前回記事の続編です。
●金城老街
古崗から乗り込んだ6番の路線バスは、スカイブルーのジャージを着た下校中の中学生で満員。みんなバスのドライバーさんと顔なじみのようで、各集落で止まっては、二言三言お喋りを交わしてから下車してゆきます。
20分弱で金城バスターミナルに到着です。ターミナル前のロータリーには蒋介石の銅像が立っていました。この記事を書きながら改めて銅像の画像をじっくり見てみたら、立像下の台座には「民族救星」、その周りの赤い立て札には「島城隍」の4文字が躍っていることに気づいたのですが、つまり蒋介石は中華民族にとって崇拝すべき救いの神であり、そして島(金門島の旧称)にとっての城隍神(都市の守護神)なのである、と銅像を立てた人たちは訴えたかったんですね。「台湾正名政策」が進められて以降、中正空港が桃園空港と改称されたように、台湾島では蒋介石(中正)の存在感が徐々に薄れていますが、この島ではそんなことはどこ吹く風。いまでも蒋介石は英雄視されているようです。何気なく撮った画像に、えらくイデオロギー性が強くて時代錯誤なメッセージが写っていたことに驚いてしまいました。やっぱりこの島は国民党にとって死守すべき牙城なんだなぁ。
県政府の所在地であり、島で最大の街でもありますから、車も人通りも多く、街としてそれなりの活気や盛り上がりが感じられるのですが、街としての規模は、関東や関西で急行か準急が止まるようなクラスの私鉄駅周辺と大して変わらないか、それより田舎臭いかもしれません。
上画像はバスターミナル前の街並みです。台湾の街並みには多少なりとも日本の面影や影響があり、我々日本人旅行者としてはそこに郷愁を感じたりするものですが、戦前に日本の統治下になかった金門島は(戦時中は日本軍に占領されましたけど)そんな日本臭が微塵も無く、台湾施政下でありながら、台湾とは明らかに違う雰囲気に強い異国情緒を覚えました。
バスターミナルの西側に広がる金城の老街(むかしからの街並み)は、まるで中国映画の世界に紛れ込んだかのような佇まいなのですが、とりわけ目を惹くのが「模範街」と称する通りです。長さこそ75メートルしかないものの、赤レンガで統一された街区は息を呑む美しさであり、通りに面した左右に連続する回廊状のアーチと、バロック建築を思わせる2階部分のバルコニーが非常に印象的です。
通りの入口に掲示されていた説明によれば、1925年に金門商会会長の伝錫という人物が、金門で影響力の強かった華僑から資金を集め、東南アジアのコロニアル様式を模したファサードの街区を作り、以前からの街区名を変更して「模範街」と名付けたんだそうです。
模範街の周りには庶民的な低層住宅の老街が広がり、迷路のように複雑に入り組んだ狭い路地を入ってゆくと、いきなり視界がひらけて露天商のお店や井戸の広場などが現れました。角を曲がる度にフォトジェニックな光景と出会えるので、しばらくは敢えて狭い路地に入って辺りを彷徨い続けました。
こちらは「模範街」の先から北東へ伸びる莒光路の商店街。いまにも崩れそうな陋屋や小規模店舗が隙間なく並んでいるのですが、そんな間に古いお寺があって、周囲の飲食店から漂う炒めものの匂いと一緒に、お線香の香りも混ざって香ってきました。
大陸との緊張はかなり緩和されているとはいえ、対立が完全に解消されたわけではなく、お互いに軍事演習等を行ったりして牽制しあっていますから、今でも島は台湾を防衛する重要な軍事拠点です。時の流れが止まっているかのようなくすんだ色合いに支配された古い商店街を散策していると、迷彩服を纏った兵隊さん達と何度も行き違いました。休息の時間だったのかな。
金門島は数次にわたって大陸から砲撃を受けており、とりわけ1958年の金門砲撃戦では47万発もの砲弾が雨のように「降って」きたそうですが、さすが中華圏の人間は商魂逞しく、転んでもただでは起きません。無数に残った砲弾を集めて、その鉄で包丁をつくり、よく切れるとして今や金門の名物として名を轟かせているんだとか。上画像はそのお店で、店頭には砲弾のイミテーションが置かれていました。
