二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

声   柳美里(小学館)

2010年03月13日 | ドキュメンタリー・ルポルタージュ・旅行記
職業としての小説家。
彼は、あるいは、彼女は、恐ろしい職業を選んでしまったのである。

・・・いままで、そんなことを考えたことはなかった。

すぐれた小説を、またおもしろい小説を、作品として書きつづけなければならない。
短編だろうが、長編だろうが、ひとつふたつ秀作を書いたからといって、なにほどのことがあろう。小説家を職業として選んだ以上は、いのち尽きるまで、プレイをつづけ、
「買ってもらえる」作品を、つぎからつぎへと、世に送り出さなければならない宿命を負ってしまう。
小説家はたえず、滑り落ちそうな予感に身をさいなまれているはずだ。
卵を産まなくなったニワトリは殺されてしまう。
読者に飽きられる、批評家に酷評される、出版社から見放される。
そうならないために、小説家は、なんでもするだろう。そのことを、「恐ろしい」というのである。

職業としての小説家とは、なんだろう。エンターテインメントの作家だろうと、純文学の作家だろうと、無理に無理を重ねない限り、そんなことは、とても不可能ではないか?
まあ、けたはずれの才能をもっていれば、話は別かも知れない。しかし、そういう才能は、百年にひとり、ふたり――せいぜい数人止まりなのに違いない。
わたしのように、30年のうえも小説を読んでいると、生き残っている小説家より、消えていった小説家のほうがはるかに多いことに、いやでも気がつく。10年前、あるいは5年前の芥川賞作家、直木賞作家。あの人は、いまなにをしているのだろう、と。

「命」4部作の第3部「生」の終わりで、東は死ぬ。
本書ではその東の葬儀から、長崎の墓地への埋葬までがつづられていく。大いなる欠落と、悔恨と、悲しみの連鎖に暗く絶望的に胸をふさがれた彼女に、東と過ごした日々の記憶がよみがえる。それはカットバックの手法で、本文に溶け込んでいる。
どれもこれも、たわいない日常の会話ばかり。

柳美里は、16歳で東由多加に出会う。劇団の研究生としてつきあいながら、やがて「男と女」の関係になる。「あんたには、書く才能がある。小説家になつといいよ」と東はいい、彼女を小説家に育てていく。
はじめての男であり、師なのである。彼女は全身で「東の存在」を感じている。東は多情で、つねに複数の女とつきあっていた。彼女は引き裂かれ、うめきのたうち、やがて女としての自分をありのままに見つめるようになっていく。
ここでは思い出は、過去という名の生活と化している。
「記録魔」といっていいようなディテール描写。
最後のあたりでは、本にするための「命」の校正場面が登場するから、じっさいに起こったことと、執筆とのタイムラグはわずかである。
彼女は、時間の流れにさからいたいのだが、どうにもならずに、悲嘆にくれる。溺れそうになった者が空気をもとめるように、東との「終わってしまった過去」をもとめる。
まちがいなく、半身をもぎとられたのである。柳美里は、そう書いている。
渾身のノンフィクション・ノベルは、巻を追うにしたがって、しだいに奇妙な「恋愛小説」に近づいていく。読者を巻むパワーは、一瞬も衰えをみせない。そして、見事な結末。

小説を書くことは、彼女にとっては生活の一部である。いや、書くことによって、お金をかせぎ、生活をささえている。いつ、どこで、どんなふうにして書くのかを、彼女は本書のなかにも書いている。「書いてお金をかせぐ」以外の仕事はしたことがないのだ。東ははやい段階でそれを見抜き、彼女を育てる。「あんたには、ほかになにもできっこないんだから、書けばいいんだ。書くしかないでしょ」
これは、宿業とでも呼ぶほかない、この世との真剣勝負、果たし合いのようなものであろう。
わたしが連想したのは、高校のころに読んだ「嵐が丘」だが、似ているのは、生と死をめぐる、あるいは男と女をめぐる、精緻な情念のアラベスクというあたりだけ。縦糸は愛憎であり、横糸は不可能性というこのドラマは、「女とはどういう存在なのか」をあぶり出している。
崖っぷちをさまよう、一個の魂の記録。
このような私生活の暴露はいろいろな意味で賛否両論を呼ぶことはやむをえないとしても、本書はよくある「手記」のレベルをはるかに上まわる、出色のノンフィクション・ノベルである。

柳美里はこのあと、この連作をこえる作品が、あるいは匹敵する作品が、書けるのだろうか?



評価:★★★★★

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