文化逍遥。

良質な文化の紹介。

わたしのレコード棚―ブルース56、Lightnin' Hopkins

2018年06月29日 | わたしのレコード棚
 ライトニン・ホプキンスは、本名サム・ホプキンス。1912年3月テキサス州センターヴィル(Centerville)に生まれ、1982年1月に同州ヒューストンで亡くなっている。テキサス・アレキサンダーの従兄弟とも甥とも云われている。テキサスで活動し、そこに骨を埋めた人だった。独特のノリを持ち、後のロックミュージックに与えた影響は大きい。自身も、時にエレキギター、それもロックのミュージシャンが好むストラトキャスターなどを駆使したバンドでの演奏なども残している。初録音は1946年頃で、'55年頃まで録音を続けるも一時中断。1959年に、サミュエル・チャーターズに再び見いだされてその後多くの録音や映像を残している。

 以下5枚のアナログLPは、1960年以降のものがほとんどだ。


 ファイアーの原盤から、P-VINEが出した国内版LP104『Mojo Hand』。これがファンの間ではベストといわれ、人気がある一枚。1960年、ニューヨークで、ドラムス、ベース、ピアノなどを加えたセッションだが、バンドのメンバーなどは不詳。


 日本コロンビアから1969年頃に出たLP、SL5011。録音年不詳。解説は三橋一雄氏。


 これも国内で発売された、キングのLP、LAX152。1965年の録音で、バンドが加わっているがベース、ドラムス、ハーモニカ、セカンドギターなどは不詳、ピアノを担当しているのがElmore Nixsonという人。


 キングのLP、GXF38。ブラウニー・マギー、ソニー・テリー、ビッグ・ジョ・ウィリアムスなどとのセッシッション。1960年7月の録音。


 こちらも上記LPと同じメンバーで、テイチクのLP、ULS―6026。やはり、1960年7月の録音なので、上のLPの続編か。


 こちらは、タブ・ミュージック・スクールから発売されていたヴィデオ。1960年から1979年まで、かなり長い期間の映像を編集して収録している。

 今回この稿を書くにあたり、改めてライトニン・ホプキンスを聴きなおしてみた。ギターの演奏パターンはそれほど豊富とは言えないが、歌詞―つまり言葉が実に多様性に富んでいる。それゆえにか、発売されたアルバムは100枚を超えるとも言われているのが肯ける。おそらく、天性の詩人だったのだろう。ロックに繋がるギターテクニックに注目しがちだが、詩人としてのライトニン・ホプキンスの存在を忘れないようにしたい。

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ジョン・ウィリアムス著『Stonerストーナー』2014年作品社刊

2018年06月24日 | 本と雑誌
 図書館から借りて読んだ本から1冊。訳は東江一紀(あがりえ・かずき)。解説によると、本書がアメリカで最初に刊行されたのは1965年。本国アメリカでは一部の愛好家に評価されただけでほとんど忘れられていたという。が、2011年にフランスで翻訳されてベストセラーになり、ヨーロッパ各国で翻訳が進み、さらに本国アメリカでも再評価されるに至ったという。
 著者のジョン・ウィリアムスは、1922年テキサス生まれ。デンヴァー大学で文学を専攻し、ミズーリ大学で博士号を取得。その後は、主にデンヴァー大学で文学と文章技法の指導に当たり、1994年アーカンソー州で亡くなっている。つまり、この小説が評価される20年近く前に亡くなっていたことになる。訳者の東江一紀は、1951年生まれ。200冊以上の翻訳をものし、晩年は癌との闘病の中で本書の翻訳に取り組み、2014年に最後の1ページを残して無くなったという。



 主人公のストーナーは貧しい農家に生まれるが、父の勧めで1910年ミズーリ大学に入学、最初農学を専攻する予定だったが、その後文学に転向。苦学の末、同大学の教員の職を得る。その後、裕福な家庭に育った女性と結婚するが、妻となった人は貧しい暮らしに耐えられず精神的に不安定になってゆく。家庭にも職場にも問題を抱える中で、いつしか若い研究者の女性と深い仲になり・・・。

 第1次世界大戦から経済恐慌、さらに第2次世界大戦という混乱期の中で、文学の大切さを信じ、もがくように耐え続ける主人公。そして彼は歳を重ね、大学の定年に至り癌を発症し死んでゆく。なんの変哲もないストーリーなのだが、その心象風景の描写が実に細やかで、訳も優れている。訳者は、自分の姿をストーナーに重ね合わせていたのかもしれない。久々に心に沁みる小説を読んだ。

