文化逍遥。

良質な文化の紹介。

今年も半分終わり

2017年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
 今日で今年も半分が終わる。
 どうも、この国は混迷の度が深い。それが、最近の実感。中東では第二次世界大戦以降もっとも過酷、と言われる戦争状態にある。イラク北部などでは、子どもを含む一般市民を盾にした戦闘が続いている。にもかかわらず、日本のトップニュースは、少年棋士の活躍、政治家の失言、あげくに政治家のパワハラだって。いったい全体どうなっているのかねえ、さっぱり理解できない。これも日本社会の病理現象なのだろうか。それで済ませたくないし、また済ませられるとも思わない。今は、冷静になって物事を見続けていくしかない。

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わたしのレコード棚―ブルース37、Mississippi John Hurt

2017年06月24日 | わたしのレコード棚
 ミシシッピー・ジョン・ハート。ブルースファンには今ひとつ人気がないが、「フォーク・ミュージック」と言われるジャンルでは、とても影響力が強いミュージシャンだ。実際、ギター奏法に関してはプリ・ブルースとも言え、素朴で叙情性に富み、低音弦側のタメの効いたリズムの取り方はラグタイムの要素も含んでいる。後に、この人から影響を受けたフォークシンガーは日本にも多いが、オリジナルの底深い泥臭さは失われている。そのあたりが、ブルースファンに誤解されて「軟弱」と取られている様な気もする。あえて喩えると、音楽史の流れから見てロバート・ジョンソンが後のロックに通ずる最重要プレーヤーだったのと同じで、ミシシッピー・ジョン・ハートはブルースからフォークソングに至る中での最重要プレーヤーという見方もできる。

 改めて聴きなおしてみると、声の出し方があまり強くなく「語り」の要素が強い。が、ギターで低音弦を強くはじきながら高音側を絶妙のタイミングでからめてゆく奏法はすばらしい。やはり、ブルースマンだなあ、と感じる。この人の、そういったブルースの要素をしっかりと受け継いだプレーヤーをわたしは知らない。後にフィンガーピッキングと言われるジャンルで「インストラクター」の役割を果たしているステファン・グロスマンも、ミシシッピー・ジョン・ハートが好きだそうで、教則レコードにもハートの曲が取り上げられている。興味のある人は、グロスマンの演奏とジョン・ハートのそれとを聴き比べてみると勉強になるだろう。本質的な所で、全く違う音楽になっている。ただし、どちらが良いか、という問題ではない。聞き手が大切に思えることを、しっかりと聴きとるとこが肝要だ。

 生まれは1893年7/3ミシシッピー州ティオック(Teoc)、亡くなったのは1966年11/2同州グレイナダ(Grenada)。1928年2月にメンフィスで2曲、同年12月にニューヨークで11曲録音して、その後は忘れられた存在だった。


 初期の録音13曲を収録したCD『ミシシッピー・ジョン・ハート キング・オブ・ザ・ブルース4、PCD-2259』。ただ、CDジャケットの写真は若い頃のものとは思えない。録音当時の写真が無いので、年を取ってからのもので代用せざるを得なかったのだろう。
 この中に『Avalon Blues』という曲が入っている。内容は「ニューヨークは良い街だけど、俺の故郷はやっぱりアバロンさ」と続く自分の故郷を歌った詞だった。ミシシッピー州の田舎から、はるばる大都市ニューヨークに行き、即興で歌ったと思われる。そのあたりは、「ソングスター」とも呼ばれる所以で、休日にギターを抱えて町の人達を楽しませた芸人の真骨頂だ。ちなみに、おそらく当時はニューヨークまで汽車で何日もかけての長旅だっただろうし、座席も白人と有色人種で分離されていただろう。
 この録音の後、1963年に再び見いだされれたとき、この曲で出てくる地名アバロンから探し出されたらしい。そこは、地図にも載っていないような田舎だったという。


 キングレコードから出ていた2枚組LP『The immortal Mississippi John Hurt』。1964~1965年頃の録音25曲。元は、VanguardのLP、VSD-79220と79248だったのをカップリングして発売されたもの。


 こちらもキングから出たCD『The best of Mississippi John Hurt plus』。1965/4/15、Oberlin Collegeでのライブ収録21曲に1曲おまけの全22曲。

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2016年イラン映画『セールスマン』

2017年06月21日 | 映画
 6/20(火)千葉劇場にて。今年、2017年のアカデミー外国語映画賞を受賞した作品だが、トランプ政権の入国制限命令に抗議して、アスガー・ファルハディ監督と主演した女優のタレネ・アリドゥスティさんがアメリカに入国せず、授賞式をボイコットしたことでも話題になった作品。そのためか、平日の昼間にもかかわらず、千葉劇場はけっこう混んでいた。6割程の入りか。



