文化逍遥。

良質な文化の紹介。

2020年ボスニア・ヘルツェゴヴィナ映画『アイダよ、何処へ』

2021年09月29日 | 映画
 9/27(月)、千葉劇場にて。コロナウィルス感染症第5波もどうやらピークアウトし、今月いっぱいで緊急事態宣言も解除になりそうだ。まだまだ油断はできないが、感染対策をしっかりした上で少しずつ活動してゆきたい。というわけで、久々に映画を見に行ってきた。

 ボスニア戦争末期、実際に起こったジェノサイド(虐殺事件)を基に、国連平和維持軍の通訳として働く主人公アイダの苦悩を描いた作品。アイダは、紛争前は学校の教師であり、二人の青年の母であり、校長を務める夫を持つ妻でもある。1995年7月11日、国連軍の空爆計画を示した最後通牒を無視して、セルビア軍はボスニア東部の町「スレブレニツァ」に進行し、住民の中からボスニア軍の戦闘員とおぼしき男達を集めて虐殺してゆく・・・。





 この作品はヨーロッパ各国の合作で、制作国は以下のとおり。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、オーストリア、ルーマニア、オランダ、ドイツ、ポーランド、フランス、ノルウェー、トルコ。言語は、ボスニア語、セルビア語、そして国連軍が話すのが英語。監督はヤスミラ・ジュバニッチで、このブログでも2011年に紹介した『サラエボ、希望の街角』の他に、『サラエボの花』などボスニア紛争をテーマにしたすぐれた作品を制作している。監督自身、10代の頃にこの紛争を経験しているという。

 セルビア軍の兵士の中には、アイダのかつて教え子もいる。映画の終わり頃、紛争が終わって雪の日に自宅マンションに戻るアイダが映し出される。しかし、そこには他の家族がすでに住み着いている。「部屋を開けてちょうだい」というアイダに、胸にセルビア正教の十字架を下げた主婦は「まだ危険ですよ」と言う。「失うものは何もないわ」と、アイダ。全編に深い苦しみと緊張が漂い、観る者に生き続けることの意味を問いかける、そんな作品。


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わたしのレコード棚ーブルース153 Otis Rush

2021年09月26日 | 音楽
 夫人が日本人だったこともあり、オーティス・ラッシュ(Otis Rush)の来日回数は多く、日本でも馴染みのあるブルースマンと言えるだろう。わたしも2度ほど生の演奏に接していて、1度目は1986年九段会館で日本のブルースバンド「ブレイクダウン」と共に行った公演。2度目は、2004年に新宿のパークタワー・ホールでのブルース・カーニバルでだった。双方共、シカゴのウェストサイドブルースと言われるギターのリードを前面に打ち出した演奏で、左利きで弦を右利きのまま張るギタリスト特有の音質、特にチョーキングした時の緊迫感が印象に残っている。ちなみに、九段会館の時の使用ギターはES-335 で、新宿の時はストラトキャスターだったと記憶している。特徴の違うギターを使っても違和感が無く弾きこなしていて、ギタリストとしての底力を感じた。

 生まれは、1934年4月29日ミシシッピ州のフィラデルフィア(Philadelphia)。亡くなったのは、2018年9月29日シカゴだった。2004年初頭に脳梗塞を発症。その年の春に来日して演奏したわけだが、サポートするギタリストがいたものの聴いていてさほどの衰えは感じなかった。しかし、それ以降は後遺症が悪化して演奏からは遠ざかり、晩年は車いすでの生活となった。

 8歳の頃から独学でギターを習い、教会の聖歌隊で歌ったりした事もあるという。1948年頃シカゴへ出て、クラブなどで演奏。1956年にインディーズレーベルのコブラに初録音。1960年からはチェスに録音しているが、この人は、実力の割には録音の機会には恵まれなかった、とも言われている。