でも子供の頃から屁理屈を捏ねて大人たちに煙たがられていた私としては、お店を目の前にしてちょっとした疑問が頭をもたげてきました。というのも、金門砲撃戦が行われた頃の中国大陸ってマトモな鋼鉄を生産できていたのかな。58年の砲撃戦直後に大陸では大躍進運動がはじまり、悪名高き土法炉から使いものにならない粗悪なクズ鉄が生産されたわけですが、58年以降も砲撃は行われたわけで、その当時の劣悪な鉄の弾が金門島へ飛んできたとして、そんなダメダメな砲弾を材料にして包丁つくっても、ベコベコになったり刃がボロボロになったりして、使いものにならないんじゃないのかな。そもそも鉄に焼きを入れても、包丁として必要な硬度は得られないんじゃないのかな…。ま、素人の余計な詮索はやめておきましょう。
●中華民国の福建省政府
現代日本人の知識として、現在の台湾=台湾省=中華民国という図式ができあがっており、民進党の陳水扁が総統になる以前は中華民国=国民党でもありました。しかしこの金門島は中華民国の施政下ですが、台湾省ではなく福建省に属しており(それゆえ戦前は日本統治下ではなかったんですね)、なんと金城には中華民国の福建省政府があるんです。つまり国民党は大陸から撤退した後でも、2つの省を支配していたことになります。見方を変えれば、福建省は大部分を共産党が、わずかな島嶼を中華民国が、それぞれ分割して統治しているわけです。そこで、かならずしも中華民国=台湾ではない事実を自分の目で確かめたく、金城の街外れにある中華民国の福建省政府を見学しに行くことにしました。
金城老街の西側をぐるっと囲む民族路を歩いていると、街路灯の支柱に「福建省政府」の場所を示すささやかな標識が貼り付けられていました。街の景色を眺めていたら見逃しちゃうほど小さなものです。この標識に従って、金城国民中学の角を曲がり海岸の方へ向かうと・・・
「福建省政府」と記された大きなゲートが立っていました。中華民国88年(1999年)元月穀旦(1月吉日という意味)という日付とともに、当時の総統であった李登輝の名前が併記されています。このゲートを潜った先には・・・
ひと気の無ければ緊張感も無い寂しい広場にS字型のメタリックなモニュメントが置かれ、その奥に3階建ての地味なビルが建っていました。病院のようでもあり、地方裁判所のようでもあり、はたまた警察署のようでもあり、とにかく精彩に欠くのっぺりとしたファサードですが、これこそ福建省政府の庁舎であります。
車寄せの庇にはゲートと同じく「福建省政府」の5文字とともに、「李登輝 中華民国88年元月穀旦」の文言が記されており、真正面の屋上では青天白日旗が潮風に翻り、その真下には「閩」の字を8つの黄緑色の円が囲むエンブレムが掲げられていました。北京は「京」、上海は「滬」、山東省は「魯」、広東省は「粤」といったように、中国では代表的な地名を一文字で表しますが、福建省を示す一文字は「閩」ですから、まさにこのエンブレムこそ中華民国福建省の省章なんですね。
前回記事でも触れたように台湾へ退却した後の国民党は「毋忘在莒」のスピリッツで、台湾や金門島などを戦国時代の斉の莒になぞらえながら「光復大陸」を本気で目指しており、俺達中華民国こそ中国全土を統治すべき正統政権なんだ、共産匪賊に奪われた大陸をいずれは奪回してやるんだ、と外省人は鼻息を荒くして臥薪嘗胆の日々を送っておりました。ついでに言えば、国民党にとっての中国の正式な首都は南京であり、北京は「京」じゃないということで、かつての国民党は北京を「北平」と称しておりました。その名残なのか、いまでも台湾各地には「北平路」という街路がありますよね。
しかし、時代はめまぐるしく変遷してゆき、今まで後ろ盾だったアメリカが中国共産党政権と国交を結ぶようになると、いよいよ形勢不利となって「光復大陸」は実質的に夢物語となり、蒋介石ジュニアの蒋経国が糖尿病をこじらせてあの世へ逝って、副総統だった本省人の李登輝がピンチヒッターとして総統に就任した頃から、「反攻大陸なんて言わず、民主化を図ってもっと台湾本位の現実的な政治体制にしましょうよ」ということで、民主化を推進したり、万年議員を排除したりと、改革が次々に進められてゆきました。こうした流れの中で行政のスリム化が図られ、その一貫として1998年には「虚省化」が実施され、中華民国において台湾省や福建省といった「省」は有名無実化(事実上廃止)されて、地方行政機関としての機能は失われて形式的な存在になっていきました。
