文化逍遥。

良質な文化の紹介。

小曽根真のショスタコービッチ

2013年09月29日 | 音楽
先週9/22NHKのEテレで放映された小曽根真氏(以下敬称略)と広島交響楽団との共演によるショスタコービッチは素晴らしかった。(ピアノ協奏曲第1番Cm作品35、収録は2013/8/5広島フェニックスホール)
ジャズ系のピアニストである小曽根真がショスタコービッチを弾くというので興味半分で視聴したのだが、正直舌を巻いた。テクニックもさることながら、曲に対する理解度が非常に深く、ショスタコービッチとはいえクラッシックの曲を暗譜でしっかり弾いた上で管弦楽にも配慮できる余裕さえ感じられた。ただ、リズムのアクセントが楽団と少しずれているように感じられたが、それは「ゆらぎ」の範囲内と言え、さらに味わい深い演奏になっていた。クラッシック・ファンの中には、これを「くるい」として排除する人もいるようだが、この「ゆらぎ」というのが音楽には大切な要素なのだとわたしは考えている。正確なだけならコンピューターに譜面を入力して演奏させればいいだけの話だが、そんなものは誰も聴かない。
広島交響楽団も非常にレベルの高い楽団だな、と感じた。なにより、団員達が小曽根真の演奏を本当に喜び、賞賛している姿が印象深かった。
一昔前は、クラッシックの演奏者は他のジャンル、特にジャズのプレーヤーと共演することに抵抗があったと聞いている。かなり以前だが、原信夫の回想インタビューが新聞に掲載されたことがあった。それによると、シャープ&フラッツのコンサートのためにホールを借りることにすら苦労し、クラッシックのピアニストに応援を頼んだ時はまともに口もきいてくれなかっった、という。
硬直した価値観からは何も生まれない。寛容と共存のために貢献できる音楽をこころざしたいものだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彼岸花

2013年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
Amaryllis

近くの公園で咲いていた赤と白の彼岸花を携帯でパチリ。
夕方で光が足りず少しブレている。
この夏は暑さが厳しく、夕方になっても気温が下がらなかったので散歩に出ることもほとんどなかった。
久々に出かけてみると、夏草が生い茂り、ツクツク法師が夏の終わりを告げるかのように鳴いていた。
すでに、新米がスーパーの店頭に並び、来月には来年のカレンダーが書店に並ぶ。
夏が終わると季節の進行がとても早く感じる。
夏の疲れが出るためか、秋に体調を崩すことも多い。栄養と休養、それしかない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台風接近中

2013年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム
午前9時現在、台風18号は愛知県に上陸したらしい。
こちら南関でも風雨が激しくなってきた。
休日で良かったなあ。千葉方面から東京に行くと江戸川・荒川・隅田川など大きな川があり、それらの橋梁上で基準を超える風速を観測すると電車は止まってしまう。かつて同じ職場だった人は荒川の橋梁の手前で電車が止まってしまい、文字どおり身動き出来なくなった挙句に駅まで線路上を歩くはめになったこともあった。
台風などの時は比較的天候に左右されない地下鉄の路線を選んで行くようにするのだが、早く家を出なければいけないし、いずれにしても混乱のなかを通勤するのはしんどい。

明日からは、デジタル・アーカイブの仕事。
ブログをやるくらいだからPCには詳しい、と思われがちだが実際にはあまりパソコンの操作はうまくない。むしろ、苦手意識があるくらいだ。文学部の出身なので文章を書くことは苦にならないが、情報を保存したり変換したりするのはどうもスムースにいかないことが多い。若い人たちがスピーディーにパソコンを操っているのを見ると、正直うらやましい。
しかし、仕事なのだから苦手などと言っても言い訳にならない。せいぜい迷惑にならないよう気を付けたい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加曾利貝塚2013/8

2013年09月07日 | 考古・エッセイ
朝日新聞の千葉版に『加曾利再考』という記事が7/31から6回に分けて連載されていた。かなり内容が濃く、地方版だけで掲載されるのは惜しい記事だった。
内容を要約すると、以前は「ゴミ捨て場」とされていた貝塚が最近の研究でなんらかの宗教的な意味を持った重要な場所だったことが明らかになりつつある、ということになろう。
発掘された1960年代は、考古学的に当時重要と思われていた土偶や土器にばかり目が向いていて、貝の種類や量あるいは貝塚の形状などに関してはほとんど無視されていたのだ。

Kc3n0064
撮影は、8月2日。復元された住居が見えている。


Kc3n0068
貝塚の裏手にある都川支流。今は里山のようになっている。この川を利用して海から貝などを船で運んだのではないかと考えられている。ここから海までは数キロだったらしい。湿度の高い海辺を避けるとともに、当時の人々は津波などの自然災害を避けることができる立地を選んだのだろう。縄文人たちは、こと自然に対しては現代人よりもはるかに畏敬しその中で生きていくすべを知っていたのだ。


Kc3n0071
北貝塚にある断層観察施設。実に整然と貝などが積み上げられている。
これを見ただけでも「ゴミ捨て場」では無いことが理解できる。が、人間の先入観とは怖いもので、この施設の入り口には発掘当時のままに「ゴミ捨て場にずぎなかった・・・」との石碑がある。



7%の発掘で100体ほどの人間の骨も確認されている。それゆえ、少なくとも全体で1000体を超える人骨が、2万トンとも言われる貝殻、あるいは魚の骨や犬の骨、土偶・土器などとともに環状に埋められていると考えられる。ところが、円形の貝塚中心部からは何も出てこない。つまり、ここはストーンサークルのような神聖な場所だったのだ。人々は、生命の再生を願ってここの中央部で祈ったのだろう。極めて重要な史跡であることは疑いない。1960年代の考古学者の視点が狭いものであったにしても、この一帯を開発しようとした動きに歯止めをかけ保存運動に取り組んだ人たちに感謝と敬意を表したい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする