「幻滅期」を迎えようとするメタバースの現在地と可能性を追ってきた本連載。「人々が3次元アバター(分身)をまとって仮想空間で過ごすようになる」という未来は訪れるのか。米マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボ副所長の石井裕教授は、メタバースに必要なデバイスを「深海用の潜水服」に例えつつ、「現実の空間にいる人間同士の緊張感と信頼感・安心感は再現できない」と唱える。

(取材・構成=鷲尾 龍一)

 例えるなら、メタバースは深い海に潜るようなものだ。没入感を得ようと、より深く、しかも長時間潜りたいなら、重装備な潜水服が必要になる。食事、水、空気を補充しないと長い時間は過ごせない。かといって、潜水艦に乗れば感じられる世界は限られる。メタバースというビジョンは、世界に大きなハイプ(刺激)を起こしているが、冷静かつクリティカルに物事を考えることが今こそ必要だ。熱狂はいずれ冷める。

 産業機械や都市、建築物のモデルをデジタル空間につくり、シミュレーションに活用する例は既にある。こうした「デジタルツイン・ミラーワールド」は発展していくだろう。問題は「ソーシャルなメタバース」だ。議論、食事、遊び、仕事。こうした営みを仮想世界に移すことが本当に良い方向性なのか。全ての人がバーチャルなアバターの仮面を付けて、会話をすることが本当に正しい方向性なのか。

石井裕(いしい・ひろし)氏
石井裕(いしい・ひろし)氏
マサチューセッツ工科大学(MIT)教授、メディアラボ副所長。NTTヒューマンインタフェース研究所を経て、95年にMITメディアラボへ。手で直接操作できる物理的なモノを使い、直感的にデジタル情報を操作する「タンジブル・インターフェース」を研究している。2001年にMITよりテニュア(終身在職権)を授与。06年にCHIアカデミーを受賞、19年には、SIGCHI Life Time Research Award (生涯研究賞)を受賞(写真=Junichi Otsuki)

 今、デジタルの世界で、情報の洪水が起きている。手元のスマートフォンは「私をチェックして」と叫んでいる。アテンション(注意)を奪い合う戦争だ。デバイスの通知で今の仕事を中断され、別のアプリに飛んでしまうと、以前の文脈を思い出して戻ることが難しくなる。この行ったり来たりに、すごいエネルギーを損失している。

 メタバースでも、現在のSNS(交流サイト)などのようにIT事業者は顧客を囲い込み、アバターから得た情報をマーケティングに使おうとするだろう。各プラットフォームにはそれぞれ決まり事があり、互いを隔てる大きな壁が互換性を妨げている。アテンションを奪い合う戦争は終わらない。そういう未来は考え直した方がいい。

 アバターが乗っ取られてしまえば、本当の持ち主のアイデンティティーを破壊することも可能になってしまう。現実の空間にいる人間同士の緊張感と信頼感・安心感はメタバースでは再現できない。

 私は1992年、遠隔地にいる2人がガラス板の表面に絵や文字を書きながら話ができる「クリアボード」を開発した。単にデジタル的に情報をやりとりするだけではなく、相手の視線が画面のどこに向けられているかが分かることで、相手の関心がどこにあるのか、集中しているのかが伝わる。

 この発明がきっかけでMITに移り、現在は、形のないデータを手で直感的に操る「タンジブル・インターフェース」を研究している。ピクセルでしか表現できなかったデジタル情報に物理的実体を与えて、手や体で直接データを操れるようにする新たなインターフェース技術だ。

 このタンジブル・インターフェースをベースに、物理世界にデジタルが融合する「MATTERverse(マターバース)」という方向性を提案したい。リアルな世界にいかにデジタルを埋め込むかという考え方だ。我々は物理的な存在として、現実世界に生きている。実際に手で触れられる世界に価値を見いだしている。