1984年7月20日、東京芝の郵便貯金ホール。ジョン・リー・フッカーは、コースト・トゥ・コースト・ブルース・バンド(The Coast To Coast Blues Band)と共に来日し公演を行った。前座というか共演は、若きロバート・クレイ(Robert Cray)。その日わたしは横浜での仕事を終え、会場に入ろうとすると「チケットない?」と悲痛な声で呼び止められた。ダフ屋ではなく、熱心なファンがチケットを取れずに、あたりかまわず声を掛けまくっていたようだ。
時に、ジョン・リー・フッカー64歳。すでに、ブルースマンとしてはピークを過ぎていたと思うが、日本のブルースファンは大物の来日にそれだけ期待していたように思う。実際、ステージにフッカーが出てくると、半数以上の観客が立ちあがって興奮し歓声をあげて場内が異様な雰囲気になったものだった。まだ、演奏もしていないのにだ。一部の客はこうした客達に怒り「座れー、見えねえぞー」と、声を発する始末。やがて、場内は静まったが、当のジョン・リーは、当惑が隠せなかったようだ。日本語がわからないわけだから、怒号がいったい誰に向かって発せられているのかわからない。ステージ上のメンバーが、どうすればいいのかわからなくなるのも無理はない。
生まれは1920年8月17日ミシシッピー州クラークスデイル(Clarksdale)、亡くなったのは2001年6月21日でサンフランシスコだった。1943年頃にデトロイト移り、そこで活動した。
この人は多作な人で、おそらく数百曲の録音を残していると思われる。幾通りかの定型のブルースを使いこなし、それに巧みに詞を絡めて多くの曲を作った。悪く言えば「ブルースの言葉の再編成」だが、良く言えば「多作な詩人」と云えるだろう。それゆえにか、コード進行に収まりきれない詞を載せることも多く、いきおい定型をはみ出すことも多い。一人で演奏する分には、それでも何の問題も無い。カントリー系のブルースマンには小節数あるいは拍数にこだわらず演奏する人も多く、むしろそれが普通とも云えるのだ。問題は、バックが付いた場合で、気心の知れたギタリストやピアニストあるいはベーシストなどと二人から数人で演奏する分には何とかなるが、都市部で本格的なバンド編成で演奏する時にはそうはいかない。わたしが聴いた1984年の来日公演でも、むしろ演奏を引っ張っているのはバンドの方だったように感じた。出来れは、数曲でもひとりでの演奏を聴きたかった。
というわけで、この人の録音は、一人あるいは二人位の初期の録音とバンドでの後期のものでかなり好き嫌いが分かれるようだ。わたしは、やはり前期1948年から1950年代前半頃の単独での録音がこの人らしいと感じる。小節数や拍数が変わったり、ミスタッチが入っても、この人特有のドライブの効いたリズムは決してブレない。そこが、ジョン・リー・フッカーのすごいところ。おそらく、1940年代のデトロイトでは、ダンスの為に演奏することが多かったのではないだろうか。まだジュークボックスなど音響機器の無い時代、ブルースマン達の多くはダンスミュージックとしてのブルースを演奏することも多かったのだ。
1948~'51録音のKENTのLP、KST-559。
こちらは、キングヴァンガードから出ていたLP『Vintage John Lee Hooker 1948-1952』。
1991年頃フッカーを慕う有名ミュージシャンがバックアップする形で制作されたLP『Mr.Lucky』。参加したのは、アルバート・コリンズ、ライ・クーダー、カルロス・サンタナ、他。
今は無き千葉パルコ内にあった「タワーレコード」で見つけた10枚組CD。値段はなんと2800円だった。レジでプライスの付け間違いではないのかと確認した程。1948年から1950年代中頃までのおよそ150曲。2001年頃にドイツで作られたらしいが、あまり音質は良くないし、一部の写真が明らかに他のミュージシャンのものが使われていたりで、海賊版に近いコピー商品なのかもしれない。が、フッカーの仕事を知る上では、かなり便利な参考資料ではある。
時に、ジョン・リー・フッカー64歳。すでに、ブルースマンとしてはピークを過ぎていたと思うが、日本のブルースファンは大物の来日にそれだけ期待していたように思う。実際、ステージにフッカーが出てくると、半数以上の観客が立ちあがって興奮し歓声をあげて場内が異様な雰囲気になったものだった。まだ、演奏もしていないのにだ。一部の客はこうした客達に怒り「座れー、見えねえぞー」と、声を発する始末。やがて、場内は静まったが、当のジョン・リーは、当惑が隠せなかったようだ。日本語がわからないわけだから、怒号がいったい誰に向かって発せられているのかわからない。ステージ上のメンバーが、どうすればいいのかわからなくなるのも無理はない。
生まれは1920年8月17日ミシシッピー州クラークスデイル(Clarksdale)、亡くなったのは2001年6月21日でサンフランシスコだった。1943年頃にデトロイト移り、そこで活動した。
この人は多作な人で、おそらく数百曲の録音を残していると思われる。幾通りかの定型のブルースを使いこなし、それに巧みに詞を絡めて多くの曲を作った。悪く言えば「ブルースの言葉の再編成」だが、良く言えば「多作な詩人」と云えるだろう。それゆえにか、コード進行に収まりきれない詞を載せることも多く、いきおい定型をはみ出すことも多い。一人で演奏する分には、それでも何の問題も無い。カントリー系のブルースマンには小節数あるいは拍数にこだわらず演奏する人も多く、むしろそれが普通とも云えるのだ。問題は、バックが付いた場合で、気心の知れたギタリストやピアニストあるいはベーシストなどと二人から数人で演奏する分には何とかなるが、都市部で本格的なバンド編成で演奏する時にはそうはいかない。わたしが聴いた1984年の来日公演でも、むしろ演奏を引っ張っているのはバンドの方だったように感じた。出来れは、数曲でもひとりでの演奏を聴きたかった。
というわけで、この人の録音は、一人あるいは二人位の初期の録音とバンドでの後期のものでかなり好き嫌いが分かれるようだ。わたしは、やはり前期1948年から1950年代前半頃の単独での録音がこの人らしいと感じる。小節数や拍数が変わったり、ミスタッチが入っても、この人特有のドライブの効いたリズムは決してブレない。そこが、ジョン・リー・フッカーのすごいところ。おそらく、1940年代のデトロイトでは、ダンスの為に演奏することが多かったのではないだろうか。まだジュークボックスなど音響機器の無い時代、ブルースマン達の多くはダンスミュージックとしてのブルースを演奏することも多かったのだ。
1948~'51録音のKENTのLP、KST-559。
こちらは、キングヴァンガードから出ていたLP『Vintage John Lee Hooker 1948-1952』。
1991年頃フッカーを慕う有名ミュージシャンがバックアップする形で制作されたLP『Mr.Lucky』。参加したのは、アルバート・コリンズ、ライ・クーダー、カルロス・サンタナ、他。
今は無き千葉パルコ内にあった「タワーレコード」で見つけた10枚組CD。値段はなんと2800円だった。レジでプライスの付け間違いではないのかと確認した程。1948年から1950年代中頃までのおよそ150曲。2001年頃にドイツで作られたらしいが、あまり音質は良くないし、一部の写真が明らかに他のミュージシャンのものが使われていたりで、海賊版に近いコピー商品なのかもしれない。が、フッカーの仕事を知る上では、かなり便利な参考資料ではある。