文化逍遥。

良質な文化の紹介。

わたしのレコード棚―ブルース5、Blind Willie Johnson

2011年04月30日 | わたしのレコード棚
 「ミュージシャンズミュージシャン(musician's musician 音楽家の音楽家)」という言葉がある。一般的な音楽愛好家の間ではほとんど知られていないが、演奏者や作曲家の間ではよく聴かれ、参考にされ、尊敬されるミュージシャンという意味で使われる。ウィリー・ジョンソンも、そんなミュージシャンの一人と言えるかもしれない。ブルースファンの間では早くからその存在が知られていたが、以前はレコードを入手しにくい状態が続いていた。インターネットが普及する前に、わたしも都内のレコードショップを中心にけっこう探したものだが、結局オムニバス盤に収録された曲を聴けただけだった。その後、エリック・クラプトンやライ・クーダーといった有名ミュージシャンが高く評価したりして、下に紹介したYAZOOレーベルのCDが入手できるようになり、またコロンビア盤をソニーレコードが2枚組コンプリートCDとして発売し、国内でも入手しやすくなった。
 一般受けしない理由の一つに、テーマが重いことがあるだろう。「死」や「不条理」といった、人が負う様々な重く暗い側面を取り上げて演奏することにより、共感と励ましを共有しようと試みるので、どうしても暗く重い音になる。なので、音楽を聞いて楽しみたい人や、癒し、安らぎを得たい人には、不向きなテーマだろう。それでも人がいつかは直面する事である以上、誰かがやらねばならず、たとえそれでお金を稼ぐことが出来なくても続けなければならない。まるで、修行僧のようだが、ゴスペルの演奏家は、少なからずそういった面がある。それによって何が得られるのだろうか。ヒット曲を作り有名になり、金持ちになり、それでも薬物依存に陥り、若くして不幸な死に方をするミュージシャンも多い。それに比して、ベーシックカルチャー(土台文化)を担った人達の多くが得るものは、「尊敬と安心」だろうか。しかし、それは死後になって結果的に得ることが出来た人も多い。ウィリー・ジョンソンも、妻が語ったところによると、火事で焼け出された後に湿った寝具で眠ったために肺炎を起こし、受け入れてくれる病院が見つからずそのまま息を引き取ったという。リサーチャーのサミュエル・チャータースがジョンソンを探してアメリカ南部をさまよい、妻アンジェリーン・ジョンソンに巡り合うことが出来たのは、死後10年ほどたった1953年だった。

 さて、盲目(Blind)のゴスペルシンガー・ギターリスト、ウィリー・ジョンソンの生年は資料によってまちまちだ。20世紀前後に生まれたブルースマン達は、生まれた年がはっきりしない人が多い。その誤差の範囲は、多くても数年だ。しかし、ウィリー・ジョンソンの場合は、資料によっては10数年のひらきがありる。さらに、亡くなった年も資料により違いがある。これはジョンソンの「謎」のひとつと言える。
 まず、生年に関して挙げていくと。P-VINEの4枚組CD『The Story Of Pre-War Blues』解説は1890年で、最もはやい。チャータースがジョンソンの妻アンジェリーン(Angeline)から聞いた話として「1902年か1903年」とし、他の資料でも同じ頃にしているものが多い。没年に関しては、1945年説、1947年、1949年、などなど。つまり、その生涯も、計算により42歳から59歳と、かなりな誤差が出てしまう。
 比較的新しい資料と言えるジャス・オブレヒト著『9人のギタリスト(2016年リットーミュージック刊)』の中では、ジョンソンの死亡証明書の内容を書いている。それによると、1897年1月22日テキサス州インディペンデンスに生まれ、1945年9月21日同州ボーモントで死亡、とある。ただし、これとてもアンジェリーンの記憶により提出されたもので、チャータースが聞いた話とは内容が異なり、さらに証明書の署名はアンジェリーンではなくアンジリーナ(Angilina)となっているという。というわけで、各資料を参照して「1902頃テキサスで生まれ1947年頃同じテキサスで亡くなっている」と、わたしは推測している。ウィリー・ジョンソンは、40歳代半ばで、亡くなったのではないだろうか。

 もうひとつ、ウィリー・ジョンソンに関して大きな謎がある。それは、彼の妻に関することだ。残された録音の中で、何曲かに女性ヴォーカルが入っている。1929年12月10日ニューオリンズでの3回目と、1930年4月20日のアトランタでの5回目最後のセッションでのヴォーカルは、妻だったウィリー・B・ハリスであろうと言われている。この人は、1926年頃に結婚したジョンソンの最初の妻で、翌1927年には前出のアンジェリーンと結婚したらしい。チャータースのインタヴューで、アンジェリーンは録音に参加したことは無い、と言っていたという。なので、録音時にウィリー・B・ハリスはすでに妻ではなかったのか、あるいは多重婚だったのか。さらに付け加えておくと、4回目の1929年12月11日のセッションでセカンドヴォーカルをつとめた女性は不明だ。

