文化逍遥。

良質な文化の紹介。

ハイパスコンデンサー

2019年03月30日 | ギター


 ブルース・セッションに参加する時に、良く使っているESP製のアルダー材テレキャスターシェイプのギター。写真は、今年(2019年)2月のものだが、比較的軽量で、取り回しが良いので重宝している。が、欠点と云うか、気になる所が2カ所ほどある。ひとつは、ネックを太めにオーダーしたのでヘッド側が重めで、いわゆる「ヘッド落ち」の傾向があること。もう一つは、ヴォリュームを絞った際に高音が弱くなる「ハイ落ち」。そこで、簡単な改良を試みた。


 まず、ストラップを掛けるピンをネックのジョイント部分あたりに移した。これにより、かなり「ヘッド落ち」は改善。このギターは、普通のテレキャスターのようにボルトで留めるのではなく、セットネックなので、この位置にピンを移すことも可能なわけだ。プレヤビリティー(弾きやすさ)はかなり良くなった。ハイポジションでは、ストラップが多少手に当たるため、若干弾きにくくなったが、気になる程ではない。なので、他に所有しているエレキギターも同様にピンの位置を移動した。


 さて、ヴォリュームを絞った際の高音が失われる「ハイ落ち」の改善。ちょっと専門的な話になるが、配線にコンデンサーを加えることで改善を試みた。これは、「ハイパスコンデンサー」と云われるもので、「サウンドハウス」などで購入できる。写真の1が、トーンコントロールのコンデンサーで、これは余分な高音をアースに落とすもの。2が、今回加えたハイパスコンデンサー。ピックアップで拾った高音をホットラインに直接落とすもの。


 ハイパスコンデンサーの拡大写真。このタイプのもので、「サウンドハウス」で900円ほど。かなりな効果はある。が、こんどは逆にヴォリュームを絞った時に高音だけが残って線が細くなる。基本的に、ヴォリュームを8位でアンプにセットして、後は演奏中に微調整する感じで使うのが良いようだ。

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わたしのレコード棚―ブルース68、Elizabeth Cotton

2019年03月26日 | わたしのレコード棚
 エリザベス・コットン(Elizabeth Cotton)は、1895年1月5日にノース・キャロライナ州で生まれ、1987年6月にニューヨーク州で亡くなっている。ブルース・ウーマンというよりは、フォークのシンガー・ソングライターとして見られることが多い。いずれにしろ、優れたミュージシャンであることには変わりない。
 彼女の人生もまた不思議なものだった。LP解説などの資料をまとめてみる。
 出生名はElizabeth Nevills。15歳でFrank Cottonと結婚。後に離婚するが、芸名はそのままCottonを使っていたらしい。1940年代の初頭にワシントンD.C.に出てデパートで働いていた時に、迷子になったペギー・シーガー(Peggy Seeger)を保護したのが縁になり、シーガー家の家政婦となった。ギターは子供の頃たしなんでいたが、シーガー家でマイク・シーガーに接することで再び再開。40年のブランクがあったが、以前作った曲などをマイク・シーガーはテープに録音。下のLPは、そんな過程を経て、シーガー家の中で録音されたものだ。
 ジャケットの写真を見てわかるように、彼女は左利きで、弦を逆に貼り替えずにそのまま右利き用のセットで弾く。つまり、普通は親指で弾く低音側を人差し指などで弾くわけだ。この独自の奏法で、彼女にしか出せない独特の音色になる。



 FolkwaysレーベルのLP、FG3526。1958年頃の録音と思われる。この中に収録されている『Freight Train』は、多くの有名ミュージシャンが取り上げ録音しレパートリーに加えている。
 エリザベス・コットンは、晩年近くまで演奏活動を続け、多くの賞を受賞した。

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蝶花楼馬楽師匠を悼んで

2019年03月22日 | 落語
 七代目蝶花楼馬楽師匠が13日に亡くなった。71歳だった。69年に六代目馬楽に入門。83年に真打ち昇進、91年に馬楽を襲名した。

