8時半、起床。冷たい雨が降っている。電線にカラスが一羽とまっている。黒いレインコートを着た監視員が街を見下ろしているようである。ポトフ、トースト、牛乳の朝食。授業の準備をしてお昼に家を出る。この冬はじめてコートを着る。
地下鉄の中で私が担当している基礎演習のクラスのOさんに声をかけられる。「みんな、レポートは提出しましたか」と聞かれたので、「提出が遅れたのが2人いたけれど、ともかく全員が提出したよ」と答える。「ところであなたは進級する論系はもう決めたの」と尋ねると、「社会構築論系か現代人間論系かでで迷っているのです」とのこと。テーマで選ぶなら社会構築論系で、先生で選ぶなら現代人間論系なのだという。ほぅ、そういう尺度があるんだ。「先生で選ぶなら現代人間論系」、これ、わが論系のキャッチフレーズになるだろうか。次回の教室会議の議題にしよう。
3限は大学院の演習。4限は教員ロビーで雑用を片付けてから、「メルシー」に遅い昼食を食べに行く。道端の吹き溜まりの落葉が冷たい雨に濡れている。チャーシューメンを注文。寒い日は温かいスープが何よりだ。
5限の卒論指導は今日が最終回。始まる前の休み時間にメールをチェックしたら、Fさんからメールが来ていて、「指導していただけるほどのものが用意できなかったので、今回はお休みさせてください」と書いてあった。な、なんですと。次回はないのだぞ。今日休むということはゴール直前でのリタイアの可能性がある。すぐにFさんのケータイに電話をして、彼女が出たので、「いまどこにいるの?」「大学です」「なら出てきなさい」と呼び出す。一方、最近3回連続で欠席して、これは提出を断念したのかと思われていたH君が姿を見せた。K君も少々遅刻して現われた。これで3人全員がそろった。最初にH君の草稿をみせてもらう。気になった点をいくつか質問したところ、不十分な回答しか返ってこないので、それではダメだと叱る。それを傍らで聞いていたK君は胃が痛くなり、Fさんは頭が痛くなった。最後はハッパをかけて送り出す。スロープで「卒論、頑張るぞ、オー!」とか叫んでごらん。
6限は演習「ケーススタディの方法」。研究室を出るときに、やはりこれから授業に向う長谷先生と一緒になる。長谷先生は後期は週に4コマ6限の授業があるのだという。それは、それは。どおりでよく「秀永」で一緒になるはずだ。お気に入りのメニューは何ですかと尋ねたら、回鍋肉(ホイコーロー)とのことだった。6限の授業を終えて、雑用を片付けてから「秀永」に行くと、長谷先生の姿はなかった。しかし、私の目にはカウンターでひとり回鍋肉を食べる長谷先生の残像が見えたのである。「お疲れ様」と私は彼に声をかけ、油淋鶏を注文した。
地下鉄に乗る前に敬文堂に寄って、以下の本を購入。久しぶりにのクセジュ文庫だ。
アンリ・アルヴォン『アナーキズム』(白水社)
ピエール・ファーブル、モニク・ファーブル『マルクス以後のマルクス主義』(白水社)
「国家を支配する側、マルクス主義の側のいずれからも一様にタブー視されてきたアナーキズムが、はからずもふたたび世界の舞台に登場しようとしている。国際的な新左翼運動がアナーキズムにふかい関心を払っていることは、すでにくりかえし指摘されているところである。またアナーキズムへの一般的関心が高まりつつあるのは、皮肉なことに、主としていわゆる先進資本主義諸国である。その良し悪しはべつとして、いったいこれは何を意味するのであろうか? 工業化と都市化をともなったすべてのすべての現代社会では、管理化、組織化が個人の生活のあらゆる側面で進行し、官僚制度の肥大と国家権力の強大化は、資本主義諸国あるいは社会主義諸国の別を問わすにすすんでいる。そのなかで個人は政治的無関心、アノミー化、アトム化、さらには欲望の慢性的飢餓状態におし込められ、そうでなくてもすぐれて政治的な「公害」現象が、現代人の生の自由すらも侵そうとしている。このような終末的状況のなかで、人間の本質的存在を考えなおそうとする動きが出てくるのは当然であろう。アナーキズムへの関心の復活は、この動きとけっして無関係ではない。」(4頁)。
誤解する向きがあるかもしれないので書いておくが、『アナーキズム』の「訳者まえがき」の中で、左近毅がこう記したのは、1972年のことである。