 いずれにしろ、ジョンソンが残した1927年から1930年にかけての30曲の録音は、ジャンルを問わず「歴史的」なものであることは疑いない。前回のゲーリー・デイビスと歌詞が近い曲もあるが、メロディーやギター奏法は別のものである。伝えるべきことを演奏するわけだから、自分なりの音楽に変えてやりたいようにやればいいわけだ。


YAZOOのCD1058。こちらは、スライド奏法での曲を中心に編集されている。


同じく1078。この2枚で、ジョンソンの残した録音全てが聴ける。


サミュエル・チャータースがコロンビアレコードが残した資料の中で発見した、唯一のジョンソンの肖像写真。

 この人の音の深みは言葉に出来ない。特にオープンDチューニング(わたしは敬意をこめてウィリー・ジョンソン・チューニングと呼んでいる)でのスライドの曲はインパクトが強い。技術的にはさほど難しいものではないのでコピーしやすいのだが、いくらやっても音に深みがでない。恥ずかしながら、CD『原風景』の1曲目で「Dark was the night - Cold was the Ground」のフレーズを前奏部に少し借りたが、比較しないでね。

 というわけで、ウィリー・ジョンソンはスライド奏法のブルースマンという印象が強く、ギター誌などでもスライド奏者として紹介されることが多い。しかし、彼の曲にはスライド奏法のものばかりではなく、ボトルネックを使わないでストロークに近い奏法で弾くものも多いし、その中には「If it had not been for Jesus」のようにワルツ(3拍子)でCの曲まである。また、だみ声で歌う印象も受けやすいが、声の出し方もよく聞くと曲によって発声を変えている。音楽は、先入観なしに聴きたいものである。

2022/4加筆改訂

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わたしのレコード棚―ブルース4、Gary Davis

2011年04月27日 | わたしのレコード棚
 ゲーリー・デイヴィスは、1896年4月30日サウス・キャロライナ州ローレンスに生まれ1972年5月5日にニュージャージー州ハミントンで亡くなっている。
 盲目だったためブラインド・ゲーリー・デイヴィスとも呼ばれることもあり、またレヴァレンド(Reverend=聖職者)・ゲーリー・デイヴィスとも呼ばれることもあるブラックゴスペルのミュージシャン(ヴォーカル、ギター、ハーモニカなど)である。そのReverendという言葉についてだが、長いこと疑問に思っていた。ゴスペルのシンガーとかミュージシャンは数多くいるが、Reverendと呼ばれる人は少ない。どういう人がReverendと呼ばれるのだろうか。P-vineがPICD-59として配給したCDには帯書きがあり、「自らレヴァレンドと名乗り、・・・」と書かれている。しかし、わたしがいつも参考にしている資料『Big Book of Blues(Robert Santelli1994 UK)』は、デイヴィスは1930年代の初め頃にバプテスト教会から牧師(minister)に任命された、としている。また、LPの解説にも同様の記述がある。つまり、しかるべき組織から牧師として認められた人がReverendと呼ばれるらしい。あえて日本風に言えば、本山で修行して僧名をもらった御出家さんとでもいったところか。そういえば、ロバート・ウィルキンスなどもそうだが、写真を見るとデイヴィスはいつも背広を着てきちんとネクタイを締めている。教会で説教をした時の録音もあると聞くし、単なる「自称」では無かったと思われる。一方で、ブラインド・ウィリー・ジョンソンはa Baptist preacherだったとされているがReverendとは呼ばれない。宗教が異なる文化圏の言葉は、なかなか理解出来ないことが多い。


 
 YAZOOのLPで、L-1023。1935年録音の12曲と、1949年の2曲、初期の録音計14曲を収録した名盤。右の写真は歌詞集より転載したもので、これを手描きにしたものをジャケットに使ったようだ。右下YAZOOのロゴの上あたりをよく見ると「Rory Block」と記名されている。女性ブルースシンガー・ギタリストのローリー・ブロックが描いたらしい。絵もうまい人のようで、しかも美人。


