二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

比類なき時間の過ごし方

2021年04月12日 | エッセイ・評論(海外)
これまでにも多少書いているが、今日は本そのものの話題。
内容・中身のことではなく、ものとしての本について、極私的に。
稀覯本あるいは準稀覯本といいたいところだけれど、それほど大したものではない、まったくのところ(*ノv`)

本は毎日欠かさず読むし、ベッドルーム、クルマの中まで“枕頭の書”が備えてある。
活字依存症、中毒者である。
病院の待ち時間にも、本を開いていることが多い。
2日に1回は本屋さんを巡り歩いている。新刊本のお店ばかりでなく、古書店、BOOK OFFを散歩。出かけると1時間は歩きまわる。

どこでも見かける本、めったに見かけない本。
中古カメラと同じで、本も在庫豊富なもの、品薄なもの、稀覯本のたぐいがある。
転売目的で背取りをするわけではない。読むとすれば文科系の本、歴史と文学、その周辺を少々・・・である。

わたしの周辺には、友人でお二人、ミク友さんでやっぱりお二人。
読書人といえる知り合いはとても少ない。1年に本を1冊も読まない人が、人口の50%を占めるそうなので、日本人は昔に比べ、驚くほど本を読まなくなった。
どこもかしこも、スマホ人類ばかり。
右向け右がお好きな日本人、似たり寄ったりの情報を“共有”して安心している。

さてここからは具体的な事例を挙げて、わたし流の本の話をざっと書いてみよう♪


1.トップの一枚。
左、ドーデーの「月曜物語」桜田佐訳 岩波文庫。1936年刊行(1982年第45刷)350円。
なつかしいパラフィン包装の文庫。
この時代のものは旧漢字旧かなを使っているものが大半だけど、これは新漢字、新かなに修正してある。
ドーデーの「風車小屋だより」は、大好きな1冊なので、2回か3回読んでいる。しかし、こちらは「いつかそのうち」と思いつつ、未読。
右は吉川幸次郎さんの「漢の武帝」岩波新書 230円。これは名著だろうが、現在品切れ(だと思う)。



2.「犠牲者は誰だ」ロス・マクドナルド 中田耕治訳。早川POKET MISTERY(昭和54年刊700円)。
ロスマクのハードボイルドのうちでは、これが一番のお気に入り。かつて読んで圧倒的な感動をうけたため、目印のポストイットがたくさん挟んである(*^。^*)
右はルイ・フィリップ「小さな町で」山田稔訳 みすず書房 2400円。これはおそらく現行本で在庫ありだろう。わたし的には残念ながら、いまだ積読本。



3.左は三島由紀夫「フランス文学講座」鹿島茂編。1997年刊、620円。
三島さん本人がこういうタイトルの本を書いたのではなく、フランス文学の泰斗でバルザックの専門家・鹿島茂さんが、三島の著作からラディゲやサドについてふれた批評・感想を拾いだして編集したもの。
現在在庫切れ、または絶版。
右は室生犀星「我が愛する詩人の伝記」講談社文芸文庫、1400円。これは立派に現役だけど、わたし的なトピックがある。これをこのあいだ100円で手に入れたからだ。ヤケ、ヨレのない美本なのに。



4.左はルナアル「ぶどう畑のぶどう作り」岸田國士訳 1938年刊(2009年版) 600円。これは現行本。これもお安く手に入れた(´v’)タハハ
右はアラン・シリトー「ノッティンガム物語」橋口稔・阿波保喬訳 集英社文庫 昭和54年刊 280円。
シリトーは「長距離走者の孤独」が、新潮文庫で現役。他はすべて絶版である。 
「長距離走者の孤独」はわたしが愛する短篇集の一つ。ここに収録されている「漁船の絵」など、切れ味鋭い名短篇。
「屑屋の娘」という短篇集も持っている。



5.つぎの2冊はどちらもバルザックの文庫本。
「ツールの司祭・赤い宿屋」水野亮訳 岩波文庫1945年刊、2010年に復刊 720円。
バルザックは長編で名が知れていると思うが、短編も名作がたくさんあり、いろいろなシリーズに収録されている。「赤い宿屋」の方だけ、これを買ったとき、読んでいるはず。
岩波文庫は挿絵があるものは、その挿絵に価値がある! 挿絵だけ眺めるのも愉しいよねぇ。
右はバルザック「セラフィタ」蛯原徳夫、角川文庫 昭和29年(平成元年)440円。
こちらも“復刊”シリーズ。本書は「バルザックの『神曲』とも『ファウスト』ともいわれる“神秘の書”」。
この「セラフィタ」稀覯本といってもいいかもね。ただし旧漢字で文字の行組がとても窮屈なため、高齢者向きではないのが残念。


以前から新書や文庫本などの小型軽量な本を愛読している。
年をとって、ますますその傾向に拍車がかかった。
本をやたら集めているわけではないが、いつのまにか集まってしまう。
近ごろ本屋歩きをしてもめったに見かけないこういった本が、3-40冊はあるだろう。
すぐに読みたくなる本もあるし「いつかそのうち読むだろう」と思いながら買う本もある。
このところ、本棚(7か所ほどに分散)をのぞいては、本をあれこれ物色する時間がふえた。

ヒマといえば、現役時代に比べてヒマなのだ。
老後とは、こういう時間が持てることだ。このさき、どれくらい“老後”がつづくのだろう。モンテーニュは59歳で亡くなっている。わたしはまもなく69歳になる。なにもできずもたもたしているうち、こんな年になってしまった(´Д`)
いまとなっては野心もへったくれもない。両親がそろっているので、1年でも長く生きられれば、それでよしとしなければならない。

仮に平均寿命まで生きたとしても、目があがってしまえば、本から遠ざかることになる。分厚い老眼鏡をかけて本を読むのはつらい。
これからいったい、どれほどの本を読むことができるのか?
いずれにせよ、たくさんの持ち時間があるわけではない。
若いころに読んで、中年で読んで、60、70過ぎに読む。ほんとうにすぐれた、要するに「愛読書」といえるものは、三度は読みたい・・・と願っている。
新刊本には関心はうすく、どうしても古典、準古典が多くなる。モンテーニュがあげている本も、8割方古典。
モンテーニュの16世紀にも、むろん古典があったのだ。いまのわれわれには、そのモンテーニュが立派な古典。所詮日本語でしか読めないとはいえ、100年、200年、300年、400年という尺度で、人間と世界を眺め、観察する快楽(^^♪

これこそ“読書人”の比類なき時間の過ごし方・・・といっておこう。

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