二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

COSMOS(ポエムNO.63)

2011年10月16日 | 俳句・短歌・詩集


こんどこそ終わりだろうとおもうと
またいつしかはじまっている。
死んだ人は生き返ってはこないけれど
よく似た人が 百年後の世界を歩いている。
地球という名の 大いなる循環装置。
あ バッハの音楽がまた 耳の奥底ではじまり
感情の澱を ゆっくり
ゆっくりとかきまぜて。
ぼくらを見たこともない地平線の彼方へとつれ出す。

雨音。
雨だれ。
クルマが通りすぎる音。
そしてバッハの音楽は せせらぎのように
とぎれとぎれにつながって。
今日は紅葉が見られるとおもったのに
十月桜がほそい枝先で微風にふるえていたりするんだ。
もういっぺんいってごらん。
この世は無常だと。

遠ざかったはずのものはいつしか出発点に帰ってくる。
自然界のこのデリケートな輪廻の糸を切ってはいけない。
地球は人間のためにあるわけじゃないのだから。
裏の納屋の板庇を小雨がたたいている。
大気と水の循環がつくり出す今日のお天気。
色とりどりのコスモスが咲き乱れているというのに
ぼくの子どもたちの姿は見えない。

宇宙の中心にはきっと
コスモスに似た花が咲いていてね。
数万年まえにそこを出発した火の鳥が
いまも地球をめざして 暗黒の宇宙を飛んでいる。
・・・手塚治虫ふうにいえばね。
きみにもぼくにも火の鳥の姿は見えないけれど。

ぼくはカメラをかまえて地面に寝ころび
透過光に透けた美しいコスモスの花びらに見とれている。
空にはちぎれ雲がぷかり ぷかり。
ぼくがはじめてこんな光景を眼にしたのは
六歳か七歳のころ だったろうか?
人間が絶滅したあとの地球のすがすがしさ。
昨日 友人とそんな話をしたばかりさ。

この世のにごりは すべて人類という名の動物がもたらしたのだ。
ぼくはカメラをかまえて地面に寝ころび
透過光に透けた美しいコスモスの花びらに見とれている。
コスモスにはなんの罪もないから
こんなに美しく 透き通っていられる。
いまでは堕落してしまった猫にも犬にも罪はない。

だから 無邪気で美しくたわむれていられる。
それもこれもほんとうのことなんだ。
あ バッハの音楽がまた 耳の奥底ではじまり
感情の澱を ゆっくり
ゆっくりとかきまぜて。
ぼくらを見たこともない地平線の彼方へとつれ出す。

とっくに死んだはずの人びとが
ぼくの先祖や もしかしたら子孫までもが
そのあたりを散策していてね。
ぼくが十数年まえに投げたフリスビーを
弱視のムクがいまでも追いかけているんだ。
近々 コスモスの咲く川べりで食事会をしよう。
ああ きみもきてくれるよね。
この世からとりあえず退場してしまった人びとといっしょに
ぼくはいつまでも待っている。

「ムク! ムク!」
ぼくはいまもここにいる。
おまえの死も やがてくるぼくの死も
地球へのささやかな贈り物。




※ムクとは五年ばかりまえに死んだわが愛犬の名です。

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