 こちらはPRESTIGEレーベルのLPで7805、60年の録音。やはり名盤。同じ録音がbluesvilleのCDでは『Harlem Street Singer - Blind Gary Davis』というタイトルで出ている。レコード会社が一枚でも売りたい気持ちはわかるが、やめてほしいタイトルだ。余談だが、ジャケットの写真は、ニューヨークのハーレムストリートでプレイしているように見える。しかし、そんなところで目の見えない人が、ギブソンのJ-200ような高価なギターを使って実際に演奏していたかは疑問だ。ひったくりにあう危険があり、シカゴのマックスウェル・ストリートなどではミュージシャンが盗難にあうことが多かった、とも聞いている。あくまで、ジャケットの表紙に使う目的で撮影した写真と、私は考えている。


 FANTAZYレーベルのLPでBV-1049。1961年の録音の12曲。これも名盤。


 HERITAGEというレーベルからのLPで、HT307。1962~’63年頃のニューヨークでの録音。ステファン・グロスマンとの会話なども入っている。


 オーストリアのDOCUMENTレーベルのLPで、DLP521。ギターソロを中心に構成された16曲を収録。ギターのテクニックを学びたい人には、これがお薦めの名盤。


 ギター・インストラクターのステファン・グロスマンが出しているレーベルのLPで、KICKING MULE106『Ragtime Guitar』。当然のこと教則的な色合いが強い。ラグタイム中心の10曲を収録。下は裏面。



 HERITAGEレーベルからのLPで、HT308。おそらく、1960年代録音のライブ盤で『Children Of Zion』。下は裏面。




 12弦ギターを主に使った最晩年の1971年録音。衰えは隠せずミスも多いが、渋いハーモニカも入っていて好きな録音で良く聞いた。

 録音曲はかなり重複するが、上のLPをCD化したもので、BIOGRAPHレーベルBCD123。それをさらに、P-VINEが国内向けにPICD-59として配給した。


 ライブ盤CDで、AMERICAN ACTIVITESというレーベルが出したUACD103。トラック1~9がコネチカット州ニューミルフォード(New Milford)Bucks Rock Campという所で1970年12月8日のライブ。そして、トラック10~19が1971年5月12日のライブで、場所はRoyal hotel Jersey CIと書かれているので、英領チャンネル諸島のジャージー島にあるホテルだと思われる。亡くなる1年前で、これがゲーリー・デイヴィスが最後に残した録音と思われる。音源は死後に発見され、デイヴィスの妻の許諾を得て、1991年に発行されたらしい。
 さすがに衰えは隠せないが、齢を重ねてもやるべきことは曲げなかった。両会場とも、12弦ギターを使っているように聞こえるが、その響きと歌声には感動を禁じ得ない。ミュージシャンのあるべき姿をここに見ることが出来る。


 こちらは、やはりサウス・キャロライナ出身のピンク・アンダーソンとのカップリングCDで、RIVERSIDEのOBCCD-524-2。デイヴィスは、1956年1月29日ニューヨークでの録音8曲を収録。

 閑話休題ーデイヴィスは、ギブソンのJ-200 というギターを使うことがほとんどだった。LPのジャケットの写真に写っているギターも、12弦を除き、全てJ-200だ。このギターは、サイド・バックがメイプルで、どちらかと言うとストローク向けの大型ボディと言える。音も硬いし、彼には音質的にこのギターは合わないのではないかと、長年疑問に思っていた。 しかし、最近になってその理由がわかるような気がしてきた。デイヴィスは、様々な場で演奏することが多く、ピッキングも強い。強く弾いて、音に歪が生じても、あまり気にせず歌い続けている。つまり、そんな極端にギターに負荷がかかる場でも、安定した演奏が出来る、作りも材質もしっかりしたギターを選択したのではないだろうか。早い話が、音質よりも楽器の安定性を優先させたのではないか。そんな気がする。もちろん、J-200の音質が悪いという訳ではない。が、音質を優先させた場合、デイヴィスに合うギターは他にあったように感じる。


 デイヴィスはギターのテクニックがとても評価された人で、後のギターリストへの影響も強く教則本も出ている。また、ライブ録音を聞くとギターのテクニックで客を喜ばせるような演奏もある。いかんせん、わたしもギターの音ばかり聞いていたのだが、今思うとあまり良い聞き方ではなかったと思う。デイヴィスのようにメッセ―ジ性の強い音楽では、ギターのテクニックはそのメッセージを伝えるための手段でしかない。なので、歌う方としてはギターのテクニックよりも音楽に込められたメッセージを感じ取ってもらいたい、と思っていただろう。さてそのメッセージだが、あえて自分なりに言葉にすれば「人にはどんな困難もいつかは乗り越えられる根源的な力がある」とでもなろうか。もとより信仰心など持たぬわたしだが、希望を大切にする気持ちくらいは持っている。
 ゴスペルであれ、ブルースであれ、「困難を背負う人への共感と励まし」が基本だ。それが、「土台文化」ということだろう。ただ、現実には悲観的なことも多い。音楽するうえで、希望を曲にすることは良いが、非現実的な楽観を曲にするようなことはしてはならないと自らを戒めている。

