文化逍遥。

良質な文化の紹介。

わたしのレコード棚ーブルース120 Josh White

2021年02月25日 | わたしのレコード棚
 ジョシュ・ホワイトは、サウスカロライナ州Greenvilleの生まれ。生年は資料によりばらつきがあり、1914年(ウィキペディア他)か1915年としているものが多く、ポール・オリバーの『ブルースの歴史』は例外的に1908年としている。亡くなったのは、1969年9月5日で、ニューヨーク州Manhassetだった。しかし、いつも思うのだが、1969年まで生きた人の生年がはっきりしないのはどうしてなのだろうか。要は、本人もはっきりしない、ということなのか。
 この人の本名はJoshua Daniel White。父はPreacherつまり「説教師」だったという。それが為、彼の名も旧約聖書のヨシュア記やダニエル書からとっているようだ。その父親の影響からか、子供の頃から盲目の人の手を引いたり、聖歌隊に入って歌たりしたという。サポートした盲目の人の中には、Willie WalkerやJoe Taggardなどのミュージシャンもいて、ギター演奏を身につけたらしい。
 1928年、というから15歳の頃には盲目だったJoe Taggardのガイドをしながらシカゴへ出て伴奏やバックヴォーカルもこなし録音している。1932年には単独で録音し、1936年以降ニューヨークに出てフォーク系のミュージシャンと交わりつつ、広く長く活動した。当初、ARCレーベルなどにブルースを吹き込んだ時にはパインウッド・トム(Pinewood Tom)という芸名を使い、ゴスペルを歌う時と名前を使い分けていた。
 この人にはもともと音楽的な才能があったのだろう、残された音源を聴いてみても、どんなジャンルの音楽もソツなく巧みに演奏している。そんな洗練された音遣いが、逆にブルースファンには受けが良くなかったのかもしれない。


AUTOGRAMレーベルのLP、1003。この中にJoe Taggardの1928年シカゴ録音4曲を収録していて、ホワイトが2ndギターとバックヴォーカルを担当しており、若々しい声が聞ける。LPジャケットの写真は、キリストの磔刑像にギターリストを合成したもののようだ。Evangelistとは、「伝道者」ほどの意味。


ソニーのCD、SRCS5511。ホワイトは、1933年と1935年のニューヨークでゴスペル1曲ずつを収録。


コロンビアのCD、CK46215。1934年ニューヨークでの1曲。ピアノはWalter Roland。

 残念ながら、我が家にはジョシュ・ホワイトの単独LP等は無く、上のようなオムニバス盤などになる。が、映像は結構ある。下の画像は、その中からデジカメで撮ったもの。


VESTAPOLのヴィデオ13004。箱の写真は、Roscoe Holcomb。

上のヴィデオから、1965年の映像で「John Henry」を演奏しているところ。


やはりVESTAPOLのヴィデオ13037。箱の写真は、Sylvester Weaver & Sara Martin。

上のヴィデオから、1962年のスウェーデン・テレビの映像から。

同じヴィデオの、やはりスウェーデン・テレビでの1967年の映像で、手前には娘のCarolynがヴォーカルをとっているのが写っている。

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2018年フランス映画『私は確信する』

2021年02月22日 | 映画
 2/19(金)千葉劇場にて。監督は、アントワーヌ・ランボー。原題は『Une Intime Conviction』で、実際にあった事件をもとに制作された作品。





 フランス南西部トゥールーズで、38歳の女性スザンヌが失踪。彼女には3人の子供と夫、それに恋人もいる。遺体が出ないにもかかわらず、夫である法学の教授ジャックが殺人罪で逮捕・送検される。裁判では1審で無罪、検察が控訴し10年後に始まった2審の裁判から映画は始まり・・。

 サスペンス仕立てになった、なかなかよくできた作品だった。制作者が意図したかどうかわからないが、この作品には、自由恋愛といわれるフランス社会の影の部分が色濃く表現されている。一度だけの人生の中で、時にパートナーを替えて恋愛や子育てを自由に楽しむ。そんな光の陰には必ず深い闇が隠れているものなのだろう。嫉妬や、裏切られたと感じるときに生ずる憎悪。それらは、時に激しい暴力を伴いかねない。フランスの年間失踪者は、4万人だという。この映画の失踪者スザンヌも、結局最後まで見つからずに終わる。