前置きが無駄に長くなりましたが、つまりこの福建省政府は早い話が、今では有っても無くてもどっちでも良いようなバーチャル的な存在であり、それゆえ省政府なのに地味で質素で主張が控えめで、ひと気も無ければ物々しい警備も無いわけです。ただ完全に消してしまうと、まだまだ大陸に強い執念を抱く国民党の保守派外省人がうるさいのでしょうから、省政府の機能凍結と同じタイミングで、形式的とはいえ、敢えてこのような象徴的存在を残したのでしょう。下衆の邪推にすぎませんが、この庁舎をわざわざ対岸の廈門(アモイ)を臨む街はずれの海岸沿いに建てたのは、共産党への対抗意識ではなく、一応建前としての「反攻大陸」を意思表示するための、国民党内部に対するエクスキューズなのかもしれません。
あくまで余所者の私が勝手に抱いた感傷なのですが、ゲートや玄関に記された民国88年(1999年)という年号や「李登輝」の名前からは、自分の理想とする政策を進めて台湾と本省人のことを大事にしながら、総統として国民党保守派の気持ちも尊重しなきゃいけない、現実を直視しながら建前も守り、あっちを立ててこっちも立てて…という当時の李登輝が払った涙ぐましい苦心の跡が感じ取れました。当時の李登輝さんは、金門砲撃戦の砲弾にも匹敵するぐらい身内や他所から攻撃を受けて、胃が穴だらけだったのではないでしょうか。
そんな無知蒙昧な妄想を勝手に抱きながら私が画像を撮っていると、中から役人らしい人が数名退出してご帰宅の様子。その後ガードマンさんが正面玄関のシャッターをガラガラと閉めていきました。役所として大した機能は有していないものの、一応勤めている職員はいらっしゃるようです。北京の方では「一つの中国」論を正当化するため、全人代に「台湾省代表」の席を設けていますけど、同じ形式的なものとはいえ、北京みたいな完全に空虚なものではなく、こちら側はちゃんと省の統治領域があり、職員が勤務する庁舎まであるんですから、はるかに現実的じゃないですか。ウェブ上には省の公式サイトまであるんですよ。
福建省政府の目の前に「雄獅堡」と称する小さな砦を発見。島内にいくつもある要塞の一つなのでしょう。名前こそ勇ましいのですが、内部は小さな公園として開放されており、公衆トイレがあったので、用を足すついでに園内へ入ってみることにしました。
砦は海岸に面しており、海に向かって対戦車砲が設置(展示)されていました。火砲の下の砂浜に並べられている長いトゲトゲは、敵の揚陸艇の上陸を防ぐためのバリケードみたいなものです。
兵隊になったつもりで防盾の覗き窓から砲身の先を眺めてみたら、沖に浮かぶ小金門島の先の対岸に、大陸側である廈門(アモイ)の高層ビル群がズラーっと並んでいるではありませんか。この時は小雨が降っていたので視界が悪く、デジカメの画像ではわかりにくいので、画像に手を加えて高層ビル群を際立たせてみましたが、実際には視界が霞んでいても、はっきりと廈門の街並みが肉眼で見えるのです。こんな至近距離で国民党と共産党は敵対し合っていたのか…。戦時の緊張していた当時を想像したら、恐怖のあまり思わずその場で身震いしキ●タマが縮み上がってしまいました。
私が身震いした景色の位置関係を図示するとこんな感じになります。
街を散策しているうちに日が暮れ、雨脚が強くなってきたので、再び老街に迷い込んで、いかにも古そうな廟に隣接している小さな食堂に飛び込み、海鮮の鍋をいただくことにしました。島ですから魚介の幸は豊富なんですね。店内は地元民でほぼ満席状態。家族経営の店らしく、中高生と思しきジャージ姿の姉と弟が給仕に大活躍。お姉さんは学校で習った英語を懸命に思い出しながら私の注文を聞きとり、弟くんは柔和な表情で鍋をもってきてくれました。決して有名店ではなく派手さもありませんが、金門の庶民生活に触れられた印象深い繁盛店でした。
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●金城老街