2022/3加筆改訂

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わたしのレコード棚―ブルース3 Washboard Sam

2011年04月23日 | わたしのレコード棚
 ウォシュボード・サム Washboard Samは、本名ロバート・ブラウンRobert Brown。生まれは、1910年7月15日アーカンソー州ウォールナットリッジWalnutRidge近くのローレンス村Lawrence Countyの農場だったという。亡くなったのは、1966年11月6日シカゴだった。



上のCDは、ウォシュボード・サムが1941年から1947年にかけてブルーバードレーベル(RCA)に残した録音から22曲を再編集して、BMGが61042‐2として発売したもの。バッキングでは、全曲でビッグ・ビル・ブルーンジーがギターを弾いており、ピアノはメンフィス・スリムやルーズベルト・サイクス、ベースではランサム・ノウリングやウィリー・ディクソンらがつとめている。
 この人は、芸名があらわすとおりで、Washboard(洗濯板)を打楽器として使う人である。元々は、打楽器を買うことのできない黒人が、必要に迫られて考え出したものだろう。ジャケットの写真では、普通の洗濯板に、缶の蓋の様なものを付けてシンバル代わりにしていたことがうかがえる。広い意味で、優れたパーカッショニストであり、ヴォーカルリストだった。
 ビリー・アルトマンBilly Altmanという人が書いたこのCDの解説によると、ウォシュボード・サム の父親はフランク・ブル-ンジーFrank Broonzyという農民で、かつては奴隷生活もしていたことがあるという。本名のブラウン姓は祖父の名前であったらしく、ビッグ・ビル・ブルーンジーとはハーフブラザー(腹違いの兄弟ということか?)だったとも書かれている。これに関しては他の資料で確認できないので、真偽のほどは分からず、参考までに書いておくことにしたい。

 ウォシュボードはこの上なく素朴な楽器だが、シガゴのリズムを特徴づける「ブルーバード・ビート」という2ビートの要素を持ったウォッシュボード・サムの演奏はオンリーワンと言っても過言ではなく、初期のシカゴブルースを語る上では極めて重要なプレーヤーだった。戦前のレコーディングでも引く手あまただったようで、様々なミュージシャンと録音している。ブルーンジーやハーモニカのジャズ・ジラムの他には、ピアノのメンフィス・スリム(Memphis Slim)、同じくピアノのルーズベルト・サイクス(Roosevert Sykes)、このCDには入っていないがカントリーブルースのブッカ・ホワイト(Bukka White)など。さらに、サニーボーイ・ウィリアムソン#1録音などにも参加している。今では、あまり顧みられることのないウォシュボード・サムだが、わたしは高く評価している

 1948年にはサニー・ボーイ・ウィリアムソン#1が帰宅途中に刺殺され、1966年にはジャズ・ジラムが撃たれて殺され、同じ年にウォシュボードサムも心臓発作で死ぬ。戦後になってからは、ジラムやウォシュボードサムのような素朴な音楽はすでに必要とされず、彼らの出番はすでに無かったようだ。しかし、その後皮肉なことに60年代の中頃フォークリバイバルブームが起き、カントリーブルースマン達が「再発見」されてゆく。聴衆は勝手なものだ。

2022/2改訂

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わたしのレコード棚―ヴァイオリン演歌、桜井 敏雄、オッペケ会

2011年04月21日 | わたしのレコード棚
Enka

 桜井敏雄(1909~1996)先生のステージには2度ほど接したことがある。最初は1991年の9月、浅草寺裏の浅草5656(ゴロゴロ)会館で敬老の日に地元紙が主催した催しでのことだった。80歳を過ぎてもまだまだお元気で、ステージ上を大股で背筋を伸ばして歩いておられた。声の張りもあって、演歌師の真骨頂を聞かせてくれた。その数年後にも両国の江戸博物館のホ-ルで聞くことが出来たが、残念なことにわたしが聞いたのはそれが最後となった。
 LPは、’82年に浅草木馬亭で行われた「第5回オッペケコンサート」のもようを収録したもの。出演は他に、金子潔(故人)、太田操(故人)、なぎら健壱、の各氏。今では単なる流行歌となった演歌以前の、硬骨漢が時代を風刺して歌っていた頃の雰囲気を今に伝えてくれる。

