かねてより漢詩と古いタイプのブルースの詩には類似性がある、と感じていた。わたしは、比較文化学の研究者ではないので具体的な論証が出来るわけではない。が、異なる文化に共通点を見出せれば、相互理解の一助になることもあるだろう。「突飛なこじ付け」と思われるかもしれないが、無理を承知の上で書いておきたい。
漢詩と言うと、学校で教わったように、難関試験「科挙」に合格した文人エリートたちがたしなんだ教養のひとつで、それを型にはまった読み下し文にして理解しようとする人も多いかもしれない。が、その中には庶民生活を歌ったものも多く、漢字の知識さえあれば大まかな意味と脚韻の面白さを味わうことが出来る作品も多い。元々、漢詩も「楽府題(がふだい)」といって、歌の歌詞が源といわれる。白楽天(白居易)は、作った詩を自ら庶民の前で歌って聞かせ、意味が通じなければ書き直した、という言い伝えもあるらしい。日本の和歌なども、百人一首大会などでは節をつけて読み上げられている。基本、「詩」は「歌」なのだ。
たとえば「詩仙」と言われる李白の詩に、『山中対酌』というものがある。七言絶句、あるいは研究者によっては七言古詩。脚韻に注目。
両人対酌山花開 一杯一杯復一杯
我酔欲眠君且去 明朝有意抱琴来
(読み下し文の一例)
『両人対酌して山花開く 一杯一杯復(ま)た一杯
我酔いて眠らんと欲す 君且(しばら)く去れ 明朝意有らば琴を抱いて来たれ』
読み下し文では分かりづらいが、原文の太字にしたところが韻を踏んでいる。「平仄(ひょうそく)」というイントネーションのこともあるが、ここは日本語で、開(かいkai)、杯(はいhai)、来(らいrai)、と音で読めば音感がつかめる。ざっくばらんに、意訳してみると・・・
『裏山の花が咲いて昔馴染みと酒を酌み交わしている まあまあ一杯 と飲み続けていて切りがない
酔っちゃて眠くなった 君悪いが一旦帰ってくれないか 明日も来るなら琴を持って来て聞かせてくれや』
さて、ここでブルースの詩。ウィリアム・ハリスという人が1928年頃に録音した『kansas City Blues(カンザスシティーブルース)』からの抜き出し・・こちらも脚韻に注目。
I wish I was a catfish in the deep blue sea 青く深い海に住むナマズになりてえなあ
I'd have all these women just fishin' after me 泳ぎ回る娘たちを釣り上げてやるのに・・
(refrain) Then I'd move Kansascity・・・(彼女がカンザスに行っちまったから) 俺も行こうかカンザスへ・・
I wish I was jeybird flyin' in the air 空を飛ぶカケスになりてえもんだ
Build my nest some of these her brown hair あの娘の金髪の頭に俺の巣を作ってやる
(refrain) Then I'd move Kansascity・・・(彼女がカンザスに行っちまったから) 俺も行こうかカンザスへ・・
下線部が脚韻を踏んでいるところ。この様な古い英詩の形式に沿った詩はモダンブルースではほとんど見かけないが、古いブルースでは珍しくない。『kansas City Blues』では、特に下段の flyin' in the airとしている部分に注目したい。「in the sky」とするのが普通だろうが、そこをあえて in the airとして脚韻を踏んでいる。そこに、わたしは漢詩と共通するものを感じる。中国語も英語も語順が意味を決める言語ということで、言語学的に脚韻を踏みやすいという共通した特徴もあるようだ。
漢詩とブルース。脚韻の踏み方だけではなく、4連の漢詩「絶句」を8小節ブルース、8連の「律詩」を12あるいは16小節ブルース、と、スタンザ(詩の連)の形式に共通性を見い出すこともできる。