古崗から乗り込んだ6番の路線バスは、スカイブルーのジャージを着た下校中の中学生で満員。みんなバスのドライバーさんと顔なじみのようで、各集落で止まっては、二言三言お喋りを交わしてから下車してゆきます。
20分弱で金城バスターミナルに到着です。ターミナル前のロータリーには蒋介石の銅像が立っていました。この記事を書きながら改めて銅像の画像をじっくり見てみたら、立像下の台座には「民族救星」、その周りの赤い立て札には「島城隍」の4文字が躍っていることに気づいたのですが、つまり蒋介石は中華民族にとって崇拝すべき救いの神であり、そして島(金門島の旧称)にとっての城隍神(都市の守護神)なのである、と銅像を立てた人たちは訴えたかったんですね。「台湾正名政策」が進められて以降、中正空港が桃園空港と改称されたように、台湾島では蒋介石(中正)の存在感が徐々に薄れていますが、この島ではそんなことはどこ吹く風。いまでも蒋介石は英雄視されているようです。何気なく撮った画像に、えらくイデオロギー性が強くて時代錯誤なメッセージが写っていたことに驚いてしまいました。やっぱりこの島は国民党にとって死守すべき牙城なんだなぁ。
県政府の所在地であり、島で最大の街でもありますから、車も人通りも多く、街としてそれなりの活気や盛り上がりが感じられるのですが、街としての規模は、関東や関西で急行か準急が止まるようなクラスの私鉄駅周辺と大して変わらないか、それより田舎臭いかもしれません。
上画像はバスターミナル前の街並みです。台湾の街並みには多少なりとも日本の面影や影響があり、我々日本人旅行者としてはそこに郷愁を感じたりするものですが、戦前に日本の統治下になかった金門島は(戦時中は日本軍に占領されましたけど)そんな日本臭が微塵も無く、台湾施政下でありながら、台湾とは明らかに違う雰囲気に強い異国情緒を覚えました。
バスターミナルの西側に広がる金城の老街(むかしからの街並み)は、まるで中国映画の世界に紛れ込んだかのような佇まいなのですが、とりわけ目を惹くのが「模範街」と称する通りです。長さこそ75メートルしかないものの、赤レンガで統一された街区は息を呑む美しさであり、通りに面した左右に連続する回廊状のアーチと、バロック建築を思わせる2階部分のバルコニーが非常に印象的です。
通りの入口に掲示されていた説明によれば、1925年に金門商会会長の伝錫という人物が、金門で影響力の強かった華僑から資金を集め、東南アジアのコロニアル様式を模したファサードの街区を作り、以前からの街区名を変更して「模範街」と名付けたんだそうです。
模範街の周りには庶民的な低層住宅の老街が広がり、迷路のように複雑に入り組んだ狭い路地を入ってゆくと、いきなり視界がひらけて露天商のお店や井戸の広場などが現れました。角を曲がる度にフォトジェニックな光景と出会えるので、しばらくは敢えて狭い路地に入って辺りを彷徨い続けました。
こちらは「模範街」の先から北東へ伸びる莒光路の商店街。いまにも崩れそうな陋屋や小規模店舗が隙間なく並んでいるのですが、そんな間に古いお寺があって、周囲の飲食店から漂う炒めものの匂いと一緒に、お線香の香りも混ざって香ってきました。
大陸との緊張はかなり緩和されているとはいえ、対立が完全に解消されたわけではなく、お互いに軍事演習等を行ったりして牽制しあっていますから、今でも島は台湾を防衛する重要な軍事拠点です。時の流れが止まっているかのようなくすんだ色合いに支配された古い商店街を散策していると、迷彩服を纏った兵隊さん達と何度も行き違いました。休息の時間だったのかな。
金門島は数次にわたって大陸から砲撃を受けており、とりわけ1958年の金門砲撃戦では47万発もの砲弾が雨のように「降って」きたそうですが、さすが中華圏の人間は商魂逞しく、転んでもただでは起きません。無数に残った砲弾を集めて、その鉄で包丁をつくり、よく切れるとして今や金門の名物として名を轟かせているんだとか。上画像はそのお店で、店頭には砲弾のイミテーションが置かれていました。