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玉子値上がり

2021年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
 先週、このブログでも書いたが、ここ千葉では鳥インフルエンザが流行しており、採卵用の鶏が大量に殺処分されている。わたしも知らなかったが、鶏卵の産出額全国一位は茨城で、二位は千葉だそうだ。消費地が近いこともあるだろうが、それほどの鶏卵が地元で生産されているとは少し驚いた。
 2/14現在、両県で鶏の殺処分数は約五百四十万羽、に上っているという。それが為、我が家の近くのスーパーでも鶏卵価格に高騰の兆しが見られる。今のところ、1パック10円ほどだが、大量に消費するケーキ屋さんとか卵焼きを作っている工場などでは、かなりの痛手らしい。コロナウィルスの感染報道に隠れているが、鳥インフルエンザの流行も注視したいことだ。

 それにしても、昨日2/17の島根県知事の「東京は、オリンピックをやる資格がない」という発言は印象的だった。

 もっと早い時期にオリンピックの中止を決め、感染経路の特定をして、徹底的な対策をとっていれば現在のような混乱は起きなかったのだ。そんな思いが発言の背景にはあるのだろう。一言でいえば「苛立ち」だ。わたしも含めて、人口密集地に暮らす者は、疫病に対する認識をしっかりとしたものにしないと地方に暮らす人たちを巻き込んでしまう。都市部の混乱は地方にまで波及する。そんな問題意識を持つことの重要性を、昨日の島根県知事の発言は促しているように感じた。

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わたしのレコード棚ーブルース119 Blind Boy Fuller

2021年02月15日 | わたしのレコード棚
 ブラインド・ボーイ・フラー(Blind Boy Fuller)は、本名フルトン・アレン(Fulton Allen)。1907年7月10日にノース・キャロライナ州Wadesboroで生まれ、としている資料が多いが、下のLPのポール・オリバーによる解説では1903年サウスカロライナ州Milledgevilleの生まれ、としている。亡くなったのは、1941年2月13日にノース・キャロライナ州Durhamで。30歳代の若さだったが、大酒飲みで、それが為の慢性腎臓病だったと言われている。
 この人は短い人生だったにもかかわらず、約150曲の録音を残しており、影響力のある人でもある。ギターの腕はしっかりしたもので、かなりポップな曲も多く手掛け、当時の人達には新鮮な音楽に聞こえたことだろう。ただ、我が家にある音源から判断すると、けっこう露骨に受けを狙ったものも多い気がする。少し例を挙げると、「Shake It Baby」などはまだいいにしても、「I'm A Rattlesnake Daddy」や「Sweet Honey Hole」などは性的なものを連想させ、少しウンザリする。もう少し詩的に表現して欲しいところだが、まあ、ストリートで、通りゆく人の足を止め、コインを投げ入れてもらうためにはこうなるのかもしれない。

 下のCD解説によると、この人は生まれつきの盲目ではなく、20歳近くになってから徐々に視力をなくし、1929年頃には完全に見えなくなっていたという。その頃すでに結婚しており、生活のためタバコの生産地であったダーラムに引っ越し、妻はタバコ工場で働き、フラーはゲーリー・デイビスなどからギターを習い、街角でギター演奏をしていたらしい。
 このCD解説内に興味深い話がある。ある1933年の書類が残っていて、それは公共福祉局が地元の警察署長にあてたもので、フラーが警察署管内の許された場所で演奏をする許可を求めたもの、だという。ストリートでの演奏は、「ゲリラ的」と言っては言い過ぎかもしれないが、人の集まるところを狙って小銭を稼ぐために邪魔にされてもめげずに神出鬼没で演奏する、そんなイメージだった。が、少なくともノースカロライナでは、それなりの理由があるものには、しかるべき公共機関が許可を出し、ある意味その保護下になされたものだったのだ。「演奏許可証」のようなものもあったのかもしれない。


ソニーのCDで、SRCS5508。国内盤で、ブルース・バスティンの解説(三井徹訳)と歌詞(対訳)つき。1935年から1937年までの、ヴォキャリオンへの録音20曲を収録。


ARHOOLIEレーベルのLPで、BLUES CLASSICS11。1935年から1940年までの14曲を収録。ウォシュボードのブル・シティ・レッドやブルースハープのサニ・テリーが加わったものを集めた名盤。

 1911年ノースカロライナ生まれのサニ・テリーは、すでにこの時に円熟の演奏を聴かせている。フラーの死後は、ブラウニー・マギーがその後の相棒となり、戦後も長く活躍した。ちなみに、ブラウニー・マギーは1915年テネシー州の生まれだが、若い頃からテントショーなどで旅回りのギターリストをつとめ、フラーに強く影響を受けており、その演奏スタイルはイーストコーストのものと言える。マギーは、当初「Blind Boy Fuller #2」を名乗り、フラーの死後『The Death Of Blind Boy Fuller』という曲を歌ったりしているほどである。

