山形県山形市山寺の立石寺(山寺)にある本堂です。
国指定重要文化財となっている根本中堂は立石寺本堂でもあります。延文元年(1356)、初代山形城主・斯波兼頼(しばかねより)が再建しました。本堂内には、慈覚大師作の木造薬師如来像が安置され、比叡山延暦寺から分火された火は奥の院(如法堂)の常火、開山堂の常香、根本中堂の法燈と3つに分けられ灯されています。
立石寺は一山の総称でその名の堂宇はありません。この根本中堂が立石寺の本堂であり中心道場でなのです。薬師如来のほか伝教大師や文珠毘沙門の諸像が安置されています。
根本中堂の法燈は、千年以上の昔から火を灯し続けています。天台宗宗祖伝教大師が中国の天台山国清寺から伝えたものです。大永元年(1521)、天童頼長により一山が焼かれた時、円海和尚が比叡山より改めて火を貰い受けました。その50年後の元亀2年(1571)、織田信長によって比叡山が焼き払われ、再興の折、逆に立石寺から延暦寺に分火されたそうです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
国指定重要文化財となっている根本中堂は立石寺本堂でもあります。延文元年(1356)、初代山形城主・斯波兼頼(しばかねより)が再建しました。本堂内には、慈覚大師作の木造薬師如来像が安置され、比叡山延暦寺から分火された火は奥の院(如法堂)の常火、開山堂の常香、根本中堂の法燈と3つに分けられ灯されています。
立石寺は一山の総称でその名の堂宇はありません。この根本中堂が立石寺の本堂であり中心道場でなのです。薬師如来のほか伝教大師や文珠毘沙門の諸像が安置されています。
根本中堂の法燈は、千年以上の昔から火を灯し続けています。天台宗宗祖伝教大師が中国の天台山国清寺から伝えたものです。大永元年(1521)、天童頼長により一山が焼かれた時、円海和尚が比叡山より改めて火を貰い受けました。その50年後の元亀2年(1571)、織田信長によって比叡山が焼き払われ、再興の折、逆に立石寺から延暦寺に分火されたそうです。
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山形県山形市山寺にある立石寺(山寺)です。
山寺の別称をもつ立石寺(りっしゃくじ)は、正式には宝珠山阿所川院( ほうじゅさんあそかわいん)立石寺といい、山形市の北東14kmの山形市の鬼門にあたる宝珠山の山腹に位置しています。第56代清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が貞観2年(860)に開山しました。
立石寺は、開山後すぐに380町の寺領を免租地として下賜され、慶長・元和(1596~1624)期は2420石の寺領に及ぶなど朝廷の手厚い保護を受けました。徳川3代将軍家光の時は1400石の寺領を得て僧坊も36を数えました。
「奥の細道」で、芭蕉が立石寺を訪れ
「閑(しづ)かさや岩にしみ入る蝉の声」
の句を詠んだことでも知られています。
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山寺の別称をもつ立石寺(りっしゃくじ)は、正式には宝珠山阿所川院( ほうじゅさんあそかわいん)立石寺といい、山形市の北東14kmの山形市の鬼門にあたる宝珠山の山腹に位置しています。第56代清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が貞観2年(860)に開山しました。
立石寺は、開山後すぐに380町の寺領を免租地として下賜され、慶長・元和(1596~1624)期は2420石の寺領に及ぶなど朝廷の手厚い保護を受けました。徳川3代将軍家光の時は1400石の寺領を得て僧坊も36を数えました。
「奥の細道」で、芭蕉が立石寺を訪れ
「閑(しづ)かさや岩にしみ入る蝉の声」
の句を詠んだことでも知られています。
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山形県山形市薬師町にある国分寺薬師堂です。
見ヶ崎川の近くの薬師町に国分寺薬師堂はあります。広い境内にはケヤキの大木が茂っています。奈良時代、聖武天皇の名をうけた僧行基が、ここに来て自ら薬師瑠璃光如来の像を彫ったそうです。そしてその像を祀って建立した寺院であるといわれています。
毎年5月8日の薬師祭りから3日間東北一の植木市が開かれます。江戸時代から続いていて、全国3大植木市の一つに数えられています。東北、関東方面からも大勢の人が集まり大変な賑わいを見せているそうです。
植木市は、山形城主最上義光が大火にあって緑樹が少なくなった町内のため付近の農民に植木市を開かせたのが始まりと伝えられています。