でも子供の頃から屁理屈を捏ねて大人たちに煙たがられていた私としては、お店を目の前にしてちょっとした疑問が頭をもたげてきました。というのも、金門砲撃戦が行われた頃の中国大陸ってマトモな鋼鉄を生産できていたのかな。58年の砲撃戦直後に大陸では大躍進運動がはじまり、悪名高き土法炉から使いものにならない粗悪なクズ鉄が生産されたわけですが、58年以降も砲撃は行われたわけで、その当時の劣悪な鉄の弾が金門島へ飛んできたとして、そんなダメダメな砲弾を材料にして包丁つくっても、ベコベコになったり刃がボロボロになったりして、使いものにならないんじゃないのかな。そもそも鉄に焼きを入れても、包丁として必要な硬度は得られないんじゃないのかな…。ま、素人の余計な詮索はやめておきましょう。
●中華民国の福建省政府
現代日本人の知識として、現在の台湾=台湾省=中華民国という図式ができあがっており、民進党の陳水扁が総統になる以前は中華民国=国民党でもありました。しかしこの金門島は中華民国の施政下ですが、台湾省ではなく福建省に属しており(それゆえ戦前は日本統治下ではなかったんですね)、なんと金城には中華民国の福建省政府があるんです。つまり国民党は大陸から撤退した後でも、2つの省を支配していたことになります。見方を変えれば、福建省は大部分を共産党が、わずかな島嶼を中華民国が、それぞれ分割して統治しているわけです。そこで、かならずしも中華民国=台湾ではない事実を自分の目で確かめたく、金城の街外れにある中華民国の福建省政府を見学しに行くことにしました。
金城老街の西側をぐるっと囲む民族路を歩いていると、街路灯の支柱に「福建省政府」の場所を示すささやかな標識が貼り付けられていました。街の景色を眺めていたら見逃しちゃうほど小さなものです。この標識に従って、金城国民中学の角を曲がり海岸の方へ向かうと・・・
「福建省政府」と記された大きなゲートが立っていました。中華民国88年(1999年)元月穀旦(1月吉日という意味)という日付とともに、当時の総統であった李登輝の名前が併記されています。このゲートを潜った先には・・・
ひと気の無ければ緊張感も無い寂しい広場にS字型のメタリックなモニュメントが置かれ、その奥に3階建ての地味なビルが建っていました。病院のようでもあり、地方裁判所のようでもあり、はたまた警察署のようでもあり、とにかく精彩に欠くのっぺりとしたファサードですが、これこそ福建省政府の庁舎であります。
車寄せの庇にはゲートと同じく「福建省政府」の5文字とともに、「李登輝 中華民国88年元月穀旦」の文言が記されており、真正面の屋上では青天白日旗が潮風に翻り、その真下には「閩」の字を8つの黄緑色の円が囲むエンブレムが掲げられていました。北京は「京」、上海は「滬」、山東省は「魯」、広東省は「粤」といったように、中国では代表的な地名を一文字で表しますが、福建省を示す一文字は「閩」ですから、まさにこのエンブレムこそ中華民国福建省の省章なんですね。
前回記事でも触れたように台湾へ退却した後の国民党は「毋忘在莒」のスピリッツで、台湾や金門島などを戦国時代の斉の莒になぞらえながら「光復大陸」を本気で目指しており、俺達中華民国こそ中国全土を統治すべき正統政権なんだ、共産匪賊に奪われた大陸をいずれは奪回してやるんだ、と外省人は鼻息を荒くして臥薪嘗胆の日々を送っておりました。ついでに言えば、国民党にとっての中国の正式な首都は南京であり、北京は「京」じゃないということで、かつての国民党は北京を「北平」と称しておりました。その名残なのか、いまでも台湾各地には「北平路」という街路がありますよね。
しかし、時代はめまぐるしく変遷してゆき、今まで後ろ盾だったアメリカが中国共産党政権と国交を結ぶようになると、いよいよ形勢不利となって「光復大陸」は実質的に夢物語となり、蒋介石ジュニアの蒋経国が糖尿病をこじらせてあの世へ逝って、副総統だった本省人の李登輝がピンチヒッターとして総統に就任した頃から、「反攻大陸なんて言わず、民主化を図ってもっと台湾本位の現実的な政治体制にしましょうよ」ということで、民主化を推進したり、万年議員を排除したりと、改革が次々に進められてゆきました。こうした流れの中で行政のスリム化が図られ、その一貫として1998年には「虚省化」が実施され、中華民国において台湾省や福建省といった「省」は有名無実化(事実上廃止)されて、地方行政機関としての機能は失われて形式的な存在になっていきました。