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鳥インフルエンザ

2021年02月11日 | ライブ
 千葉市中央区にある我が家の近くのスーパーで、卵の棚に空きが目立ってきた。「品薄」というほどではないが、以前に比べて入荷が減っているようだ。

 千葉県では鳥インフルエンザの流行で、すでに400万羽ほどの採卵鶏が殺処分されている。これは、県全体の採卵鶏の3分の1に当たるという。単純に考えれば、卵の生産も7割ほどに減る事になる。他から仕入れれば良いのだろうが、一時的に店の在庫数が減少しても不思議ではない。

 コロナウィルスの感染者数に気を取られて、鳥インフルエンザの拡大が陰に隠れてしまっているが、こちらもかなり危機的状況にある。元々、感染症の専門家がパンデミックとして予想していたのが、鳥インフルエンザが人間に感染するような変異種が発生した場合だった。特に、鳥を介して変異するH5N1型といわれるインフルエンザが流行した場合は、かなり深刻な被害が予測されており。それは、単なる可能性ではなく「時間の問題」とも言われている。

 現在、千葉県内では防護服を着た職員などが大量の鶏を殺し、地中に埋める作業を延々と続けている。誇張ではなく、これは非常に危険を伴う作業だ。おそらく、野鳥などを介して感染が拡大しているのだろうが、これ以上感染が拡大しないことを祈るしかない。

 念のため都市の中でも、鳥の死骸など見つけた場合は安易に手を触れないよう心掛けた方が良いだろう。

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わたしのレコード棚ーブルース118 Willie Walker

2021年02月08日 | わたしのレコード棚
 イーストコースト・ブルースといわれる、アメリカ東部地方のブルースを考えるとき、ウィリー・ウォーカー( Willie Walker)Vo&gという、どうしても忘れてはならない人がいる。資料によると、録音したのは1930年12月にジョージア州アトランタでサム・ブルックス(Sam Brooks)backVo&gと組んでの4テイクだけで、その内で当時リリースされたのは2テイクのみ。なので、今のところ我々が聴くことが出来るのはオムニバスCDなどに納められたこの4テイクからの「South Carolina Rag」と「Dupree Blues」だけだ。

 ロバート・サンテリ著『Big Book Of Blues』によると、生まれはサウスカロライナで1896年というから、ゲーリー・デイビスと出身州も生まれ年も同じことになる。しかし、亡くなったのは早くて、同州のグリーンヴィルで1933年3月4日。なので、37歳位だったことになる。先天性の梅毒症で、生まれつき目も悪くBlind Willie Walkerとも呼ばれ、亡くなったのも同じ病だったという。


 オーストリアのDOCUMENTレーベルのCD5062。1927年から1930年までの古いラグタイム・ギターの演奏を集めたオムニバスの名盤。ウィリー・ウォーカーが3曲入っている。その中で、マトリックス・ナンバー(原盤の通し番号)は「Dupree Blues」が151063-1、「South Carolina Rag」(take-1)が151065-1で、同じく(take-2)が151065-2になっている。そこから推測すると、「Dupree Blues」に、-2という別テイクがあった可能性が強い。が、ナンバーが飛んでいるのも気になるところ。
 
 YAZOOのオムニバスCD『East Coast Blues』解説によると、ウィリー・ウォーカーとサム・ブルックスの二人は、1920年頃からコンビを組みサウスカロライナ州のグリ-ンヴィルで活動していたという。そして、多くのイーストコースト・ブルースマンに大きな影響を与えた。ちなみに、やはりサウスカロライナで1914年に生まれたブルースギタリスト、ジョッシュ・ホワイト(Josh White)はウォーカーの演奏をじかに聴いており、次のように語っている。
 「He was the best guitarist I've ever heard・・(彼は、わたしが聞いた中で最も優れたギタリストだった)」『Max Jones, Josh White Look Back,Part2,[Blues Unlimited,56](September 1068),P16.』

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2021年の「ライト」ブルース・セッション

2021年02月04日 | ライブ
 すでにこのブログでもかいたが、今年の千葉のライブハウス「ライト」ブルース・セッションに関して確認のため書いておく。1月はライブハウスのお正月休みで無し、そしてこの二月も緊急事態宣言の発令下の中で休業しているので開催は出来なくなっている。さらに、当初2/7までだった緊急事態宣言は延長され、3/7までになった。感染者数によっては、前倒しで早めに解除する可能性もあるというが、今のままでは3月も開催が危ぶまれる状況だ。

