フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月12日(木) 晴れ (観劇篇)

2020-03-14 12:47:46 | Weblog

(承前)

午後1時40分に三鷹に到着。

南口を出て、中央通りを5分ほど行くと、「おもちゃのふぢや」が見えた。

会場の「SCOOL」はこのビルの5階にある。

小田尚稔脚本・演出の『是でいいのだ』という芝居がこれから始まる。2時間半近い長丁場だ。昨今の状況からはたして予定通り行われるのかわからなかったが、どうやら、同じ会場で、中止や延期になる芝居もあれば、このように予定通り実行される芝居もあるようである。会場側としては一律に中止という要請はせず、判断は各団体に任せたのであろう。受付にはアルコール消毒液やマスクが準備されていた。地下ではなく、ビルの5階ということで、換気はよかった(少し足元が寒かったが)。客席は八割方埋まっていた。本来は満席で、来るのを自粛した客が2割ほどいたということかもしれない。やる側も観る側も一種の決意をもってここにいるわけである。

『是でいいのだ』というタイトルから、赤塚不二男の「バカボンののパパ」を連想する人もいるかもしれないが、公演のチラシに「Es ist gut」とドイツ語で書いていることからわかるように、これは哲学者カントの最後の言葉として伝承されている言葉である。人生の最後にあたってこれまでの人生を全肯定した偉大な哲学者の言葉として解釈され、流布している。

『是でいいのだ』は2011年3月11日の東日本大震災前後の日々を語る5人の男女が登場する。就活が上手くいっていない女子学生、引きこもり気味の男子学生、夫から郵送されてきた離婚届に記入しようとしている女性、携帯電話の調子が悪くてドコモショップに行こうとしているがその風貌からいつも外国人に間違われる八戸出身のサラリーマン、教員免許を取りながら教員採用試験を受けなかったことを後悔し今の仕事を辞めようかと悩んでいる若いOL。カントのように立派な人物は一人もいない。どこにでもいる普通の人たち、いや、彼らの自己肯定感は一般的な水準よりも低いかもしれない。その彼らが、唐突とも思えるタイミングで、一冊の本を手に取ってその一部を読みあげる瞬間がある。

「君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない」。カントの『道徳哲学の基礎づけ』の中の一節だ。ただし、劇中では『道徳哲学の基礎づけ』からの直接引用ではなく、心理学者フランクルが『それでも人生にイエスという』という本の冒頭でカントの「道徳法則」を引用しているのを孫引きする形で紹介される。フランクルはホロコーストを生き延びた人で、「どんな環境であろうともそれを受け入れて肯定すること」をその本の中で述べている。つまりここで小田は登場人物の語りを通して、自身の作品のテーマについて明確に述べているわけである。これは下手をすると道徳的な(あるいは自己啓発的な)プロパガンダ作品になりかねない方法だが、『是でいいのだ』がそうならないのは、登場人物たちのたどりつく場所が、大きな希望や確固たる自己肯定感ではなく、小さな希望やささやかな自己肯定感、いや、それさえもあるかどうかわからない相変わらずの日常であるからだ。

作品の思想の話はひとまずおいて、芝居の技法で印象に残ったのは、登場人物たちの台詞のほとんどがモノローグ(ひとり語り)であることだ。ダイアローグ(登場人物同士の対話)も一部あるのだが、なんといってもモノローグがきわだっている。モノローグ自体は芝居では決して珍しいものではないが、この芝居の(あるいは小田の他の作品でもそうなのかもしれない)モノローグは独特のモノローグなのである。一人称で書かれた小説を主人公が朗読、いや、暗唱しているようなモノローグといえばニュアンスが伝わるだろうか。

たとえば、最初に登場する就活中の女子学生のモノローグ。

「三月のあの日、東南口のマクドナルドにいた。新宿駅の東南口、改札を抜けて徒歩数分。中央通り沿い、当時はそこにあったマクドナルド。今はもう閉店していて、別の店舗が入っている。その三階、ちょうどそのときは窓際に座っていた。この時期で内定が決まっていないなんて、とか思いながら。まわりの学生はもうとっくに就職先を決めていて、卒業式を目前に控えたこの時期、ひとり就職先がまだ決まらない私の心中は穏やかではない。」

独特のモノローグのその独特さはどこから来るのかといえば、1つには時制の錯綜だ。「三月のあの日、東南口のマクドナルドにいた」と過去形(回想)で始まった語りは、「ひとり就職先がまだきまらない私の心中は穏やかではない」といつの間にか現在形になっている。つまり、(回想している)「現在の私」と(回想される)「あの日の私」が錯綜している。役者は二人の「私」を同時に演じている。「私」の語り(モノローグ)が生き生きとしていながら同時にクールであるのはそのためだ。

しかし、そのためだけではない。

もう一つ例を挙げよう。夫から郵送されてきた離婚届に記入する女性のモノローグ。

「夫から送られてきたこの書類を書き終ると、もう二時だった。PM。友達の家では、気が散って集中? が出来ないから、とりあえず、友達の家のある埼玉の方から新宿まで来たところ。この日は、朝から快晴で空は青々として暖かくて穏やかで、春の陽気って言葉がぴったりな日でもあった。駅前を少しぶらつき、どこかの喫茶店かなにかで、これを書こうと思っていたんだけれど、いい感じ? の喫茶店も無いし、この辺の土地勘も無いしってことで、結局、東口の改札から少し歩いたところにあるマクドナルドに落ち着く。珈琲とアップルパイを注文して、三階のテーブルに座る。」