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2018年日本映画『ゆずりは』

2018年06月20日 | 映画
 6/19(火)、千葉劇場にて。原作は新谷亜貴子の同名小説。監督は、加門幾生。主人公の葬儀社部長を演じたのは、物まね芸のコロッケこと滝川広志。





 千葉県八千代市にある、中規模のとある葬儀社。日々、内奥に複雑な事情を抱え込んだ人の死が巡ってくる。部長の水島は社長の娘婿だが、その妻を投身自殺で亡くし、今は笑う事も泣くことも無く感情を押し殺したかのような日々を送っていた。そんな時、新入社員が採用される。彼は、若く感受性に富み、周囲を巻き込みながらやがて成長してゆき・・・。
 八千代市は千葉市の隣、歴史がある所だが、今では東京のベッドタウンでもある。この映画、同市も製作協力しており、八千代市商工会議所が後援している。つまり、市のPRにもなっている映画、という側面もあるのかもしれない。映像も美しく、ほんのりとした暖かさがあり泣ける作品だが、正直言って「そううまくいくかなあ」といった疑問も残る。
 主題歌は、「楪~Yuzuriha~」と云う曲で、森本ナムアという女性シンガーソングライターがこの映画の為に作ったという。わたしは知らなかったシンガーだが、音程もしっかりしているし声も発声も良い。優れた才能を持ったミュージシャンが、それこそ『ゆずりは』の如くに世代を引き継いでくれているようで、なにやらうれしかった。

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わたしのレコード棚―ブルース55、Johnny Shines

2018年06月16日 | わたしのレコード棚
 ジョニー・シャインズ(Johnny Shines)は、1915年4月26日テネシー州フレイザー(Frayser)に生まれ、1992年4月20日にアラバマ州タスカローザ(Tuscaloosa)で亡くなっている。わたしのレコード棚―ブルース54で取り上げたロバート・ロックウッド・ジュニアーと同い年で朋友ともいえるブルースマン。1934年頃ロバート・ジョンソンと出会い、演奏旅行を数年共にした、という。そして、ジョンソンのスタイルをかなり忠実に継承したギタリストでもある。1938年にジョンソンが死んでからは、メンフィス周辺で活動し、その後1941年にシカゴに移動したらしい。
 1946年以降、何度か録音の機会を得たらしいが、発売に至ったものは少なく、運良く発売されたものもセールス的には失敗に終わったという。そして、1958年頃にはミュージシャンとしての活動を停止するも、1960年代中頃に再び再開、ヨーロッパそして日本にも訪れている。


 1975年3月、東京の郵便貯金ホールでのライブ録音。徳間音工から出た国内版LP、BMC-2003。アコースティックギター一本で、かなり原曲に忠実なロバート・ジョンソンのナンバーなどを演奏している。使っているギターは、ギブソンのB-25と思われる。
 これは、当時の音楽誌などでは、かなり評判が悪かった演奏だ。が、個人的にはとても好きな一枚で、大切にしている。遠い日本まで来て、「手さぐり状態の抑制された演奏」とも聞こえるし、あるいは招へい元の要求もあったのかもしれない。なので、シカゴブルースの持つ場末の泥臭さ、あるいはデルタの田舎臭さ、などを求めるブルースファンにとっては物足りないのかもしれない。しかし、先入観なしに聴けば、ここにあるのは確かに良い音楽だと感じる。繊細な音使いで、彼なりに細かく工夫したギター演奏が随所に聞きとれる。特に、最後に入っているゴスペルナンバー「Nobody's Fault But Mine」は、アコースティックギターの繊細な音と抑制されたヴォーカルで秀逸。わたしの目標とする演奏でもある。



 ロックウッドの項でも紹介したLP、ROUNDERのLA-25-5002。1981年4月の録音。シャインズは、1980年に脳卒中の発作に襲われたらしいので、この時には、既にギターを思い通りには弾けなくなっていたのかもしれない。ヴォーカルのみを5曲で担当している。

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わたしのレコード棚―ブルース54、Robert Lockwood jr.