 コロナ禍で、首都圏では患者の受け入れ先が見つからず、救急搬送が出来ない事態も出てきている。これは、「逼迫(ひっぱく)」ではなく「崩壊」だ。救急隊員達は、自らも感染する危険を冒して必死で受け入れ先を探している事になる。このことをよく認識しておきたい。さらに、無症状、つまり自覚症状がない人が感染を広げるのがコロナウィルスの怖いところだ。つまり、自分でも気づかないうちに加害者になっていることになる。このことも、よくよく認識しておきたい。今年の春はスギ花粉の飛散も多く、昨年の1.8倍の予想が出ている。そうなると、無意識のうちに目や鼻に手を触れることになるので、コロナウィルスに感染する危険も多くなる。わたしも花粉症なので、気を付けたいところだ。

 いろいろと留意しなければならないことも多く、そうなるとフラストレーションと言うよりもストレスが溜まってくる。外はコロナという嵐が吹いていると考えて我慢するしかなさそうだ。
 専門家の話を総合してみても、緩やかな規制を長く続けるよりも、短期間集中して厳しく移動を制限した方が感染拡大を抑え込むことが出来、経済の回復も早くなる、という。
 しばらくは専門家の意見を聴いて、最低でもコロナを含めた病気の人やケガの人がスムースに搬送される状況になるまでは、自粛に努めたい。


 画像にあるSAITO‟G”というのは、ギタリストで千葉にあるギターショップ「ルイジアナ・ギターズ」のマスター。わたしではなく、縁戚でもないので、念のため。

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わたしのレコード棚ーブルース 117 Pink Anderson

2021年02月01日 | わたしのレコード棚
 ピンク・アンダーソン( Pink Anderson)は、本名Pinkney Anderson。1900年2月12日サウスカロライナ州ローレンス(Laurens)に生まれ、1974年10月12日に同州スパルタンバーグ(Spartanburg)で亡くなっている。この人は、生まれつき芸達者だったようで、子供の頃からスパルタンバーグの近くの路上で歌ったり踊ったりして小銭を稼いでいたらしい。1915年頃から、というから15歳の頃にはメディシン・ショー(薬を売るために人を集める役割を負うショー)に参加して旅回りをしていたという。それは、1950年代半ばまで続いたが、病を得て引退。その後、1960年代に入り「フォークムーブメント」が起こり、「再発見」されるに至った。ちなみに、ロックグループのピンクフロイドは、この人の名前からそのグループ名を頂いているらしい。


 Fantasy社のRIVERSIDEというレーベルのCD148。Gary DavisとのカップリングCD。東部ピードモントブルースを代表する二人のブルース・ゴスペル・ミュージシャンということでこの様な編集になったと思われる。
 ピンク・アンダーソンは1950年5月29日ヴァージニア州Charlottesvilleで録音された7曲を収録。比較的早い時期の録音なので、声にも張りがあり、ギターの音にも力がこもっている。アンダーソンの録音経歴を調べたところ、1928年に当時コンビを組んでいたSimmie Dooney(1881~1961)とコロンビアへ4曲吹き込んでいる。が、これは残念ながら我が家にはない。
 ゲーリー・デイビスは1956年1月29日ニューヨークでの8曲で、こちらも録音時60歳に近い年齢ながらも、若々しく且つ円熟味もある演奏を聴かせてくれる。私が好きな1枚。


 これが、S.チャータースが、サウスキャロライナのスパルタンバーグでフィールド録音に近い形で収録した、やはりFantasy社のレーベルBLUESVILLEのCDOBCCD-504-2。我が家には、このCDの元となったLP(BV1038)もあるが、LPの方は全部で10曲。CDは、ボーナストラックが1曲ついて全11曲になっている。


 上のCDを録音した際に、S.チャータースが、サウスキャロライナのスパルタンバーグで当時の8ミリフィルムのようなものを使って撮影したと思われるフィルムからの映像をデジカメで撮ったもの。子供に教えているところで、アンダーソンの自宅前と思われる。画像はかなり不鮮明。


 1970年にノースカロライナで撮られた映像。『Blues Up The Country』(VESTAPOL13037)というヴィデオから、テレビ画面をデジカメで撮った一枚。70歳の頃で、すでに衰えは隠せないが、好々爺として親しみが持て、貴重な映像ではある。

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