 ストーリーは、ちょっとしたサスペンス仕立てになっていて、種明かしになってしまうので書かない。主人公エマッド(シャハブ・ホセイニ)は、国語の教師で、妻ラナと共に小さな劇団にも所属していて、今はアーサー・ミラー原作の「セールスマンの死」で主役を担当している。映画は、現実世界と劇中を行ったり来たりし、虚構の世界である演技の中で意外な本音が出てきたりする。交錯する世界を描く手法は、ギリシャの名監督テオ・アンゲロプロスの映像を思い起こさせられた。
 主演女優のタレネ・アリドゥスティさんは、インタビューの中で、あまり知られていないイランの人々の生活を知ってもらいたい、という趣旨の発言をしている。確かに、日本に暮らす者にとってイランは言葉も宗教も、したがって生活様式も全く異なる世界とも言えるが、本音と建前を使い分けての近所づきあいなど、意外と近いものも感じた。考えてみると、ペルシャの昔からシルクロードを通じて関係していた国なのだ。文化交流が深まり、相互理解も進めば良いと感じた。

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2016年ポーランド映画『残像』

2017年06月15日 | 映画
 6/13(火)、梅雨寒の日、神保町岩波ホールにて。監督は、昨年10月に亡くなったアンジェイ・ワイダ。脚本は、監督自身と、『カティンの森』の原作者でもあったアンジェイ・ムラクチクが共同したようだ。この作品が、ワイダ監督の遺作になる。

 

 予想したとおり、テーマも映像も重い作品だった。

 実在したポーランドの画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1983~1952)の亡くなる前4年間を描いた佳作。主人公は、第一次世界大戦で片腕と片足を失いつつも、前衛画家であり、独創的な芸術理論を持ち、大学での講義は学生にも人気がある。しかし、それゆえか自信家で家庭を顧みることなく、女学校に通う娘との間には亀裂が生じている。第二次世界大戦後の、ソ連型社会主義が浸透してゆく東ヨーロッパ。その中で、ポーランドも次第に言論・表現が統制されてゆく。ストゥシェミンスキは、表現の自由が失われてゆくことに反発するというよりも、自らの芸術と理論が当局の方針に基本的に相容れないことに反発してゆく。前後の見境のない反発のなかで、やがて日々の食にも事欠くようになり、病に蝕まれ芸術とは程遠いポスター書きやマネキンの装飾をやるようになり、マネキンの中で倒れ死を迎える。

 
 アンジェイ・ワイダは、この作品で主人公の画家に自分を投影しているようにも感じた。社会主義国ポーランドの中での映画制作は、表現の自由が限られ、常に圧力がかかる、その中で表現者は健康でいられるはずもなく監督自身が90歳という天寿を全うできたのは偶然としか言いようがない。監督自身も映画の主人公のように、失意の内に死んでいても不思議ではなかったのだ。さらに、この作品の中には、もうひとつの重要なテーマがあるようにかんじた。それは、怖いのは表現の自由が抑圧されることそのことだけではなく「目的が手段を浄化してしまう」ということだ。映画の中で、「搾取の無い社会の為に・・」というセリフが何回か出てくる。それ自体は素晴らしい目的であり理想でもある、と言えるだろう。しかし、その理想の実現のために何をやっても良い、ということにはならない。「方法の問題」は、古くて新しい、いわば永遠の課題、ともいえる。

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神谷美恵子の著作

2017年06月10日 | 本と雑誌
 最近、近所の古本店で神谷美恵子の代表的著作である『生きがいについて』が200円で売られていた。本の題名だけ見ると、軽いエッセイのように思われるかもしれないが、個人的には戦後に出版された本の中でも非常に優れた著作であり、後世に伝えられるべき価値があると考えている。そんな思い入れのある本が、価値に比してあまりに安く、捨て売りのような扱いを受けていたようで、書いておく気になった。