と、まあ、こういうことは演奏してみないと実感できないところ。逆に言えば、学校で読み方や意味を教わっても、作者の気持ちや情趣までは伝わって来ない。学校で得る知識に価値がない、ということではない。その知識を身に沁み込ませるためには、自ら一歩踏み出して、作品と向き合う必要がある、ということだ。
漢詩と言うと、学校で教わったように、難関試験「科挙」に合格した文人エリートたちがたしなんだ教養のひとつで、それを型にはまった読み下し文にして理解しようとする人も多いかもしれない。が、その中には庶民生活を歌ったものも多く、漢字の知識さえあれば大まかな意味と脚韻の面白さを味わうことが出来る作品も多い。元々、漢詩も「楽府題(がふだい)」といって、歌の歌詞が源といわれる。白楽天(白居易)は、作った詩を自ら庶民の前で歌って聞かせ、意味が通じなければ書き直した、という言い伝えもあるらしい。日本の和歌なども、百人一首大会などでは節をつけて読み上げられている。基本、「詩」は「歌」なのだ。
たとえば「詩仙」と言われる李白の詩に、『山中対酌』というものがある。七言絶句、あるいは研究者によっては七言古詩。脚韻に注目。
両人対酌山花開 一杯一杯復一杯
我酔欲眠君且去 明朝有意抱琴来
(読み下し文の一例)
『両人対酌して山花開く 一杯一杯復(ま)た一杯
我酔いて眠らんと欲す 君且(しばら)く去れ 明朝意有らば琴を抱いて来たれ』
読み下し文では分かりづらいが、原文の太字にしたところが韻を踏んでいる。「平仄(ひょうそく)」というイントネーションのこともあるが、ここは日本語で、開(かいkai)、杯(はいhai)、来(らいrai)、と音で読めば音感がつかめる。ざっくばらんに、意訳してみると・・・
『裏山の花が咲いて昔馴染みと酒を酌み交わしている まあまあ一杯 と飲み続けていて切りがない
酔っちゃて眠くなった 君悪いが一旦帰ってくれないか 明日も来るなら琴を持って来て聞かせてくれや』
さて、ここでブルースの詩。ウィリアム・ハリスという人が1928年頃に録音した『kansas City Blues(カンザスシティーブルース)』からの抜き出し・・こちらも脚韻に注目。
I wish I was a catfish in the deep blue sea 青く深い海に住むナマズになりてえなあ
I'd have all these women just fishin' after me 泳ぎ回る娘たちを釣り上げてやるのに・・
(refrain) Then I'd move Kansascity・・・(彼女がカンザスに行っちまったから) 俺も行こうかカンザスへ・・
I wish I was jeybird flyin' in the air 空を飛ぶカケスになりてえもんだ
Build my nest some of these her brown hair あの娘の金髪の頭に俺の巣を作ってやる
(refrain) Then I'd move Kansascity・・・(彼女がカンザスに行っちまったから) 俺も行こうかカンザスへ・・
下線部が脚韻を踏んでいるところ。この様な古い英詩の形式に沿った詩はモダンブルースではほとんど見かけないが、古いブルースでは珍しくない。『kansas City Blues』では、特に下段の flyin' in the airとしている部分に注目したい。「in the sky」とするのが普通だろうが、そこをあえて in the airとして脚韻を踏んでいる。そこに、わたしは漢詩と共通するものを感じる。中国語も英語も語順が意味を決める言語ということで、言語学的に脚韻を踏みやすいという共通した特徴もあるようだ。
漢詩とブルース。脚韻の踏み方だけではなく、4連の漢詩「絶句」を8小節ブルース、8連の「律詩」を12あるいは16小節ブルース、と、スタンザ(詩の連)の形式に共通性を見い出すこともできる。
と、まあ、こういうことは演奏してみないと実感できないところ。逆に言えば、学校で読み方や意味を教わっても、作者の気持ちや情趣までは伝わって来ない。学校で得る知識に価値がない、ということではない。その知識を身に沁み込ませるためには、自ら一歩踏み出して、作品と向き合う必要がある、ということだ。