2018年06月12日 | わたしのレコード棚
 ロバート・ロックウッド・ジュニアは来日回数も4度と多く、日本のブルースファンにとっては最も馴染みが深く、ブルース系のギタリストにとっては目標とされる一人と云える。生まれは、1915年3月アーカンソー州ヘレナの西に位置するマーベルあるいはターキースクラッチ、亡くなったのは2006年11月オハイオ州クリーブランドだった。91歳で亡くなるまで演奏を続けていたらしく、演奏家としても人としても天寿を全うした稀有な人だった。
 名前に関しては、ロバート・ジュニア・ロックウッドと呼ばれる事が一般的だが、これは母親の再婚相手だったロバート・ジョンソンからギターの手ほどきを受けた為で、出生名はロバート・ロックウッド・ジュニアになる。本人も、ロバート・ジョンソンからギターを教わったブルースマンとして有名になったことは本意では無かったらしく、ヨーロッパなどでロバート・ジョンソンの事ばかり訊かれるのは嫌っていたらしい。考えてみれば、ロバート・ジョンソンは、1911年生まれだからロックウッド・ジュニアとは4歳しか違わず、27歳で死んでいるので、ギターを教わった期間は短い。さらに、二人の演奏家としてのキャリアは、かなり差があり、ロックウッド・ジュニアの方がはるかに長く豊かだ。ギターの演奏技術も勝るとも劣らない、そんな人が、自分の事より若い頃ギターを教わった人の事ばかり訊かれれば、不機嫌にもなるだろう。

 最初の単独での録音は、1941年7月の「Take A Little Walk With Me」といわれ、これは『RCAブルースの古典』で聴ける。その後、1950年代60年代はチェスレーベルのバッキングギタリストとしてサニー・ボーイⅡのバックなどを多く務めている。その後、一時音楽から遠ざかっていたらしいが70年代に音楽活動を再開し、自身の名義になるレコードを残している。以下は、すべてアナログLP。



1972年、デルマークレーベルでのエイシスと共に行った記念碑的LP。これは、日本版P-ヴァインから出たものでPLP-736。このジャケットの写真に写っているギターは、グレッチというアメリカのメーカーのものだが、これを見てこれと同じタイプのギターを買いに走ったファンもいたという。


1974年11月にエイシスと共に来日した時のライブ録音。トリオのPA6024。背景に新幹線が写り込んでいる。この時のロックウッドは、体力・気力共に充実していたらしく、声に張りがありギターも冴えている。世界中の数あるブルースのライブ録音の中でも、秀逸と言っても過言ではないと云える。わたしは、この時高校3年で、なまいきにもブルースに興味を持ち始めていた時期で、このライブに行くつもりでいた。が、当時の国鉄(今のJR)のストがあり行くことが出来なかった。今でも残念だが、その後、1985年7月の読売ホール、1990年7月のサウンドコロシアムMZA、1995年12月の新宿パークタワー、と3回も生演奏を聴けている。このことは、幸運だった。


1982年11月にフランスのパリで録音された、アコースティック12弦ギターを使っての単独での録音。Black & BlueというレーベルのMU219。A面は、ロバート・ジョンソンのコピーを6曲。B面は、自身の曲やトラッドのアレンジを6曲。珍しく、オープンGチューニングでのスライド奏法もあり、彼のテクニックや音楽に対する姿勢を感じ取るには良い録音。


朋友とも云えるジョニー・シャインズ(Johnny Shines)と共作した1981年4月、マサチューセッツ州ニュートンでの録音。全体にソウルっぽい感じに仕上がっている。


ピアニストのオーティス・スパンが、1960年8月に録音したLP、CANDID9025。ロックウッドがギターを担当しており、冴えたバッキングが聴ける。

 以下、参考資料。


1985.7.10、有楽町にあった読売ホールの入場券。この時のライブ映像は後に『アーニーズブギ』としてビデオで発売されたらしいが、わたしは持ってない。



1990.7.22、サウンドコロシアムMZAでのコンサートの「お知らせ」。我ながら、よくこんなものをとってあったもんだ。サウンドコロシアムMZAは東京都江東区有明にあったが、この時は地下鉄東西線の東陽町からバスで20分くらいかけて行ったように記憶している。周りは大きな倉庫などが多かった。交通の便が悪いところだったので、この後しばらくして無くなったようだ。

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わたしのレコード棚―ブルース53、Tampa Red

2018年06月08日 | わたしのレコード棚
 タンパ・レッド(Tampa Red)も、生年および生地さらに本名までが資料によりまちまち。1900年アトランタ生まれ、としているものもあれば1903年ジョージア州スミスヴィル(Smithville)生まれ説、同地での1904年説などなど。本名も、ハドソン・ウィタッカー(Hudson Whittaker)あるいはハドソン・ウッドブリッジ(Woodbridge)としているものなど。が、子どもの頃にフロリダ州タンパに移ったためタンパ・レッド(Tampa Red)という芸名を使って、主にシカゴで活躍し、シカゴで1981年3月に亡くなったことは間違いないらしい。
 自身のヴォーカルやギターも優れているが、様々なミュージシャンと共演してバッキングでも多くの名演を残している。