 神谷美恵子(1914-1979)は、精神科医であり、教育者あるいは著述家でもある。父は前田多門、戦前のILO代表で、後に文部大臣。実兄の前田陽一はパスカルのパンセなどの翻訳で知られる東大の教授だった。父の仕事の都合で幼い頃よりヨーロッパで過ごし、そのため後に語ったところによると日本に帰ってきてからも、考えるときはフランス語だったらしい。語学に堪能だったので、マルクス・アウレリアスやミシェル・フーコーなどの翻訳もものしている。
 この人の偉いところは、これだけ恵まれた環境に育ち、自身の才能にも恵まれながら、大学など研究機関に埋没することなく一人の精神科の医師として瀬戸内海のハンセン病医療所で医療活動に従事(1958-1972年)、閉鎖的な場で病と向きあう人びとと共に過ごし、医療活動を続けたことだった。その中で、同じ境遇にありながらも、日々を生きるのに苦しむ人と、生きがいを見いだせる人とが存在していることに気付き、その人の得ることのできる「存在価値」ということに着目して書かれたのが『生きがいについて』(1966初版、1980年みすず書房)だった。『人間をみつめて』(1971年初版、1974年新版、朝日選書)は、その続編とも云える著作。

 哲学は、その昔「対話」だった。異なる認識を対話により新しい価値へと導く、のが基本だったはず。「弁証法」と訳されるのは、ドイツ語でDialektik、英語ではdialectic。両方ともギリシャ語のdialektos「対話」が語源。プラトンの著作は「対話編」と呼ばれるが、『国家』などを読むと「対話」というより「論駁」に近く、後のアカデミズムに繋がる萌芽がすでに内在している。

 神谷美恵子の著作には、本来の哲学が持っていた態度に近いものがあるように感じる。岩波文庫に入れて欲しい著作。

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長尾和宏著『薬のやめどき』2016年ブックマン社刊

2017年06月05日 | 本と雑誌


 著者の長尾和宏医師の著作に関しては、2014年にもこのブログで取り上げた。今回の『薬のやめどき』は半年ほど前に出版されたもので、図書館に予約しておいたのだが予約件数が多く、やっと順番が回ってきて読むことが出来た。

 自宅で母を看取ってから3年になる。今でも、投薬については辛い記憶が残っている。ムコダインという痰をとる薬で水疱などの副作用が出たのに気付くのが遅れたこと。さらに、感染症に対する抗生剤による治療をいつ辞めるべきなのか、それを判断しなければならなかったことなどだ。医療関係者は宿命的に延命を優先することが多く、家族も投薬することで役割を果たしているように考えてしまう事が多い。しかし、死は避け得るべくもなく、いつか必ずやってくる。必要以上の延命は苦しみが多いだけで、益がない。母も血管が弱って点滴が出来なくなり、それ以前に抗生剤を経口投与した際、口内が荒れるなどの副作用が顕著になってきたため医師に治療の中止を申し入れたのだった。医師は、筋肉注射をしたかったようだ。はたして、あれで本当によかったのか、今でも考えるときがある。看取りの専門医ともいえる長尾先生のこの本は、そんな時にひとつの指標―少なくとも参考にはなってくれるだろう。

 また、著者は抗認知症薬の過剰投与にも警鐘を鳴らし続けており、2015年11月の発足した「一般社団法人抗認知症薬の適量処方を実現する会」の理事も務めておられる。母も、ドネペジルという抗認知症薬をほぼ死ぬまで飲んでいた。母の場合この薬が体質に合っていたようで、怒りやすくなったこともあったが重篤な副作用は感じられず、むしろ認知機能の改善・維持に役だっていたと思う。が、人によってはかなりな副作用が出て、それが薬による異状と気付かれずに家族が崩壊する事例もあるという。会のホームページを読むと、医師や患者家族からの様々な実例が載っている。抗認知症薬に限った情報だが、介護に関わる人は読んでみても損はない。その中にある、ある医師の報告にハッとさせられたので少し引用しておく。

「・・・多くの医師が患者の身体と対話できないのだから、ドネペジル10mgまで増やすという指示は犯罪的である。厚労省が、この状況がわからないなら財務省に薬の無駄使いとして訴えるしかない。」(「抗認知症薬の適量処方を実現する会」のホームページより)

 参考までに、ドネペジルという薬は3mgから始めて2週間後に5mgに増量する厚労省による規定があり、さらに重症の場合10mgに増量するとされている。つまり、3mgで十分効いている人でも増量しなければならないわけだ。現代の医療が抱える病理のひとつがここにもある。ただし現在は、同会の活動等により少量投与を容認するようになってきているとのことだ。
 それにしても、“多くの医師が患者の身体と対話できない”というのは言い得て妙だが、わたしも常々感じていることでもある。これを、現場の医師の言葉として日本の医学界全体が重く受け止めてもらいたい。特に、医療・介護に関わる人を教育すべき機関は信頼に足りうる医療者・介護者を育成することにもっと心をくだいてもらいたい。わたしも、還暦になり様々な体の異常を感じる様になってきたが、信頼できる医者に巡り合えず「自分の体は、自分で守るしかない」というのが今の実感だ。

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