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わたしのレコード棚―ブルース2 Big Bill Broonzy

2011年04月15日 | わたしのレコード棚
 ビッグ・ビル・ブルーンジー(William Lee Conly Broonzy)は、1893年6月26日ミシシッピー州スコット(Scott)の生まれ。亡くなったのは、1958年8月15日シカゴだった。ブルースファンにとってはその名は大きく、ギターを弾く者にとってはその名は重い。
 ミシシッピーでの家族の生活は、シェア・クロッパー(sharecropper=小作人)だったという。ブルーンジーが少年の頃にアーカンソー州に移動、そこで彼はフィドル(バイオリン)を学んだらしい。14歳になる頃には、ダンスパーティーなどで演奏して、チップを稼げるようになった。彼の音楽の持つ多様性は、この頃のフィドルの演奏が生み出したものなのかもしれない。その後第一次世界大戦に従軍、除隊後は再びアーカンソーに戻り、農業に従事。そして、シカゴへ出たのは1920年代初頭のことらしい。年齢的には、20代後半になっていたことになる。そのシカゴでは、パパ・チャーリー・ジャクソンの援助を受けながらギターを習得し、才能を開花させていった。
 その後は、長くシカゴを中心にギターリスト・ヴォーカルリストとして活躍。単独で、あるいは多彩なミュージシャン達と多くの録音を残している。以下に紹介するのは我が家にあるレコードだが、ブルーンジーの残した録音の全体から見れば一部分にすぎない。そんな彼でも、音楽だけで生活するのは難しかった時期もあったらしく、そんな時はシカゴの街で雑役夫として雇われ仕事をしたりしたらしい。


 もっとも初期の録音Yazoo1011。名盤。ジャケットの写真も教則本などによく使われるもので、かのカワセ楽器さんにも同型のギブソン・ギター(Style-o)の後ろの壁に貼られている。



戦前の録音もう一枚、オーストリアのレーベルでWOLF RECORDSのBOB-2。この頃には様々な楽器が加わっていて、かなりモダンな音作りになっている。





 上の二枚は、GNPcrescendというレーベルのシリーズで録音年の表記は無いが、戦後のものと思われる。
 ブルーンジーは、1960年前後には当時のフォークムーブメントからの要請もあり、メッセージ性の強い録音をフォークウェイズ・レーベルなどに残している。生ギター一本の弾き語りでフォーク風の歌が多く、この2枚のLPはその頃のものではないかと推測している。白人向けのフォークブームに合わせた演奏という見方もあり、ブルースファンにはあまり受け入れられなかったようだ。しかし、わたしなどはブルーンジーの多様な音楽性がよく出ていて繰り返し聞きこみ、彼の「本音」がここにあるようにも感じている。例えば、「Black,Brown And White」という曲の次のようなフレーズ・・・

I was in a place one night ある夜、俺は
They was all having fun 皆楽しそうに
They was all byin' beer and wine ビールやワインを飲んでいる所にいた
But they would not sell me none だけど、奴らは俺に何も売ってくれなかった
They said if you was white, should be all right 奴らが言うには、肌の色が白けりゃいいさ
If you was brown, stick around 茶色なら、まあ、居るだけなら勘弁してやる
But if you black, m-mm brother, git back git back git back だが、黒きゃダメだ、帰んな


 この欄に書くために、これら4枚のLP盤を聞き直してみてあらためて感じたことは「一つひとつの音を大切にする人だな」ということだった。それはすぐれたミュージシャンに共通のことなのだが、ブルーンジーの場合特にそれが強く感じられ、彼の音に込める気持ちが伝わってくるような気さえした。曲全体の流れの中で、どうしてもそこで使うべき音だけを気持ちを込めて使う、あたりまえのようだが忘れてはならないことなのだ。

 ブルーンジーは数多くのブルースマンとセッションをこなした人で、次回以降にはブルーンジーが加わった重要な人物の録音を取り上げてみたい。

2022/2改訂

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わたしのレコード棚―ブルース1、Brownie Mcghee

2011年04月08日 | わたしのレコード棚
 わたしのレコード棚―序文

 「ブルースは、誠実さを強調する音楽の一形態でもある・・」Smuel Charters(サミュエル・チャータース)著小林宏明訳『ブルースの本(1980年晶文社刊)』P242。原書『The Legacy Of The Blues』の出版は1975年。