 噺の中に余計な「くすぐり」などは入れない、どちらかというと目立たぬ芸風だった。が、聴くものをしっかり引きつけて、ほんのりした暖かさが胸に残る伝統的な噺家さんだった。毎年2月に、国立演芸場で行われていた「鹿芝居(噺家芝居のシャレ)」の中心的役割を担うひとりで、わたしも高座を何度か聴かせてもらった。派手さは無いので、テレビなどには不向きな芸だったが、個人的には好きな噺家さんのひとりだった。
 



 2017年2月、国立演芸場中席プログラム。この時、馬楽師匠は『時そば』を掛けたが、逸品だった。この翌年(2018年)でも同じ『時そば』だった。師匠の得意噺だったようだ。この噺は、寄席ではよく掛かり、落語ファンならずとも知る人の多い噺。なので、他の噺家さんのものもかなり聴いたが、特に印象に残っているのは、馬楽師匠のものだ。仕草も抜群で、江戸庶民の生活を彷彿とさせてくれた。

 余談だが、『時そば』は江戸時代の民俗あるいは庶民の経済を知る上で、かなり助けになる。かけ蕎麦に簡単な具が入ったものが16文とされているので、今の「立ち食いそば」の「たぬき」や「きつね」が350円位なのと同じくらいの値段と考えてもいいだろう。その比較で1文がだいたい20円位と推測出来る。1両は、江戸期を通じて変動があったものの4000文位だったので、そこから計算するとおよそ8万円。1分(いちぶ)は、1両の4分の1なので1000文で約2万円。1朱(いっしゅ)は、1分の4分の1なので250文で約5千円。当時は、流通に掛かる費用も現在とはかなり異なるので、一概には比較できないが、江戸期の貨幣価値を知る上での一助にはなるだろう。落語は、歴史を理解する上での生きた証言を内に含んでいると言えるのだ。さらに、噺に出てくる「四つ時」は、およそ今の夜の10時、「九つ」は午前〇時になる。そこを理解したうえで『時そば』を聴くと、さらに味わいが増す。ただし、そんな夜の遅い時間に蕎麦屋が外を歩いていたのかは疑問が残る。江戸期、町々には木戸があって夜間は閉まるし、基本的に日没後は早くに就寝し、夜明前から起き出すのが当時の生活だったろう。と、まあ、そんな時代考証を素人なりにしてみるのも落語ファンの楽しみのひとつ。落語を、単なる「笑い話」と軽く考えるのは、もったいない事なのだ。

 伝統的な噺を、余計な演出を入れずにやって客を引き付ける。そんな本物の落語家が、また一人いなくなった。寂しい限りだ・・合掌・・

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「ライト」ブルース・セッション

2019年03月19日 | ライブ
 3/17(日)夜、移転して新装開店した千葉のライブハウス「ライト」で行われたブルース・セッションに参加してきた。今度の店は千葉駅から歩いて7~8分位のところにある。けっこう広いスペースで、満員になれば40人以上入れそうだ。ステージもきちんと作られていて、新たに購入したというドラムスのセットはもちろん、寄贈されたというアップライトピアノもある。この日、さっそくピアノを弾いた人がいて、アコースティックな響きはやはり良いものだな、と感じた。

 わたしは、フレットレス・テレキャスターを使って2曲演奏させてもらった。
1. Dust My Broom
2. Divin' Duck Blues(『あの川の流れが』オリジナルの日本語歌詞付き)

 これからも、第3日曜に開催される予定という。しかし、日曜の夜ということで、次の日に仕事に行く人はなかなか参加し難いこともあり、参加人数が少なくなりがち。なので、継続してやれるか心配なところもある。わたしも、出来るだけ参加して一助になれれば、と考えている。


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2017年イギリス映画『マイ・ブックショプ』

2019年03月16日 | 映画
 3/15(金)、千葉劇場にて。監督はイザベル・コイシュ。主演はエミリー・モーティマー。原題は『The Bookshop』。





 1959年、イギリス東部にある海辺の田舎町。普段でもスーツやドレスを着て生活する貴族がいる一方で、生活に困窮する貧困層も肩を寄せ合って暮らし、本音と建前、嫉妬や憎悪が見え隠れしている。そんな町で戦争未亡人のフローレンスは、夫との夢だった書店を開き、なんとか切り盛りしていくが・・・。