明治44年(1911)5月8日の大火によって金堂は類焼したそうです。そのため、真言宗宝幢寺本堂を移築して金堂にしたそうです。県議会の議事堂ができる前、この金堂で第一回目の県会が開催されたそうです。
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見ヶ崎川の近くの薬師町に国分寺薬師堂はあります。広い境内にはケヤキの大木が茂っています。奈良時代、聖武天皇の名をうけた僧行基が、ここに来て自ら薬師瑠璃光如来の像を彫ったそうです。そしてその像を祀って建立した寺院であるといわれています。
毎年5月8日の薬師祭りから3日間東北一の植木市が開かれます。江戸時代から続いていて、全国3大植木市の一つに数えられています。東北、関東方面からも大勢の人が集まり大変な賑わいを見せているそうです。
植木市は、山形城主最上義光が大火にあって緑樹が少なくなった町内のため付近の農民に植木市を開かせたのが始まりと伝えられています。
明治44年(1911)5月8日の大火によって金堂は類焼したそうです。そのため、真言宗宝幢寺本堂を移築して金堂にしたそうです。県議会の議事堂ができる前、この金堂で第一回目の県会が開催されたそうです。
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山形県山形市旅篭町にある山形県郷土館(文翔館)です。
山形県郷土館「文翔館」は山形県の旧県庁舎及び旧県会議事堂です。煉瓦造りの重厚なイギリス・ルネサンス様式を基調にした設計で、大正5年(1916)に建てられました。昭和59年(1984)に国の重要文化財に指定されました。
山形県郷土館は昭和61年(1986)から修理工事を始め、10年の歳月をかけて平成7年(1995)9月に完成しました。漆喰飾天井やシャンデリア、壁紙、絨毯、カーテンなどのモダンな意匠は当時のままに復原されています。
旧知事室なども大正時代の家具までも復元されていて、その時代の雰囲気を味わえます。県の発展を伝える資料館としてだけではなく、音楽会や様々な展示なども使われています。
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山形県郷土館「文翔館」は山形県の旧県庁舎及び旧県会議事堂です。煉瓦造りの重厚なイギリス・ルネサンス様式を基調にした設計で、大正5年(1916)に建てられました。昭和59年(1984)に国の重要文化財に指定されました。
山形県郷土館は昭和61年(1986)から修理工事を始め、10年の歳月をかけて平成7年(1995)9月に完成しました。漆喰飾天井やシャンデリア、壁紙、絨毯、カーテンなどのモダンな意匠は当時のままに復原されています。
旧知事室なども大正時代の家具までも復元されていて、その時代の雰囲気を味わえます。県の発展を伝える資料館としてだけではなく、音楽会や様々な展示なども使われています。
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山形県山形市霞城町の霞城公園内にある山形市郷土館(旧済生館本館)です。
この変型八角形の三層楼の旧済生館は国内においても優れた洋風建築物として国の重要文化財の指定を受けています。明治11年(1878)9月に竣工した擬洋風の病院建築物で県立病院として出発しました。
明治21年(1888)に民営移管となり、更に明治37年(1904)には市営病院の本館として使用されました。済生館と命名したのは時の太政大臣三条実美だったそうです。
創建当時はオーストリア人医師のローレツが近代医学教育の教鞭をとったことで知られています。昭和46年(1971)に「山形市郷土館」としてオープンしました。旧済生館をしのぶ郷土の医学と医療関係資料、郷土史料を展示しています。
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この変型八角形の三層楼の旧済生館は国内においても優れた洋風建築物として国の重要文化財の指定を受けています。明治11年(1878)9月に竣工した擬洋風の病院建築物で県立病院として出発しました。
明治21年(1888)に民営移管となり、更に明治37年(1904)には市営病院の本館として使用されました。済生館と命名したのは時の太政大臣三条実美だったそうです。
創建当時はオーストリア人医師のローレツが近代医学教育の教鞭をとったことで知られています。昭和46年(1971)に「山形市郷土館」としてオープンしました。旧済生館をしのぶ郷土の医学と医療関係資料、郷土史料を展示しています。
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