パパと呼ばないで

再婚した時、パパと呼ばないでくれと懇願した夫(←おとうさんと呼んで欲しい)を、娘(27)「おやじ」と呼ぶ。良かったのか?

洟を垂らした神

2019年08月09日 | ボランティア
8月9日(金)晴れ

音訳ボランティアの活動の一つに、視覚障害者の方達が月一で開くサロンで朗読するというのがある。
会員が順番で担当し、来月はワタクシの番。
前回は直前に鼻声になり、言い訳しつつの朗読をした。
今回は体調万全で臨みたい。
で、恒例の朗読本探しに奔走しておるところ。
基本、気楽な面白いエッセイがいいかなとは思ってるのだが、少し前に、音訳の先生から教えていただいた「蜜柑」(芥川龍之介著)にえらく感動した。
ホントに、こういう純文学的なもので感動したのは久しぶりで、次に朗読する機会があったらこれにしようと思ったくらいだ。
しかし、これは冬の話である。
このクソ暑い時に聞く話じゃないよな〜
その流れでふと思い出したのが、高2の時の現国の教科書に載っていた「洟をたらした神」(吉野せい著)
多感な頃とはいえ、教科書なんてクソ(・・・そろそろ口を慎め)と思っていた頃である。
が、ワタクシ、この話だけはいたく感動した。
教科書に載ってくるくらいだから、みんな知ってる?と思ったが周りには知ってる人はいない。
吉野せいという明治生まれの女性は、小学校の教員をした後、詩人と結婚し、阿武隈山麓の開墾者として生きた。
厳しい自然、貧しい生活、弱くも逞しくもある人々の姿を、70歳を過ぎてから書き始めた。
表題となっている「洟をたらした神」は、彼女の息子のことを書いた話である。

6歳のノボルは、昼間は妹リカを背中にしょわされているから友達と遊べない。
姉のタヅに教わった♪ぎんぎんぎらぎらゆうひがしずむ♪を上手に歌う。
大声で歌うそれを聞くと母はたまらなくなって彼を大声で呼ぶ
背中から重いリカを下ろしたノボルは脱兎のごとく遊びに行く。
ノボルは何かを作ることが上手だ。
竹とんぼも、コマも自分で作った。
そんなノボルが、2銭のかねをせがんだ。
ヨーヨーが欲しいと。
ノボルがねだるのは初めてのことだったが、母は2銭で買えるものを思いつつノボルに
「小学校に入ったらアレもコレも買ってやる。ヨーヨーなんてつまんねえぞすぐ飽きるぞ」
ノボルはその日一日姿を見せず、母は色々不吉なことを思ったり、貧乏を思ったり、後悔や哀れな感情を持って過ごす。
そして、その夜。
薄暗い小屋の中に親子の歓声が上がる。
ノボルがヨーヨーを作り上げたからだ。
せまい小屋の中から満月の輝く戸外に飛び出したノボルは、
得意げに右手を次第に大きく反動させて、光の中で球は上下をしはじめた。
『それは軽妙な奇術まがいの遊びというより、厳粛な精魂の怖ろしいおどりであった』
 
ワタクシの拙いあらすじ説明では、良さが伝わらないと思うので是非読んでいただきたい。
高校生のワタクシは、ほほ〜っと思った。ノボルすげーなと思った。
今思うと軽いいじめか?と反省するのだが、おとなしい素朴な男子に「ノボル」とあだ名をつけた。
(後日、同窓会で会ったノボルが、警視庁だかにお勤めで、なんかエラソーになっててガッカリした)
しかし、今この歳になって読み返してみると、ノボルより母の気持ちの方に寄り添い過ぎて、泣けて泣けてしょうがない。
教科書は途中をはしょったりしてたこともあるが、全文読むと、貧乏を子供にしょわす親の辛さがもう切なくて切なくて。
コレは危険かもしれぬ。緊張しながら読むあまり、あるいは感情が入ってしまうかもしれぬ(基本音訳は感情を入れない)
面白すぎるのは笑って読めなくなりそうだし、感動モノは泣きそうになるし、どうすりゃいいのよって感じだ。
本探しはまだまだ続く。

今日の一枚は、我が家の神「イチ」
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