 イギリス社会の歪みと、閉鎖的地方に暮らす人々の感情の機微を、繊細な映像で綴った佳作。「こんなことが本当にあるのだろうか・・」とも感じたが、主人公フローレンス役の女優さんや、陰ながらフローレンスを支えようとする老人ブランディシュ役のビル・ナイ、さらには後にフローレンスの志を受け継ぐことになる少女クリスティーンを演じた子役の俳優さん達の演技が心に残った。

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灘康次さんを悼んで

2019年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
 灘康次(なだ・こうじ、本名定男=さだお)さんが3月5日亡くなった。89歳だった。芸能好きな人には馴染み深い歌謡漫談グループ「灘康次とモダンカンカン」のリーダ―だった人だが、実は日本の芸能史を語る上では欠かすことのできない重要な人だった。

 以下は、ウィキペディアより抜粋。
 「灘 康次(なだ こうじ) - 1929年3月-2019年3月5日、東京都洲崎遊郭出身。本名は灘 定男。リーダーでありリードギター・ボーカル。関東商業学校在学中に予科練を経て戦後「劇団新生」に入団し歌と芝居を習う。ギターは上原げんとに指導を受けた。1947年頃に元あきれたぼういずの川田晴久(川田義雄)の弟子になり「川田義雄とダイナ・ブラザース」のメンバーになる。横浜国際劇場でボーイズデビュー。1956年、川田義雄の病気療養(翌年死去)に伴い、西方健と「カンカンコンビ」を結成(のちに解散し西方は「ぴんぼけトリオ」(のちの「ザ・ぴんぼけ」)を結成した)。灘は1958年にモダンカンカンを結成。メンバーチェンジを繰り返しながら、2010年代まで長く活動した。第42回芸術祭賞受賞。1995年にボーイズバラエティ協会会長就任。その後、同協会名誉会長。高齢のため、グループとしての活動は休止していたが、2019年3月5日14時10分、肝臓がんのため、89歳で死去。」


 この人の師匠に当たる川田義雄は、日本のボーイズという芸の生みの親、とも言うべき人だった。その川田義雄が中心になったグループ「あきれたぼういず(第一次)」の録音はSP盤で残されていて、わたしもテープを持っている。戦前のものと思われるので、すでに70年以上前の録音と思われるが、今聴いても「こんなテクニックをどこから仕入れたんだろう?」と感じるほど多様な音楽の要素を取り入れた完成度の高いものだった。「モダンカンカン」は、その直系の芸能グループだった。テレビの芸能番組など見ていると、最近の漫談などは随分と芸が変ったなあ、と感じる。良い悪いの判断は横に置くとして、川田義雄や坊屋三郎の築き上げてきた「ボーイズ・ボードヴィル芸」は終わった、とも感じる。


 『アサヒグラフ』1995年12月1日号表紙。「ボーイズ バラエティ協会」創立30周年記念公演の行われたこの年、新宿末広亭の客席に降りて撮影された一枚。写真向かって左が灘 康次、右が坊屋三郎(1910-2002)。やはり1995年頃に、わたしも三宅坂の国立演芸場で行われた同協会の公演でモダンカンカンはじめ協会のメンバー多数をバックにした坊屋のウォッシュボード芸を聴いたことがある。今では、それも大切な記憶となっている。雑誌内のインタビュー記事によると、ギターはギブソンのスーパー400CESで、1960年代前半に70数万円で買ったという。交換レートが1ドル360円で円が安い時代だったが、それを考えあわせても、大卒初任給が数万円の時なので現在の通貨価値にすると300万円位になるだろう。それを、惜しげもなく舞台で使うもの芸人の意地のようなものだろうか・・合掌・・。

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「フラッシュ・フォーワード」

2019年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
 今年も震災忌3.11が近づいてきた。原発事故に伴う帰還困難者が今なお4万人を超え、避難生活をしている。その中で、精神疾患を抱え、そこから身体の病気を併発し亡くなる「震災関連死」が福島では今でも増え続けてているという。