 P-ヴァインのCD1804。1985年7月、テキサス州オースチンにあるクラブ「アントンズ」でのセッション13曲を収録。ジャケット写真左上から、エディ・テイラー、ジミー・ロジャース、パイントップ・パーキンス(後方のベーシストはボブ・ストロジャー)、バディ・ガイ、そして下段左からオーテス・ラッシュ、ジェームス・コットン、サニーランド・スリム、ヒューバート・サムリン。当時のアーバンブルースを代表するブルースマン達がそろって参加していて、ラッシュは「Double Trable」を演奏している。


 ジミー・ドーキンスのCDで、「Tribute To Orange」EVIDENCE26031-2。全13曲の内、1974年11月録音5曲でラッシュがギターを弾いている。

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わたしのレコード棚ーブルース152 Albert Collins

2021年09月22日 | わたしのレコード棚
 1988年7月、東京の日比谷野外音楽堂。やっと梅雨が明けて、蒸し暑かった日と記憶している。「ジャパン・ブルース・カーニバル」の最後に出てきたのが、アルバート・コリンズと彼のバンドだった。コリンズが登場して、最初のフレーズを弾いただけで、聴衆は総立ち。異様な雰囲気に包まれたのを、よく覚えている。

 生まれは、1932年10月1日テキサス州レオナ(Leona)。亡くなったのは、1993年11月24日ネバダ州のラスベガスだった。ライトニン・ホプキンスが母方の親戚だったと言われ、資料によっては従兄弟としているものもある。育ったのはヒューストンで、最初にバンドを組んだのは1952年。20代前半にはセッションギタリストとしてレコーディング活動を始め、その後は様々な地方のレーベルにレコーディングしている。
 1966年にカンザスシティーに移動しているが、主な活動はヒューストンだった。1969年、ロサンゼルスのIMPERIAL(インペリアル)レーベルからコンタクトがあり、西海岸へ移動しアルバムを制作している。1972年にインペリアルを離れTUMBLEWEEDレーベルへ移るが、アルバムを1枚出しただけで、1977年にアリゲーターと契約するまではレコーディングの機会に恵まれなかった。アリゲーターでは、1987年までの10年間に多くのアルバムを制作し、大きな賞もとっている。

 この人は、テレキャスターを使い、オープンF マイナーでチューニングする。特異なチューニングと言われる。モダンブルースでオープンチューニングを使う人は、スライド奏法で弾くプレーヤーを除き、確かに珍しい。思いつくところでは、ロニー・ジョンソンが5弦と6弦を1音下げるドロップGというチューニングを使うが、ジョンソンはジャズ系のプレーヤーでコリンズとはスタイルがかなり異なっている。一方で古いカントリーブルースでは、スキップ・ジェイムスなどのベントニアスタイルで4弦と5弦を一音上げるオープンEマイナーチューニングを使う。さらにそれを全体に半音上げてチューニングすれば、オープンF マイナーになるわけだ。つまり、伝統的な変則的チューニングをさらに進化させた、と言えないこともない。テレキャスターは高音の抜けが良いエッジの効いた音が出せるが、このF マイナーチューニングにより、さらに「氷を割る(Ice Pickin')ような切れ味の鋭い」独特なサウンドが出る。リードを取る時には、ほぼ1弦から3弦のみを使っていたと言われている。サステインの効いた8ビート系のロックのノリに近いブルースは好き嫌いの分かれるところだが、ブルースロックに対する影響力は大きい。

 ギターを弾く人なら、このチューニングでキイを変えるときはどうするのか、という疑問を持つだろう。カポタストを使うのだ。例えば、E の曲では11フレットにカポを付けることになる。普通なら、この方法ではリードパターンが決まってしまい、つまりワンパターンに陥りやすいが、そうならないのがこの人のすごいところ。


 アリゲーターからの1枚目のアルバム『Ice Pickin'』ALCD4713。これはLPをそのままCD化したもので、8曲を収録。1977年頃の録音と思われる。

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電子書籍の読み上げ機能

2021年09月19日 | ライブ
 すでに、このブログでも書いたが、最近は図書館の電子書籍サービスを利用して、パソコンで本を読んでいる。

 目が悪くなってきたので、文字を拡大したり、読み上げ機能を使って、何とか目に負担をかけないように利用している。全ての電子書籍にそういった機能が使えるわけではなく、「リフロー」と表示されている本に使える機能だ。読み上げはコンピューターによる合成された声で、人工知能(AI)を駆使して自動的に文字の音声化が行われているようだ。なので、必然的に「誤読」がかなり加わっている。以下に、例を挙げてみる・・。

樋口一葉(ひぐち いちよう)をヒグチ カズハ。
正岡子規(まさおか しき)をマサオカ ホトトギス。
清国(しんこく)をキヨクニで、昔のお相撲さんの四股名みたいになっている。
さらに、お経をオケイ、米をベイ。

 まあ、「重箱読み」という言葉があるように、日本語では音読みと訓読みが混ざり、早い話が慣用により読み方が決められている。なので、慣用から外れた読み方になっても仕方ない部分もある。一方で登場人物の名前などは、フリガナが付いているときにはルビを読み込むのだが、フリガナが無いと別の読みになってしまうことがある。例えば・・「茂代」に(もよ)というフリガナがあればモヨと読まれるが、無い時はシゲヨとなってしまう。それ故に、聞いているとまるで登場人物が二人いるように感じてしまう。人工知能もまだまだこれから、ということか。
 今の段階では、目の見えない人や子供には、まだまだ利用できないと感じる。それでもなお有効性はあり、いずれは読み上げの精度が上がり、視覚に障害のある人が多様な本を自由に利用でき、あるいは子供の教育用のツールとして使える時代が、いずれは来ることを期待したい。
 

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わたしのレコード棚ーブルース151 Pinetop Perkins

2021年09月15日 | わたしのレコード棚
 ピアニスト・ヴォーカリストのパイントップ・パーキンス(Pinetop Perkins)は本名ジョー・ウィリー・パーキンス(Jo Willie Perkins)、1913年7月7日ミシシッピ州ベルゾーニ(Belzoni)に生まれ、2011年3月21日にテキサス州オースチンで亡くなっている。晩年まで演奏を続け、97歳で自然死したと言われている。ミュージシャンは、どうしても不規則な生活になるので体を壊しやすいが、健康を保ち天寿を全うした稀有な人だった。こういう比較が適当なのかは分からないが、何しろ、ロバート・ジョンソンが1911年の生まれなので、ほぼ同世代。そんな人が2011年まで生きて長く演奏していたのだから驚きと言うほかはない。
 パーキンスは、1904年生まれのピアニストでパイントップ・スミスの弟子にあたる。スミスは1929年に亡くなっているので、そのニックネームを貰って使ったらしい。1943年頃に、ロバート・ナイトホークに誘われて彼のバンドに参加。デルタ地方やヘレナのジュークジョイントやパーティなどで演奏。ナイトホークがシカゴに行ってからは、サニーボーイ・ウィリアムソン(ライス・ミラー)と共にヘレナのラジオ番組「キング・ビスケット・タイム」でプレイ。1940年代の終わりころにはメンフィスに移動し、1950年にサン・レコードに「Pinetop's Boogie Woogie」を吹き込んでいる。その1年後にはシカゴに移動し、60年代にシカゴの主だったブルースマンと共演。そして、1969年にマディ・ウォータースのバンドに、オーテス・スパンのあとを受けて参加する。バンドへの在籍期間は約12年で、その間にヨーロッパツアーにも参加している。我が家にパーキンスの残した録音はあまりないが、あるものだけ下に紹介しておこう。


 すでに、このブログでも紹介したL.C.ロビンソンのARHOOLIEのLP1062で、ジャケットの裏面。パーキンスはA面でピアノを弾いているが、1曲ソロを取り、すでに述べた「Pinetop's Boogie Woogie」が入っている。日常的に演奏を共にしているメンバーとのセッションで、ノリの良いブギウギピアノを演奏している。この曲は、パーキンスの師匠であるパイントップ・スミスのオリジナル。


 さらにジャケット裏面、右上の写真を大きくとったもの。録音時の1971年8月に撮影されたものだろう。右端がパーキンス。中央で担がれているのがL.C.ロビンソン。他は、当時のマディ・ウォータースのバンドメンバーで、左から二人目がドラムスのWillie Smith、右から二人目でパーキンスの肩に手をかけているのがベースのCalvin Jones。この二人は、後に1980年頃、パーキンスのオリジナルバンドに加わることになる。


