二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

フリードリヒ・グルダ、最後の挨拶

2013年01月13日 | 音楽(クラシック関連)

吉田秀和さんの「之を楽しむ者に如かず」(新潮社)は二部構成になっている。
第一部は本書のタイトルにもなった「之を楽しむ者に如かず」のタイトルで雑誌「レコード芸術」(2006.4~2009.5)に連載したエッセイ、第二部は「今月のディスク」と題され、同じく「レコード芸術」(2000.12~2003.11)に連載したエッセイである。

その後者のほうに「カルヴェのベートーヴェン、グルダのシューベルトほか」という一章がもうけてあり、そこでわたしは吉田さんのたいへん厳しいグルダ評を読んだ。
グルダのCDとは、「GULDA plays SCHUBERT」(日本での発売元はEMI)のこと(写真左下)。
このCDには、シューベルトの「即興曲」(作品90 D899)と、「楽興の時」(作品94 D780)が収録されている。
しかし、これだけではない。
最後にグルダ自身の作曲による「ゴロヴィンの森の物語」(J・シュトラウスへのオマージュ)が入っている。
「即興曲」の演奏については、吉田さんはつぎのような評価を書きとめる。

《これは恐るべき名曲の稀代の名演である。こういう音楽を書き残した人、それを一生胸に抱いて生きていた人、これがシューベルトであり、そうしてグルダだったのである。》(同書315p)
ディスクのライナーノートを参考にすれば、これは69才で死去したグルダが、その前年、1999年にプライベートで演奏した、いわば私家版を音源としているらしい。
レコード会社と軋轢を生じ、演奏も録音も晩年にはあまりおこなわれておらず、ひどく孤独な数年を送ったあと、彼は独奏し、独唱する。

わたしは吉田さんのエッセイを読むまでは、「即興曲」だけ聴いてこのCDはほったらかしてあった。ところが、このエッセイがきっかけで、CDをラックの棚から見つけて、昨晩それを聴いてみて、いささか驚き、考え込んだ。
「即興曲」の演奏は、くらく重苦しいといっていいくらい、深い呼吸の中から、ゆっくりと弾きだされていく。しかも、その悲哀の情のようなものは、第1番から、第4番まで、遠い険しい道をすすむ巡礼の足音のように、ずっと持続し、聴く者の胸をえぐる。
涙が枯れ果てたあとの悲哀・・・とでもいったらいいのか?
それは「楽興の時」でも同じ。
わたしは一歩一歩と足許を確認しながら、よろけないように砂礫の道をすすんでいく巡礼のひとり旅を、なぜか連想した。グルダはここで、万感のおもいをこめて、来し方を振り返っている――というふうに。

そういう意味での名演である。
ここまでは吉田さんは、非常に高く買っている。
問題はそのあと、最後に収録された「ゴロヴィンの森の物語」である。
吉田さんはこれを評価しないという。
グルダの肉声が入った、文字通りの歌。
「この曲はここにない方がよい」と、短いディスク評の終わりで、二度もくり返し念を押している。演奏時間19分45秒。
グルダの作曲で「ウィーンの森の物語」や、ベートーヴェンの「運命」や、「悲愴」からの引用が鏤めてあり、とてもユニークな曲調。これはJAZZだ・・・とわたしはおもう。

■おいらがいつか死んだら
《おいらがいつか死んだら
辻馬車に乗せてチターを弾いておくれ、
おいら楽しいのが好きだからさ、
大きな澄んだ音で弾いて踊って、
とことん陽気にやってくれよ!

ウィーンの人たちは
喪に服しておいらの墓の前に集まるだろう、
そして「彼は死んでしまった、
本当に陽気な男だった」って言うだろう。》(岡本和子訳/ライナーノートより)

レコード会社が用意した録音スタジオではなく、グルダが自分の部屋で、これらを演奏し、歌っている姿を想像すると、身がひきしまるというか、うらぶれた「老年の悲哀」がこみ上げてくる。

グルダは生前にみずから死亡通知を出して周囲の人びとをあきれさせ、煙に巻いたことで知られている。明らかに、自身の死を見つめて、これらの曲を弾き、歌っている。天才ピアニストがみずからに捧げたブルース!
ウィーンの反抗児グルダは、人気の翳りもかまわず、ここまでたどりつき、その運命をまっとうしたのである。
「ウィーンのピアニストがJAZZに惚れたっていいじゃない」と彼はいっている。ベートーヴェンを称え、シューベルトを称え、シュトラウスを称え・・・そしてJAZZへの憧れを宿して生きたピアノストの証が、この一曲に刻み込まれている。

わたしにはそう聞こえ、考えているうち、胸のふるえを抑えることができなくなった。
フリードリヒ・グルダ、最後の挨拶とは、このことである。彼が死んだのは、この翌年。

いや、たくさんのディスクがあるから、もしかしたらこれが「白鳥の歌」ではないのかもしれない。
わたしは彼の忠実なファンではなかった。しかし、いまは、そんなことどうでもいい。最後に大好きだったシューベルトのかたわらに帰ってきて、そこに身を置き、永遠の眠りにつきたかったのだろう。
自作自演といえば、その通り。
「即興曲」「楽興の時」とならべて、ささやかな墓を用意した。
それがこの「ゴロヴィンの森の物語」だと、そう考えてはいけないのだろうか?

したがって、今回ばかりは吉田秀和さんの見解に、真っ向から反対したいのである。

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