 「フラッシュ・フォーワード」とは、3月2日(土)夜に放映されたNHKのETV特集で取り上げられ、紹介された概念。ただし、まだ心理学会で認定されてはいないという。「フラッシュ・バック」というのは周知の概念で、要するに辛い過去が映像のように蘇ってくるPTSDの症状のひとつ。それに対して「フラッシュ・フォーワード」とは、自分の辛く深刻な未来が脳裏に浮かび上がってくる症状だという。それだけ、周囲に悲惨な死に方をした人が多く、それを実際に見ている経験から将来に希望を見いだせない、ということだろう。辛い現実だ。

 そんな中で、来年にはオリンピックが開催される。「復興五輪」などと銘打っている。が、東京からさほど遠くは無い福島で、将来に希望を見いだせない辛い現実の中で息をするのも苦しい人が数多くいるのに、スポーツ観戦に浮かれる気にはとてもなれない。
 折しも、今年になり水泳の10代の女子選手が白血病を発症して報道番組でも多く取り上げられた。子供のような選手を世界中に転戦させて飛行機で移動すれば、時差により生活は不規則になり、高高度の飛行で自然の放射線量は高く被曝の恐れもある。成長期にある10代なのだ。つまり、内臓も発達段階にある。真剣に選手の事を考えるのなら、過度な練習や、日程的に無理のある移動は規制すべきだ。一時的な成功を称賛するよりも、有意義な一生を送れるように配慮し、リスクを避けるように環境を整えるのが「大人」というものではないだろうか。

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わたしのレコード棚―ブルース67、Robert Pete Williams

2019年03月06日 | わたしのレコード棚
 ロバート・ピート・ウィリアムス(Robert Pete Williams)は、1914年3月14日にルイジアナ州ザチャリー(Zachary)で生まれ、1980年12月31日に同州ローズデイル(Rosedale)で亡くなっている。独自のスタイルでアコースティックギターを弾く、オンリーワン・ブルースマン。ルイジアナ州はフランス領だったこともあり、ザディコやケイジャンなど特有の音楽が存在する地域で、ここ出身のブルースマンは少数派とも言える。それだけに、この人の独自な音楽はもっと注目されても良い様に思うが、今では忘れられた存在なっているようだ。
 その生涯は、波乱に満ちたものだったようだ。1956年に殺人罪でルイジアナ州の刑務所(Angola State Penitentiary)に収監される。42歳頃のことだろうか。当人は正当防衛を主張していたらしい。銃社会のアメリカでは、こういう事態は珍しくないらしい。たとえば、ペグ・レグ・ハウエルは、義弟に脚を撃ち抜かれている。喧嘩した相手が銃を手に持ち迫ってくる、そんなことは珍しくは無い、ということだ。さて、そのルイジアナ州の刑務所に1959年、ハリー・オスター(Harry Oster)という人がフィールドレコーディングにやってくる。オスターは、収容所に収監されている者の中で音楽を演奏出来るものを選び、地域の歴史的音楽を残そうとしたようだ。その中に、ロバート・ピート・ウィリアムスが入っており、後にLPレコード化に繋がることになる。1959年12月には、オスターが保証人になり仮釈放され、農場での作業などに従事し、1964年には完全に自由の身になったという。

 もともとプロのミュージシャンでは無い為か、録音に関しては出来の良いものは少ない、という印象がある。本来ミュージシャンとしての才能も力も併せ持っている人なのだが、やはり白人を前にしての演奏には戸惑いと過度な緊張があったのだろう。下にある5枚のLPレコードの中でも、残念ながら、実力を発揮しているものは限られている。なので、過小評価されているようにも感じる。我が家には、ルイジアナのウィリアムスの家で撮影された映像などもあるが、むしろそれらの方が余計な力が抜けていて良い演奏に感じる。


 ARHOOLIEの2011。これと下のLPが、1959~'60にかけてオスターがルイジアナ州の刑務所で録音した音源。これは1959年の分で、ウィリアムスの他に、ホッグマン・マキシー(Hogman Maxey)とギター・ウェルチ(Guitar Welch)という人のフィールドレコーディングも入っている。12弦ギターも使っているが、おそらくは録音者のオスターが持参したものと思われる。


