「で、結局どうなのよ、あんたは?」と質問したくなる。著者の立ち位置が明確ではないし、かなりゆれているのではないか? つまり、ずいぶん辛辣な批判のように見えて、じつは致命傷になりかねないツボははずしているところが彼女の「毒舌の藝」であるといえばいえる。
しかし・・・、読み出してすぐに、この本のおもしろさに気がつかないわけにはいかなかった。
目次をならべてみよう。
1. 文学バブルの風景
「村上春樹」 ゲーム批評にあけくれて
「俵万智」 歌って踊れるJポップ
「吉本ばなな」 少女カルチャーの水脈
2. オンナの時代の選択
「林真理子」 シンデレラガールの憂鬱
「上野千鶴子」 バイリンギャルの敵討ち
3. 知と教養のコンビニ化
「立花隆」 神話に化けたノンフィクション
「村上龍」 五分後のニュースショー
「田中康夫」 ブランドという名の思想
ご覧になってわかるように、「文壇」の80年代現象に、焦点をしぼっているのである。
斎藤さんふうにいえば、70年代人間であるわたしは、80年代に登場し、一世を風靡した物書きには、かなりシニカルな見方をしてきた。
したがって、彼女がここで展開してみせる舌鋒の鋭さに、しばしば「わが意を得たり」と膝をたたきたくなったのである。
『ルイ・ヴィトンのバッグを持った瞬間に若い女性が感じる喜びと、岩波書店の難解な本を読了した瞬間に学究の徒が感じる喜びは同じ次元(ディメンション)で語るべき等価な行為なのだ』
『村上春樹の小説は批評のオタク化・ゲーム化を促し、俵万智や吉本ばななはそれまで「女の子専用」であったJポエムや少女小説の流れを文学界の表舞台に乗せたことで、おんな子ども文化を軽視してきた「文壇村のオジサン」たちに新鮮な感動を与えたのでした。』
読みすすめるうちに気づいたのは、わたしが斎藤さんの100分の1も、この「アイドルたち」につきあってこなかったこと。著者は批判するために、しっかり本を読み、アイドルたちにつきあっているので、大抵の場合、放たれた矢は、きわどく的を射ているのである。
いま読んで無条件におもしろい批評家は、この人かもしれない。
そのきわどさゆえか、2008年4月から、朝日新聞の「文芸時評」に起用され、そのいわば「大舞台」でいっそうの活躍が期待されている。林真理子の「変節」を手厳しく批判した手前、痛快な激辛の味をまっとうして、右往左往ばかりしているわたしのような読者を鞭打ってほしいものである。
なお、参考までに申し添えると、単行本は2002年6月に、岩波書店から刊行されている(*_*)
評価:★★★★
「妊娠小説論」は意表を衝かれたし、わたしもその包丁さばきに喝采を送ったひとりではあった。しかしなあ。70年代はこうだったし、80年代はこう、そして90年代は・・・という論調が彼女の拠ってたつ立場のいわば底の浅さを露呈しているようにも思える。
その作家や批評家の「部分を衝く」のは、とてもうまいから、おもしろく読まされてしまうけれど、「で、結局どうなのよ、あんたは?」と質問したくなる。著者の立ち位置が明確ではないし、かなりゆれているのではないか? つまり、ずいぶん辛辣な批判のように見えて、じつは致命傷になりかねないツボははずしているところが彼女の「毒舌の藝」であるといえばいえる。
しかし・・・、読み出してすぐに、この本のおもしろさに気がつかないわけにはいかなかった。
目次をならべてみよう。
1. 文学バブルの風景
「村上春樹」 ゲーム批評にあけくれて
「俵万智」 歌って踊れるJポップ
「吉本ばなな」 少女カルチャーの水脈
2. オンナの時代の選択
「林真理子」 シンデレラガールの憂鬱
「上野千鶴子」 バイリンギャルの敵討ち
3. 知と教養のコンビニ化
「立花隆」 神話に化けたノンフィクション
「村上龍」 五分後のニュースショー
「田中康夫」 ブランドという名の思想
ご覧になってわかるように、「文壇」の80年代現象に、焦点をしぼっているのである。
斎藤さんふうにいえば、70年代人間であるわたしは、80年代に登場し、一世を風靡した物書きには、かなりシニカルな見方をしてきた。
したがって、彼女がここで展開してみせる舌鋒の鋭さに、しばしば「わが意を得たり」と膝をたたきたくなったのである。
『ルイ・ヴィトンのバッグを持った瞬間に若い女性が感じる喜びと、岩波書店の難解な本を読了した瞬間に学究の徒が感じる喜びは同じ次元(ディメンション)で語るべき等価な行為なのだ』
『村上春樹の小説は批評のオタク化・ゲーム化を促し、俵万智や吉本ばななはそれまで「女の子専用」であったJポエムや少女小説の流れを文学界の表舞台に乗せたことで、おんな子ども文化を軽視してきた「文壇村のオジサン」たちに新鮮な感動を与えたのでした。』
読みすすめるうちに気づいたのは、わたしが斎藤さんの100分の1も、この「アイドルたち」につきあってこなかったこと。著者は批判するために、しっかり本を読み、アイドルたちにつきあっているので、大抵の場合、放たれた矢は、きわどく的を射ているのである。
いま読んで無条件におもしろい批評家は、この人かもしれない。
そのきわどさゆえか、2008年4月から、朝日新聞の「文芸時評」に起用され、そのいわば「大舞台」でいっそうの活躍が期待されている。林真理子の「変節」を手厳しく批判した手前、痛快な激辛の味をまっとうして、右往左往ばかりしているわたしのような読者を鞭打ってほしいものである。
なお、参考までに申し添えると、単行本は2002年6月に、岩波書店から刊行されている(*_*)
評価:★★★★