 アリゲーターレーベル設立20周年記念盤オムニバスCD。パーキンスは、ブルースの名曲「Blues After Hours」を名演している。。


国内盤P-VINEのCD1804。テキサス州オースチンにあるブルース・クラブ「アントンズ」10周年を記念して、1985年7月に行われたライブアルバムのジャケットより。後ろに写っているのは、ベースのBob Strogher。

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感染者数は減少傾向だが

2021年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
 首都圏の緊急事態宣言は、今月いっぱいまで延長された。今年に入ってから、まん延防止措置や宣言が出されていない期間はほとんどない。

 コロナウィルスの感染者数は先週からかなりな減少傾向で、首都圏では前週比で6割ほどまで落ちている。ここ千葉でも昨日9/12(日)は、久々に500人を切っている。このまま収束に向かってくれれば、それに越したことはない。が、感染症の専門家は「不自然な減り方」という人が多い。人口の半分ほどのワクチン接種率では、集団免疫の獲得による現象とは考えにくく「その要因は不明」という専門家の見方が妥当だろう。

 感染症が収まる時は、原因不明の場合が多いことは歴史が教えてくれている。古くはコレラなど、あるいは最近では、エボラ出血熱が例として挙げられる。強烈な感染力を持つウィルスでも、ある程度猖獗を極めると収束に向かう。その場合、専門家でも本当の減少した原因は分からない、という。あるいは、細菌やウィルスにも種としての生命力の衰えみたいなものがあるのか、宿主の生命を根こそぎ奪うことは細菌やウィルスの種の保存を脅かす危険があるので自然に抑制されるのか。コロナウィルス自体の感染力が以前に比べて落ちている、という専門家もいる。

 いずれにしろ、素人考えによる非現実的な楽観はやめておいた方が良いだろう。用心に越したことは無く、油断せずに過ごしたい。

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わたしのレコード棚ーブルース150 L.C.Robinson

2021年09月09日 | わたしのレコード棚
 L.C.ロビンソンは、本名ルイス・チャールズ・ロビンソン(Louis Charles Robinson)。テキサスの人で、9歳頃からギターを始め、ブラインド・ウィリー・ジョンソンにスライド奏法を教わった、といわれている。そのジョンソンとの関係について、LPライナー・ノーツではロビンソンの「Uncle」すなわちオジにあたるとしている。しかし、ロバート・サンテリ著『The Big Book Of Blues』では、「The Brother In Law」すなわち義理の兄弟としている。が、確実なことは、分からない。
 生まれにつて、ウィキペディアは1914年5月13日、LPライナーや『The Big Book Of Blues』では1915年5月15日としている。生地については、LPライナーはテキサス州オースチン(Austin)、ウィキペディアなどは同州ブレンハム(Brenham)としている。亡くなったのは、1976年9月26日カリフォルニア州バークリー(Berkeley)だった。
 音楽的な才能に恵まれた人で、ヴォーカルやギターだけでなく、ラップスチール、ヴァイオリン、なども弾きこなすマルチプレーヤーだった。当初は、生まれ育ったテキサスでゴスペルやブルースを演奏していたが、1940年頃に西海岸へ移り、1957年頃までクラブなどで演奏していたという。生業としてクリ-ニングの仕事をしていたらしいが、1971年になってアーホーリーへの録音の機会が訪れる。下のLPがそれである。