場所は就活中の女子学生がいる(いた)のと同じ新宿東南口のマクドナルドのようだ。ただし、女性の語りは回想ではなくく現在進行形だ(過去形で語られるのは今日の午前中から現在までのことだ)。だからこのモノローグに生き生きとしてかつクールな雰囲気をかもしだしているのは、時制の錯綜とは別の何かだ。それは引用したモノローグの中に2度出てくる「?」だ。「集中?」と「いい感じ?」。これは若者の話し言葉ではお馴染みの「半疑問」というやつである。舞台上の台詞ではその言葉の直後にちょっとした間を空けて、体言止めみたいな言い回しになっている。あえてそれを書き下せば、「集中、というほどのものではないかもしれないけれど、それが出来ないから」とか、「いい感じ、それって具体的にどんな感じなのって聞かれるとうまく言えないけど、そういう喫茶店もないし」とでもなるだろうか。つまり自分のチョイスした言葉を吟味しながら、相手に上手く意味が伝わっているか自問自答しながら、語りを進めているのである。そういう自己モニタリング的なクールさがあるのだ。ただし、実際の若者たちの語りは、噛んだり、「あの~」とか「えっと」とかの夾雑物が混入するが、舞台の上の若者たちは推敲された文章を読みあげるようにスラスラと語る。その淀みなさが非現実的な、あるいは演劇的な印象を与えるのである。

ちょっと注釈をいれておくと、私は役者の台詞を記憶して書いているのではない。そんな凄い記憶力はない。会場で物販されていた『悲劇喜劇』2020年3月号(早川書房)という雑誌に載っていた『是でいいのだ』のノベライズ原稿を手元において書いているのである。

若いOL役で出演したサワチさん(論系ゼミ7期生)は、先月の河西祐介作・演出の『人間賛歌』に続いての舞台だが、役者の口を通してストレートに思想が表現されているかいなかの違いはあるが、二つの芝居の思想は同根であるといえるだろう。これはたまたまのことなのか。それともサワチさんがそういう作品に惹かれてオーデンションを受けた結果なのか。「たまたまです」と彼女なら答えそうな気がするが、でも、無意識のうちに出演したい作品を選んでいるような気がする。

彼女が演じる若いOLが舞台に登場するのは開始から45分が経過したあたり。私はもしかして彼女が体調を崩して急遽降板した(本来、就活中の女子学生をやるはずだった)のではないかと思い始めたあたりでの登場である。彼女の登場シーンは何か所かあったが、他の登場人物と違って、にこやかな表情でのモノローグが続いた。語られている内容(回想)は決して楽しいものではないのに。

「国分寺で過ごした日々は、三月のあの日よりも少し前、それは一年と半年くらいの期間だった。国分寺には住んだんだけれど、殊更楽しいことなど無い、至って質素で地味な生活でもあった。かつて大田出版から発行されていた雑誌? 時折出ていたサブカル本。『楽しい中央線』のようなことはひとつも無くて、職場と家の往復しかないような毎日。」

なぜ彼女はこのような内容をにこやかに語るのか、と最初はいぶかしかった。カメラを向けられた人が反射的にしてしまう「チーズ的笑顔」? みたいで。しかし、それは回想の語りだからだろうと途中で気づいた。楽しいことなどなかった日々をつまらなそうに語ることは聞き手への気遣い? が足りないと彼女は考えているのかもしれない。せめて軽めに語ろうと。同時に、そういう配慮ができる自分というものを彼女はアピール? しているのかもしれない。その彼女も、現在の日々を語る時は、表情から笑顔が消える。

「帰ってきて、一息つく。机の上をみると、この前取り寄せた教員採用試験の為の書類や、夏の試験を見越して勇んで買い込んだその手の参考書が山積みだった。今からこれをなんとかしないといけないと思うと、少し気が遠くなる。これでよかったのかな・・・。自分の下した選択が本当によかったものなのか、またわからなくなり、急に不安な気持ちにもなって、胸がしめ付けられそうになる。辞めるとは言わずに、仕事続けながら勉強するとかでもよかったかな。」

このままでいいのかと自問し、何かを決断して、しかし、少しすると、これでよかったのかと再び自問する。絶え間なく続く自己モニタリングのなめらかな語り!

そして彼女がとりあえずたどりつく場所には小さな花が咲いている。

「ふと部屋の隅をみると、鉢に入ったあのサボテンに、小さな花が咲いていた。ちょっと痛々しいような感じだけど、それは懸命に、健気な様子で咲いている。夏まで、夏の試験が終わるまで、とりあえず頑張ってみよう。生活とか、ちょっと心配だけど・・・。「まずは何事も食べること」キッチンで言われたあの言葉が、このとき不意に頭をよぎった」

このとき財津和夫の歌う『サボテンの花』が私の頭の中で聞こえていた。

 この長い冬が終わるまでに

 何かをみつけて生きよう

 何かを信じて生きていこう

 この冬が終わるまで

終演後、サワチさんと少し話をした。いずれカフェでゆっくり話をしましょう。

『是でいいのだ』は今回が4度目の公演。毎回、この時期にやっているようだ。千秋楽は15日(日)。昼の部(14時から)と夜の部(19時から)の2回公演。予約をして取りやめる客もいるだろうから、当日券もいくらかはあるのではないかしら。

会場を出たのは午後4時半を回った頃。

三鷹駅南口から見えるあの山はどこの山かしら。

(「無観客配信リーディング篇」に続く)