 引用したサミュエル・チャータースの冒頭の言葉「ブルース」を「良い音楽」と解釈し、「良い音楽とは、常に誠実さを強調する」と言い換えても良いだろう。つまり、「良い音楽」とは飾りや噓が無い音楽だ。表面だけキレイごとを並べて、一時良い気分にさせるような音楽とは本質的に違う。さらに、「良い音楽」を「良い文化」と解釈することも可能だ。人の営みの中で、時に生じる軋轢や不合理。それらから目を背けず、魂の深いところにある生命力を表現するのが本当の文化と言える。それらの中には、人々に受け入れられず、長く不遇の時を経て現れてくるものも多い。歴史を越えて今に残る古典を観てみると、出た当時は受け入れられず、長い時を経て表舞台にあらわれてくる文化も少なくない。ブルースの歴史を見ても、安いギャランティで録音されたものが後に音楽の歴史に残る重要なものとなっているものも多く、具体的に上げれば枚挙にいとまがない。

 そんなわけで、自分なりに「良い音楽」と思い聴き込んできたレコードを紹介し、感じたことを書いてみることにした。ギターを弾くうえで、最も参考にしたのがブルースだったので、どうしてもブルースマン達のレコードが中心になっている。しかしそのブルースも、時代とともに大きく変化し、今では昔日のカントリー・ブルースが持っていた働く人々の汗のにおいを強く感じるものは、ほとんど見当たらなくなっている。
 冒頭に紹介したチャータースの著書は原書が1975年に出ているので、書かれてからすでに半世紀近くがたっている。その間に音楽を巡る環境も大きく変化した。商業的な成功を収めることを目的とした音楽が横行し、プロミュージシャンとして活動し売れることが成功者と見られているような風潮がある。もちろん、有名になることそのものが悪いことではないし、ヒット曲の中にも良いものはある。しかし、「売れること」と「良質な音楽」を混同している人達も多い。

 当初、ブルースマン達は田舎で暮らし、農業や工事現場などで労働者として働きながら、週末に人々が集まるパーティーなどで演奏していた。そのようなミュージシャン達を「ソングスター」と呼んでいる。生活者が奏でていた音楽、ということになるだろう。それらの録音は20世紀初頭から始まるが、彼らの音楽は「働く者の音楽」で古い録音を聴いても「汗の匂い」を感じられる。単なる娯楽というよりも汗して働く人々の「共感」を感じられる文化がそこには確かにあったのだ。それが、エンターテイメント性を強く持ったソングスター達が都市部に移動することにより、娯楽やダンスミュージックとなり、一部の演奏家達はプロ化していった。その過程で「生活臭」も徐々に消え、今では結果的に生命力を失っているとも感じられる。
 良い文化は、生活の中から生まれるのだ。
・・・と、まあ、あまり堅い話になるのも肩がこるので、肩の力を抜いて我が家にあるレコードを紹介していくことにしたい。
 

 さて、ひとくちにブルースと言っても様々な演奏法があって、それぞれに魅力があるので自分なりにお手本にしてきた人から紹介してゆくことにする。

 最初はブラウニー・マギー(Walter "Brownie" Mcgheeギター&ヴォーカル)。生まれは、1914年としている資料もあるが、1915年11月30日テネシー州ノックスビル(Noxville)が正しいようだ。ギターは父親に教わり、1934年頃にゴスペルグループにも参加したと言われている。その1930年代後半、ブルースで旅回りをする中で、イーストコースト(東海岸地方)のノースカロライナ州ダーハム(Drhum)にも行き、そこで演奏していたブラインド・ボーイ・フラーのスタイルに強く影響されている。1941年にオーケー(Okeh)レーベルに初録音したのは、フラーの「Step It and Go」だった。
 その1941年にフラーが32歳で亡くなった後、一時はブラインド・ボーイ・フラー#2として活動したりもした。その後も、ギター・スタイルはフラーの奏法を基本に据えていた。なので、マギーの出身は南部テネシーだが、ギター奏法はイーストコースト・スタイルと言える。
 最初にブルース・ハープ(10穴ハーモニカ)のサニー・テリーSonny Terry(ブルースハープ=10穴ハーモニカ、1911-1986)とデュオを組み始めたのは1939年頃だったらしい。その後は、主にニューヨークなどで長く活躍している。第2次世界大戦後にフォークムーブメントの高まった時期もあり、多くの録音を残し、ヨーロッパツアーなどにも参加している。

