二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

中里恒子の恋愛小説「時雨の記」をめぐって

2022年07月08日 | 小説(国内)
幸田 文(こうだ あや 1904年明治37~1990年平成2)
中里恒子(なかざと つねこ 1909年明治42~1987年昭和62)

こうしてみると、中里恒子さんは、幸田文さんより5歳年下。
いままで、幸田文は数編読んでいるが、中里恒子には縁がなく、作品は手許に2~3冊しかなかった。読みたいという欲望にかられる作品が見いだせなかったのだ、ただ1作をのぞいて。その1冊こそ「時雨の記」。

そしてこちらは映画。
■東映映画 予告編(吉永小百合 渡哲也主演)
https://www.youtube.com/watch?v=Th7R0yBSxMc
4~5日前に、投稿された全編を観たのだが、Linkしようとして見直すと、著作権違反が判明したのか、残念ながら削除されてしまっている(。-ω-)

ウィキペディアで調べると、映画「時雨の記」上映までの詳しいいきさつが縷々記述されているので参考になる。吉永小百合も渡哲也も、ノーギャラだったそうなので恐れ入る。
吉永さんは、女優として、そこまでこの原作にほれ込んだということである。

よくある例だが、原作の「時雨の記」と映画では、設定が違っている。
書下ろし長編として「時雨の記」が刊行されたのは、昭和52年、作者68歳のとき。
ところが映画では、昭和の終わりという設定で、昭和天皇の危篤をつたえるTVニュースが流れている。
また原作では大磯となっているのが、映画では鎌倉を背景にすることとなった。
ほかにも設定の違いはいくつもあるが、どちらもいわば中年男女の「至純の愛」の物語では共通している。
めずらしいのは、渡辺淳一あたりがさかんに書いたベッドシーン(性描写)がまったくないこと(´ω`*)
映画の方はメロドラマそのものに近いといえばいえる。だが、吉永小百合、渡哲也の体当たりの演技は胸を打つものがあり、わたしも涙ぽろぽろ。

さて、小説はまだ最後まで読んでいないけれど、
《知人の華燭の典で、二十年ぶりに再会した実業家と、夫と死別して一人けなげに生きる女性。人生の道のなかばで、生涯に一度の至純の愛にめぐり逢った二人を描き、人の幸せとは? 人を愛するよろこびとは? を問う香り高い長篇小説。作品解説のほか、雅びな恋愛小説を遺した中里恒子の作家案内と自筆年譜付き》BOOKデータベースより

・・・という内容。
中里恒子といえば、「歌枕」とこの「時雨の記」は、単行本で持っていたはず。ところが、1時間ばかり探したのに見つからなかったので、BOOK OFFで文春文庫を買ってきて、昨夜から読みはじめた。
視点の“ゆれ”があちこちにあって、それが気になって仕方なかった。

こういう叙述が許されるのかしら(^^? )
多江の視点、壬生の視点、作者(中里恒子)の視点が、くるくると動くのは、小説の“お約束”を無視している。
しかし、それもベテラン作家・中里恒子が意図したことであるとかんがえざるをえない。

《小さい門が開いている。
山椿の花が散り敷いている。
門の扉がこわれていて、一枚立てかけてある。これは不用心だ、なおさなければいけないな、わたしは、それからベルを押そうとした。すると張り紙がしてあって、
「ベルはこわれています。御用の方は、どらを叩いて下さい」とある。
茶室のようでもないが、どらを使うとは、愈愈(いよいよ)わたしは気に入った。叩いた。
「どなたさまで、」
玄関を開けずに、応対があった。
「壬生孝之助です、昨日の、」
「まあ、ほんとにいらしたのですか、たいへんだわ、とり散らかしておりまして、」
それから玄関の差込みを開け、鎖を外し、あのひとが顔を出した。
流石(さすが)に、わたしは顔が赧(あか)くなった。つむじ風が吹いて、竹藪がざわざわ鳴って、竹の葉が舞いこんだ。
「どうぞ、おはいり下さいまし、今日は、風がつよくて、冷とうございましょう、」
つかつかと、わたしは座敷へ通った。
午後の日の当たる縁先近くに、炬燵があって、そのまわりに、小裂(こぎれ)が散らばり、小抽斗(こひきだし)の裁縫箱から、赤い針山がみえる。なにか、小娘がひとりで遊んででもいるような、のんびりしたたずまいで、わたしは、こんな光景を、終(つい)ぞ見たことがないままに、すっかり、見惚れてしまったねえ。》(本文庫19ページ)

ここは出会ってからはじめて、ひとり暮らしの多江を訪れたとき、壬生の視点からの述懐である。読点(、)の使い方に、中里さんの特徴がある。

映画は去りゆく昭和への鎮魂が表に出ているが、原作にはそういった気配はない。
昭和52年、作者68歳のときの長編である。
わたしはいつからか、女性作家の作品はほとんど読まなくなってしまった。
読むとしたら、林芙美子、幸田文の二人だけ・・・といってもいいかも知れない。
しかし。
「時雨の記」によって、三人目の作家として中里恒子が加わった。
日本語が、生きて呼吸している。古風にみえるのは、中里さんが、明治のお生まれだからである。
生活習慣として恥じらいを知っているつつましい女性と、経済成長期のただなかを生き抜いてきた男性の“至純”の愛であり、恋である。つまらないベッドシーンを描かなったことを、作者は誇りとしていいと思える(^ε^)
抑制が効いた、見事というほかない格調の高い文章。



これが「時雨の記」を書いたころの、中里恒子である。
この時代、和服は普段着であった。着こなしがうまいのは、当然なのだ。茶道や華道が上流婦人の、また玄人筋のいわば“たしなみ”であり、プライドでもあったろう。
文庫版には河上徹太郎、宇野千代、江藤淳、古屋健三がエッセイ・解説を寄せている。
そのうえ「中里恒子・人と作品」を阿部昭が書き、中里恒子年譜まで収録されているのがありがたい。

彼女は昭和62年、77歳で亡くなっている。
「時雨の記」は、おそらくはある程度まで作者中里恒子の体験談であろう。
多江はもうひとりの、ありえたかも知れない中里恒子である。私小説の書き手では必ずしもないようだが、ディテールの輝きは、あきらかに経験を踏まえて構成されており、読者たるわたしの襟を正さずに擱かない。

交通事故に遭ったり、離婚したり、娘がアメリカ人と結婚したりと、中里さんの人生は、決して順風満帆の生涯とはいえなかった。
映画「時雨の記」をきっかけに、中年となった男女の不倫の愛は、「しぐれ族」なる流行語を生みだしたそうである。
そんな流行語とは無縁の存在であったことを、凛とした和服のポートレートは雄弁に語りつづける。



※まだ最後まで読み終えていないため、無評価としておきます。
なお、中里さんのポートレートは、ネット検索からお借りしたものに、若干手を加えています。ありがとうございました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 深紅のバラ | トップ | 安倍晋三元首相の死去を悼む »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

小説(国内)」カテゴリの最新記事