YAZOOのLP1039、全14曲。初期の演奏を集めた名盤。このLPに収録されている『Denver Blues』は、今でもオープンDチューニングによるスライドギター独奏のお手本として教則本に載ることが多い歴史的録音。本人の他、ジョージア・トム、フランキー・ジャクソン、マ・レイニーなどのヴォーカルも入っている。
 余談だが、日本のブルースバンド「憂歌団」の初期の録音は、このLPの中の曲をコピーして、それに日本語の詞を付けたものがある。憂歌団のギタリスト内田勘太郎氏は、タンパ・レッドのこのLPに強く影響されたようだ。



BLUESVILLEレーベルのLP1030。1960年シカゴでの録音10曲。エレキギターやカズーを使っての弾き語りで、単独で録音したもの。個人的には、このLPは好きな一枚。なにか、ほのぼのとしたところがあり、静かに語りかけてくれているようで、聴いているとホッとする。

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6/2、ブルース・セッション

2018年06月05日 | ライブ
 千葉のライブハウス「リンゴ」で、毎月第一土曜に行われている恒例のブルース・セッションに参加してきた。この日も、ほぼ満席。

 いつものことながら、他の参加している人達はモダンなスタイルのブルースがほとんど。どうも場違い、と云うか、スーツを着こなしているおしゃれな人達の中に、汗臭い作業着を着た時代遅れの人間が入り込んだような気になる。それでも、なんとかこの日も2曲演奏させてもらった。
 「Steady Rolling Man」をロバート・ロックウッドのスタイル風に弾き、トラッドの「I'm A Stranger Here(Stranger Blues)」を自分なりにアレンジして、ノーマルチューニングのままボトルネックで弾いた。この日は、バックについてくれたギターの人が使っていたアンプが2曲目の演奏中にトラブルを起こし、音が出なくなるアクシデントがあった。わたしも「なんだ、なんだ?」と、少し動揺してしまい悔いの残る演奏に終わってしまった。それでなくても、エレキギターを使って人前で演奏した経験がほとんどないので、電気系統のトラブル対処法はほとんどわからない。が、それも考えようで、めったにない事を経験出来たのだからそれを糧にして次のステップに進むようにしていきたい。

 ここのライブハウスは、我が家から自転車で行けるところにあり、移動にお金も時間もほとんどかからない。そんな所に経験と修練を積む場があるのはありがたいことだ。なるべく、他の皆さんの邪魔にならないよう心掛けて、これからも続けていきたいと思っている。

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いか八朗さんを偲んで

2018年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム
 いか八朗(いか・はちろう、本名近藤角吾=こんどう・かくご)さんが5月28日、老衰のため亡くなった、84歳だった。高知県出身。

 わたしは、この人について想い出がある。もう30年ほど前になるが、三宅坂の国立演芸場に行った時の事。5月の連休に開催されていた「演芸祭り」の一環で、たしかボーイズ協会の公演だったと記憶しているが、それに出かけて行った時の事。入り口の前で、子どものように小さな人が立っていて「お兄さん、チケット持っている?」と、声をかけられた。ダフ屋かと思いきや、そうではなかった。「僕、いか八朗という芸人なんだけど、自分で売る分の券が残ってるんだ、3000円なんだけど1500円でいいから買ってくれないか」。わたしは、胸に迫るものがあった。ライブハウスなどで出演者がチケットノルマとして自分で売りさばかねばならない一定数のチケットがあるのは承知していた。が、まさか大きな協会の公演で、しかもわずかな出番しかない芸人がチケットノルマを担っているとは思いもしなかった。まあ、考えようによっては、仮に1枚につき1500円が芸人の負担分とすれば、それを3000円でさばければ1500円のマージンが入る。なので、そういう販売ルートを確保している人にとっては、確実な収入源になるだろう。しかし、その時、これが芸人さん達の現実なんだな、と思い知らされたのも事実。わたしは、窓口で買えば3000円なので、それだけ出したかったが、こちらもその頃フリーランスで仕事を始めたばかりで経済的に余裕があるわけでもないので、2000円出して買うことにした。「おつりはいいよ」と言ったあと、暫くわたしの顔をジッと見ていたいか八朗さんの顔を今でも鮮明に覚えている。今にして思えば、あの時3000円で買っておけば良かった、と少し後悔している。

 その日の、いか八朗さんの芸は、サクソフォンを吹きながらの10分程の一人漫談だった。が、少し調べてみたら、この人はかなりマルチなタレントだったらしく、浅草の劇団員からスタートして、作曲をしたり、演芸家、そして俳優として映画などにも出ていたようだ。ご冥福をお祈りします。

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