 晩年はカリフォルニアですごし、亡くなったのは1996年2月16日。どちらかというとブルースファンよりもフォークファンに人気があり、その為かサニー・テリーとのコンビでの録音にはアコースティックな音作りが多い。しかし実際には単独での活動も多く、様々な場所でエレキギターを使ったセッシッヨンもこなしている。
 なお、この人は幼い頃に小児まひに罹り、足が不自由だったようで、それがために路上でストリートミュージシャンとして演奏することから始めたらしい。サニー・テリーも目が悪かった人で、そのため二人ともに第二次世界大戦の時にも兵役を免れたようだ。


 FolkwaysのCDSF40034。ジャケットには「1945-1959」とクレディットされている。が、実際に収録されている曲は、1955年から1959年の演奏で、全17曲。単独で、あるいはテリーなどがバックアップしている。ちなみに、この当時使用しているギターは、ジャケット写真にも写っているマーチンのD-18がメイン。ブルース系のギターリストは太い音がするギブソン系のギターを好む傾向にあるようだが、マーチンでも18系のマホガニー材のギターを好んで使った人もけっこういる。また少数派ながら、ローズウッド材の28系もスキップ・ジェームスなどベントニアの繊細な音作りをする人が使っている。


 こちらは2枚組LPで、Fantazy24708。59年12月録音の『Downhome Blues』11曲と、60年9月録音の『Blues In My Soul』10曲を収めたカップリングアルバム。この頃のマギーは、おもにリズムを中心にリフを弾き、テリ-と音楽的に整合させていたように聞こえる。後に、少しずつ演奏スタイルを広げて多彩な演奏をするようになってゆく。それに伴ってギターもエレキギターや、ピックアップのついたアコースティックに換えていったようである。



 イギリスのレーベルBGOのLP 75。録音年不詳。主にE・ギターを使ってピアノやドラムス、ベースを入れてジャズの要素を組み込んだ演奏をしている。
 しっかりしたリズムを保ちながらギターを歌わせるのは確かな技術が必要で、それを楽にやっているように聞かせるのは本当の意味で実力があるからなのだ。
今聞いても「真似できないな」と感じる。テリーのハープもすぐれた演奏だが、もう少し音数を減らした方がかえって表現力があったような気がする。


 MCA のLP1369。1969年3月の録音10曲。こちらもバッキングにピアノやドラムス、ベースが入っている。ちなみに、メンバーを書いておくと、ピアノにRay Johnson、ベースにJimmy Bond、ドラムスにPanama Francis、とクレディットされている。わたしには馴染みのないミュージシャン達なので、少しネットで検索してみたところ、リズム&ブルースやジャズのセッションマンとして活躍した実力者達だったようだ。音楽的には、セッションで生まれた即興などが加わり、なかなかごきげんなサウンドになっている。若干、全体の音のバランスが悪いようにも聞こえるが、ピアノのRay Johnsonが特筆すべきバッキングを務めている。わたしの愛聴盤の一枚。


 マギーの演奏で、わたしが繰り返し聞いたのはLRというドイツのレーベルから出た、この二枚組LP(42021)である。ドイツ・フランクフルトで、1970年11月にテリーそしてシカゴのブルースマン達と共に行ったツアーを収録した4曲が第3面に収められている。この時、客の反応が良かったためか二人とも乗っていて声の張りも良い。二人は、私生活では不仲だったともいわれるが、少なくともここでの演奏を聴く限りそんなことはみじんも感じさせない息のあった演奏を聞かせてくれる。『Walk On』では、ベースにウィリー・ディクソン(Willie Dixon)、ドラムスにクリフトン・ジェームス(Clifton James)といった当時のシカゴを代表するリズムセクション、さらにピアノはチャンピオン・ジャック・デュプリー(Champion Jack Dupree、当時すでにヨーロッパに在住していたと思われる、’92にドイツのハノーヴァーで死去)が加わり、この上ない演奏を聞かせてくれる。ブルース史に残る名演、と言っても過言ではない。


 エレキギターを使ったアーバンブルース風の演奏をしているこのCDは、イギリスのCharlyというレーベルから出たCPCD8167。1976年ニューヨークでの録音。ピアノにサミー・プライスSammy Price、スライド・ギターにルイジアナレッドLouisiana Red(Iverson Minter)、ハープにシュガー・ブルーSugar Blueなど異色のメンバーの組み合わせでなかなかに面白いのだが、各人の個性が強く出すぎている傾向もある。録音時60歳のはずだが、ジャケットの写真はもっと歳に見える。