 同じくARHOOLIEの2015。1959~'60にかけての録音分で、ロバート・ピート・ウィリアムスだけでの演奏9曲を収録。個人的には、これが気に入っている。写真は、上のものと同じに見えるが、着ているのは囚人服らしい。


 BLUES BEACONというドイツのレーベルのLP、631000。ジャケット裏には、1972年3月にドイツのスタジオで録音となっている。スライド奏法中心の演奏。


 WolfというオーストリアのレーベルのLP、120.919。1974年マイアミ大学でのライブ盤。写真を良く見ると分かるように、アコースティック・ギターにデアルモンドらしきピック・アップを装着している。音はエレキギターに近くなっているが、あえて言うと、どっちつかず。ギターの音の増幅というのは簡単にはいかないもんだね。


 サン・ハウスとのカップリングLPで、1966年のライブ録音。周囲がざわついていて落ち着かない雰囲気。緊張している為か、リズムに本来の深さが欠けているように聴こえる。ミュージシャンは、苦労が多いよなあ・・ほんとに。

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わたしのレコード棚―ブルース66、Floyd Jones

2019年03月02日 | わたしのレコード棚
 音楽とは不思議なものだ。若い頃聴いて「音作りが雑だ、あんまり良くないなあ」と感じたものが、歳を取ってから聴きなおすと「これは良い」と、たまらなく感じるものがある。フロイド・ジョーンズ(Floyd Jones)のLPも、そんな1枚だ。生まれは、1917年アーカンソー州マリアナ(Marianna)、亡くなったのは1989年12月19日シカゴだった。
 音の中に南部の匂いが色濃く、その煩雑さがたまらない魅力を感じさせる。昼間は日銭を稼ぐ仕事をしつつ1930年~40年代には南部のジュークジョイント(ライブハウスの様なもの)やハウスパーティーに呼ばれて演奏し、1940年代中頃になるとシカゴに出てマックスウェル通りなどでチップを稼いでいたらしい。演奏活動は晩年まで続けていたらしいが、主な録音は1950年代になされている。


 P-VINEから出ていた国内盤のLP、PLP-9028。A面がJ.O.Bレーベルに吹き込まれた6曲、B面がチェス・レーベルに吹き込まれた6曲、1951-53年の計12曲を収録。A面のバックは、ピアノにサニーランド・スリム、ベースに従兄弟のムーディ・ジョーンズなど。同じくB面は、ハーモニカにリトル・ウォールター、ギターにジミー・ロジャース、そして2曲でアルバート・キングがドラムスを担当している。アルバート・キングのドラムスとは俄かに信じられないが、ジャケット裏にはそうクレジットされているので本当なんだろう。
 ギターの音はやたらと歪んでいるし、チョーキングを多用したギターは和音から遠く、時に小節数もいいかげん。それでも、自然な詩の朗読に聞こえるから不思議。さらに、バックも何故かしっかりと共に進んでゆく。誤解を恐れずに言えば、「生活世界の混沌と調和」かな。モダンブルースでも、言葉を中心に演奏されるのはこの1950年代頃までのように思われる。この後は、「声」ではなく、エレキギター及びアンプの特性を生かした「音」中心の音楽になってゆく。いずれにしろ、ブルースの歴史上重要な録音と言える。
 余談だが、ロックグループのピンク・フロイドは、このフロイド・ジョーンズとピンク・アンダーソンからグループ名を付けたらしい。


 こちらは、ヤンク・レイチェル(vo.mand.g)のLP。デルマークというレーベルから出ていたDS649。録音データが書かれていないので、いつ頃のものかわからないが、おそらく1950年代の録音ではないだろうか。
 フロイド・ジョーンズは、ギターでバッキングを担当している。我が家にある音源で、ジョーンズがバッキングを務めているのはこれだけだ。なかなか、巧みに音を絡ませている。他のメンバーは、ベースにピート・クロフォード、ドラムスにオディー・ペイン。オディー・ペイン(1926~1989)は、若い頃エルモア・ジェームスのバンドに加わっていたドラマーだ。1985年にロックウッドと共に来日した時にわたしもその演奏に接したことがある。今回、このLPを聴きなおして、ペインの生演奏を聴く機会があったことを感謝したくなった。シカゴブルースのドラミングを堪能させてくれた。

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