 ARHOOLIEレーベルの1062。A面5曲は、1971年8月9日サンフランシスコでの録音。この時は、マディ・ウォータースがツアーで西海岸を回っており、マディ・ウォータースが監修し、マディのバンドメンバーがバックを務めて、1日でスタジオ録音したようだ。B面5曲は同年12月17日やはりサンフランシスコの別のスタジオで、バックをDave Alexander's trioに換えて録音されている。メンバーは、ピアノにDavid Alexander,、ベースにWilliam Hyatt、ドラムスにTeddy Winstonという編成。
 ブルースでヴァイオリンを使う人は少ないが、居ることはいる。古いところでは、ミシシッピー・シークスのロニー・チャットマン、あるいはサウス・メンフィス・ジャグバンドなどで活躍したウィル・バッツなど。二人とも情操の富んだ、メロディックな音使いだった。比較的新しいところで名前を挙げると、ゲイトマウス・ブラウンだが、この人はブルースに限らない多様な音楽が出来る人で、ヴァイオリンを使うときはどちらかというとテキサスやルイジアナの風土に根差した音楽を演奏するときだった。それに比してロビンソンは、エッジの効いたシティブルースをヴァイオリンで演奏している。その点では稀有な人だった。


 LP裏面。右上の写真、中央で担がれているのがロビンソンで、他はマディのバンドメンバーと思われる。左から3人目がハーモニカのチャーリ・マッセルホワイト。右端で帽子をかぶっているのがピアノのパイントップ・パーキンスだろうか。他のメンバーは写真に写っているのが誰かは特定できない。が、名前を挙げておくと、ギターがJames MadisonとSamuel Lawhorn、ベースがCalvin Jones、ドラムスがWillienSmith、となっている。A面3曲目で、パイントップ・パーキンスがご機嫌なブギウギ・ピアノを聴かせてくれている。そのパーキンスについては、ページを改めて書くことにする。

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内橋克人氏を悼んで

2021年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム
『市場競争一辺倒からの脱却を訴え、人を大事にする「共生経済」を提唱した経済評論家の内橋克人(うちはしかつと)さんが一日、急性心筋梗塞のため死去した。八十九歳。神戸市出身。・・・』(東京新聞9/4)

 要するに、内橋さんの言わんとしたことは「欲望のままに経済を拡大していては、人はダメになる。マネーゲームという名の搾取を止めて、質素でも安定した、皆に福祉がいきわたるような着実で持続可能な経済体制を築こう」ということだった。成長一辺倒の経済は自然環境を破壊し、いつか破綻して人を傷つける。いや、荒廃はすでに進んでいて、経済と人の心の崩壊は世代を超えて続くようにも見える。内橋さんは、それを止めようとして苦しんでいたように感じられる。

 長い間ご苦労様でした。ご冥福をお祈りいたします。

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ブルースセッションずっと中止のまま

2021年09月01日 | ライブ

 千葉市のライブハウス「ライト」で毎月一回第一土曜日に行われているブルースセッションは、今月も中止。今年は1度も開催出来ておらず、緊急事態宣言の度重なる延長で再開の目途も立たない。そんな状況の中で「ライト」だけでなく、千葉市内の多くのライブハウスが休業を余儀なくされている。なお、画像の中「SAITO"G"」というのは、千葉市内にあるギターショップ「ルイジアナギターズ」のオーナー店長のこと。早く「ライブ開催のお知らせ」を載せたいものだ。

 厚生労働大臣は解除の目安として、東京の1日の感染者数が500人を切ること、と発言。そうなると、休業を余儀なくされているライブハウスを含めた飲食業の再開は、かなり厳しい。先週から、首都圏では感染者数が減少傾向ではあるものの、陽性率は下がっていない。ピークアウトして、このままコロナの収束が見えてくればよいのだが、昨日8/31(火)、ここ千葉県の感染者数は、先週の火曜日よりも多かったし、まだまだ油断はできない。


 そんな中、公益社団法人「認知症の人と家族の会」全国版会報『ぽーれぽーれ(2021年8月号)』で、会長の鈴木氏が次のように書いている。
『菅首相は、「国民のいのちとくらしを最優先に」とよく言いますが、それなら、感染拡大の中で、敢えてオリンピック・パラリンピックを強行し、国民に我慢だけを強いることは直ちにやめていただきたい。・・・』

 10年以上この会報を読んでいるが、会長がこの様な厳しい批判をするのを目にしたのは初めてで、介護に関わる人の苛立ちを表していると感じた。またそれは、文化に携わる者全ての気持ちでもあるだろう。首相は曖昧な答弁に終始せず、この様な批判に真摯に向き合ってもらいたい。

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