 さらにもう1枚。P-VINEの国内盤CDでPCD-1968『Brownie McGhee & Sonny Terry at the 2nd Fret』。1994年9月に発売された『Blues & Soul Records』誌第2号に、わたしがこのCDのレヴューを書いた時に支給されたもの。執筆時にはCDのプレスが間に合わず、届いたのはカセットテープと関係資料のコピー。上の画像も、そのコピーをスキャンしたものなので、ちょっと見にくい。
 内容はライブ収録で、1962年4月にフィラデルフィアの「The Second Fret」から10曲。さらに、1961年12月サンフランシスコの「Sugar Hill」ライブからの5曲を加えた、全15曲。聴衆は、ほとんどが白人だったようだが、かなりリラックスした雰囲気が会話などから聞き取れる。マギーとテリーが冗談を言い合いながら曲の解説をしている様子も収録されており、かなり興味深い。二人の息が合った演奏を聴けるライブ盤で、今となっては貴重な一枚だ。

 96年に彼の訃報を聞いた時には虚脱感に襲われたものだ。しかし、晩年は孫たちに囲まれて幸せに暮らしたとも聞いている。若くして不幸な死に方をするミュージシャンも多い中で、家族や友人に囲まれて天寿を全うしたブラウニー・マギーは、人間的にもすぐれた人だったのではないかと、わたしは想っている。

2022/1改訂

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『石の花』 坂口 尚著 1996講談社漫画文庫

2011年04月05日 | 本と雑誌
 先日サラエボを舞台にした映画(3/15日のブログ参照)を観たので、坂口尚(ひさし)の漫画『石の花』を読みかえしてみた。初出は1986年『月刊コミックトム』。

Isinohana

 物語は1941年の旧ユーゴスラヴィア・スロヴァニア地方から始まり、1945年5月にチトー率いるパルチザンが新しいユーゴスラビアを建設するまでを描く全5巻。日本から見ると遠いユーゴがいくつもの国に分離独立した背景がなかなか理解しにくいのだが、この漫画はそれを理解する手助けをしてくれる。優れた作品とはそういうものなのだろう。ただ、全5巻の中で1943年までが5巻目終わり近くまでを占めていて、ストーリーが尻すぼみになっている感は否めない。
 坂口尚は、1995年に49歳で亡くなっているのですでに忘れらた感があるが、虫プロ出身のすぐれた作家で個人的には手塚治虫には無い才能を持っていたのではないかと思っている。絵の奥行きが深く、言葉が時間をかけて選ばれており、完成度が高い。早世されたことが残念だ。


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わたしのレコード棚―日本のフォーク、西岡恭蔵

2011年04月01日 | わたしのレコード棚
 気温が上がってきて計画停電も一息ついたので、『わたしのレコード棚』を再開することにした。
70年代のフォークブームの中で多くの「フォークシンガー」が現れ消えていったが、ブームに乗っただけのものも多かったように思う。その中で記憶にとどめて置きたいと思うのが西岡恭蔵のアルバム『ディランにて』である。オリジナルリリースは1972年。

Nisiokakyouzou
 西岡は、音楽シーンの中では目立たない存在だったが作詞・作曲にすぐれ、特にその詞はのちのミュージシャンに与えた影響は大きかったし、詩人としても評価されるべき人だったと思う。ただ歌い方はぶっきらぼうなところがあり(個人的にはそれも好きなのだが)、あまりうまいとは言えなかった。しかし、彼の参加したグループ[ザ、ディラン](西岡恭蔵・大塚まさじ・永井よう)では大塚まさじがヴォーカルを受け持っており、別の意味で表現力が豊かになった。ちなみに「ディラン」とは大塚まさじが大阪市に開いた喫茶店の名。
 2/26付朝日新聞の土曜版beで彼の『プカプカ』が取り上げられたので読んだ人もいるかもしれないが、わたしも大学の頃学生会館で酒を飲んで『プカプカ』を良く歌った。それゆえ、1999年4月に西岡が50歳で自殺した時には少なからずショックを受けたものだった。原因は知る由もないが、喪失感の中に居たことだけは確かだろう。多くのミュージシャンが、「自分の音楽は必要とされていない」という孤立と憂愁の中で苦しむことになるが、特に時代の要請に乗った形で一度は「売れた」人にその傾向が大きいようだ。わたしなどは、売れたことも認められたことも無いので「まぁ、こんなもんだろう」で済ましてしまうが、一度注目を浴びるとそれを失った時には喪失感が強いのだろう。「売れようが、売れまいが、やりたいことをやってりゃいいんだ」、といったある意味アマチュア精神に近いものも大切なのかもしれない。

 次回からは、いよいよブルースに行く予定。地域とか年代順とかではなく、自分が影響を受けた人から一人ずつ紹介していきたいと思っている。延々と続くのでいつ終わるかもわからないが、興味のある人はお付き合いください。


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