前置きが無駄に長くなりましたが、つまりこの福建省政府は早い話が、今では有っても無くてもどっちでも良いようなバーチャル的な存在であり、それゆえ省政府なのに地味で質素で主張が控えめで、ひと気も無ければ物々しい警備も無いわけです。ただ完全に消してしまうと、まだまだ大陸に強い執念を抱く国民党の保守派外省人がうるさいのでしょうから、省政府の機能凍結と同じタイミングで、形式的とはいえ、敢えてこのような象徴的存在を残したのでしょう。下衆の邪推にすぎませんが、この庁舎をわざわざ対岸の廈門(アモイ)を臨む街はずれの海岸沿いに建てたのは、共産党への対抗意識ではなく、一応建前としての「反攻大陸」を意思表示するための、国民党内部に対するエクスキューズなのかもしれません。
あくまで余所者の私が勝手に抱いた感傷なのですが、ゲートや玄関に記された民国88年(1999年)という年号や「李登輝」の名前からは、自分の理想とする政策を進めて台湾と本省人のことを大事にしながら、総統として国民党保守派の気持ちも尊重しなきゃいけない、現実を直視しながら建前も守り、あっちを立ててこっちも立てて…という当時の李登輝が払った涙ぐましい苦心の跡が感じ取れました。当時の李登輝さんは、金門砲撃戦の砲弾にも匹敵するぐらい身内や他所から攻撃を受けて、胃が穴だらけだったのではないでしょうか。
そんな無知蒙昧な妄想を勝手に抱きながら私が画像を撮っていると、中から役人らしい人が数名退出してご帰宅の様子。その後ガードマンさんが正面玄関のシャッターをガラガラと閉めていきました。役所として大した機能は有していないものの、一応勤めている職員はいらっしゃるようです。北京の方では「一つの中国」論を正当化するため、全人代に「台湾省代表」の席を設けていますけど、同じ形式的なものとはいえ、北京みたいな完全に空虚なものではなく、こちら側はちゃんと省の統治領域があり、職員が勤務する庁舎まであるんですから、はるかに現実的じゃないですか。ウェブ上には省の公式サイトまであるんですよ。
福建省政府の目の前に「雄獅堡」と称する小さな砦を発見。島内にいくつもある要塞の一つなのでしょう。名前こそ勇ましいのですが、内部は小さな公園として開放されており、公衆トイレがあったので、用を足すついでに園内へ入ってみることにしました。
砦は海岸に面しており、海に向かって対戦車砲が設置(展示)されていました。火砲の下の砂浜に並べられている長いトゲトゲは、敵の揚陸艇の上陸を防ぐためのバリケードみたいなものです。
兵隊になったつもりで防盾の覗き窓から砲身の先を眺めてみたら、沖に浮かぶ小金門島の先の対岸に、大陸側である廈門(アモイ)の高層ビル群がズラーっと並んでいるではありませんか。この時は小雨が降っていたので視界が悪く、デジカメの画像ではわかりにくいので、画像に手を加えて高層ビル群を際立たせてみましたが、実際には視界が霞んでいても、はっきりと廈門の街並みが肉眼で見えるのです。こんな至近距離で国民党と共産党は敵対し合っていたのか…。戦時の緊張していた当時を想像したら、恐怖のあまり思わずその場で身震いしキ●タマが縮み上がってしまいました。
私が身震いした景色の位置関係を図示するとこんな感じになります。
街を散策しているうちに日が暮れ、雨脚が強くなってきたので、再び老街に迷い込んで、いかにも古そうな廟に隣接している小さな食堂に飛び込み、海鮮の鍋をいただくことにしました。島ですから魚介の幸は豊富なんですね。店内は地元民でほぼ満席状態。家族経営の店らしく、中高生と思しきジャージ姿の姉と弟が給仕に大活躍。お姉さんは学校で習った英語を懸命に思い出しながら私の注文を聞きとり、弟くんは柔和な表情で鍋をもってきてくれました。決して有名店ではなく派手さもありませんが、金門の庶民生活に触れられた印象深い繁盛店でした。
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