二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

思い出のフーガ(ポエムNO.2-95)

2017年07月07日 | 俳句・短歌・詩集
「ぼくには千年生きたよりも多くの思い出がある」と書いたのはボードレール。
朝一番 大きなくしゃみをしたあとで
彼にあやかって
変形したり 研きこんであったり
すりへっていたり フィクションであったり
半分ちぎれていたり 昭和の演歌ににていたり
・・・する思い出を

指先でころがす。
フーガのリズムで?
そう そいつらは遁走する。
追いかけても すぐに姿を見失う。
DNAには決して書き込まれることのない思い出。
ぼくという存在は そういった思い出の集積からできている。
ある一日の突堤

その先端に立ってぼくは過去を振り返る。
何冊かの膨大な書物を読むように
ぼくは思い出を読む。
読む。
それらが比類のない快楽であることに
気が付いたからだ 歳をとったのでね。
そこにあるもの。

つまり「そこ」に
ぼくという存在が「ある」。
思い出の小径をたどっているうち
よく迷子になって
他人の思い出の中に紛れ込む。
それはたとえばモンテーニュの「エセー」であったり
平家物語であったりする。

本を読むように 思い出を読んでいる。
ときならぬ風雨に襲われ
蟻のように狼狽して巣穴に逃げ込んだりする。
思い出はいつだって
スフィンクスのようになぞをかける。
あった過去と
ありえたかも知れない過去のはざま。

そこに立ち止まり ふたたび歩きはじめる。
たえず更新され とどまることを知らない思い出よ!
・・・と 昔の詩人をまねて叫んでみる。
現在という見通しのきかないドームの中で。
そこの角を曲がれば十年前の 
二十年前のぼくに遭えるだろう
ついさっき 黒猫が曲がった あの路地の向こう。

ぼくはいま そこにいる。



※ボードレールの詩「憂鬱」は、つぎのようにつづく。
《ぼくには千年生きたよりも多くの思い出がある。
勘定書、詩稿、恋文、訴訟書類、恋歌、
領収書に巻いた重たい髪の毛などが、抽出しに一杯つまっている大きな箪笥も、
ぼくの哀れな頭ほどには、秘密を隠していない。それはピラミッドか、大きな納骨堂、
共同墓地よりも沢山の死人がはいっている。・・・》「悪の華」より佐藤朔訳
(なお「悪の華」には、「憂鬱」と題された作品が、全部で四編ある)

※写真は2008年2月、浅草。

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