文化逍遥。

良質な文化の紹介。

わたしのレコード棚―ブルース64、John Lee Hooker

2019年01月30日 | わたしのレコード棚
 1984年7月20日、東京芝の郵便貯金ホール。ジョン・リー・フッカーは、コースト・トゥ・コースト・ブルース・バンド(The Coast To Coast Blues Band)と共に来日し公演を行った。前座というか共演は、若きロバート・クレイ(Robert Cray)。その日わたしは横浜での仕事を終え、会場に入ろうとすると「チケットない?」と悲痛な声で呼び止められた。ダフ屋ではなく、熱心なファンがチケットを取れずに、あたりかまわず声を掛けまくっていたようだ。

 時に、ジョン・リー・フッカー64歳。すでに、ブルースマンとしてはピークを過ぎていたと思うが、日本のブルースファンは大物の来日にそれだけ期待していたように思う。実際、ステージにフッカーが出てくると、半数以上の観客が立ちあがって興奮し歓声をあげて場内が異様な雰囲気になったものだった。まだ、演奏もしていないのにだ。一部の客はこうした客達に怒り「座れー、見えねえぞー」と、声を発する始末。やがて、場内は静まったが、当のジョン・リーは、当惑が隠せなかったようだ。日本語がわからないわけだから、怒号がいったい誰に向かって発せられているのかわからない。ステージ上のメンバーが、どうすればいいのかわからなくなるのも無理はない。

 生まれは1920年8月17日ミシシッピー州クラークスデイル(Clarksdale)、亡くなったのは2001年6月21日でサンフランシスコだった。1943年頃にデトロイト移り、そこで活動した。
 この人は多作な人で、おそらく数百曲の録音を残していると思われる。幾通りかの定型のブルースを使いこなし、それに巧みに詞を絡めて多くの曲を作った。悪く言えば「ブルースの言葉の再編成」だが、良く言えば「多作な詩人」と云えるだろう。それゆえにか、コード進行に収まりきれない詞を載せることも多く、いきおい定型をはみ出すことも多い。一人で演奏する分には、それでも何の問題も無い。カントリー系のブルースマンには小節数あるいは拍数にこだわらず演奏する人も多く、むしろそれが普通とも云えるのだ。問題は、バックが付いた場合で、気心の知れたギタリストやピアニストあるいはベーシストなどと二人から数人で演奏する分には何とかなるが、都市部で本格的なバンド編成で演奏する時にはそうはいかない。わたしが聴いた1984年の来日公演でも、むしろ演奏を引っ張っているのはバンドの方だったように感じた。出来れは、数曲でもひとりでの演奏を聴きたかった。

 というわけで、この人の録音は、一人あるいは二人位の初期の録音とバンドでの後期のものでかなり好き嫌いが分かれるようだ。わたしは、やはり前期1948年から1950年代前半頃の単独での録音がこの人らしいと感じる。小節数や拍数が変わったり、ミスタッチが入っても、この人特有のドライブの効いたリズムは決してブレない。そこが、ジョン・リー・フッカーのすごいところ。おそらく、1940年代のデトロイトでは、ダンスの為に演奏することが多かったのではないだろうか。まだジュークボックスなど音響機器の無い時代、ブルースマン達の多くはダンスミュージックとしてのブルースを演奏することも多かったのだ。


 1948~'51録音のKENTのLP、KST-559。


 こちらは、キングヴァンガードから出ていたLP『Vintage John Lee Hooker 1948-1952』。


 1991年頃フッカーを慕う有名ミュージシャンがバックアップする形で制作されたLP『Mr.Lucky』。参加したのは、アルバート・コリンズ、ライ・クーダー、カルロス・サンタナ、他。


 今は無き千葉パルコ内にあった「タワーレコード」で見つけた10枚組CD。値段はなんと2800円だった。レジでプライスの付け間違いではないのかと確認した程。1948年から1950年代中頃までのおよそ150曲。2001年頃にドイツで作られたらしいが、あまり音質は良くないし、一部の写真が明らかに他のミュージシャンのものが使われていたりで、海賊版に近いコピー商品なのかもしれない。が、フッカーの仕事を知る上では、かなり便利な参考資料ではある。

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イルセ・サン著『鈍感な世界に生きる敏感な人達』2016Discovoer刊

2019年01月27日 | 本と雑誌
 最近はドライアイで眼精疲労が出やすく、なかなか読書もママならないが、比較的軽い読み物や大きい活字の本を図書館から借りてゆっくりと読むようにしている。今回は、そんな本の中から一冊。標題をみれば、ほぼ内容の察しがつくだろう。著者のイルセ・サン(Ilse Sand)は、デンマークのオーフス大学で神学を学んだ心理療法士。デンマーク国教会の司祭を数年間務めた後、現在は主にセラピストとして活躍しているという。

 本の内容には関係ないが、例えば次のようなブルースの詞がある。
「The sun going down,boy - dark gonna catch me here・・(陽が沈み、闇が俺を捉えてゆく・・)」
 ロバート・ジョンソンの『Cross Road Blues』の一説だが、似たようなフレーズはブルースの中には多い。こういった感性は、誰しもが持っているものだと若い頃は思っていた。が、どうもそうではないらしい、と感じるようになったのは自分がかなり歳を取ってからの事だ。競争の中で、数字を上げることで自分の存在価値を見出す。そんな社会で息苦しさを感じずに生きていけるタフな人達が少なからずいる。そして、自分はそこに違和感を感じ、疲れ果てていた。今、リタイアし、やっと自分の時間の流れの中で呼吸していられるように感じている。
 本の中では、敏感な感性の人達をHSP(High Sensitive Person)と呼び、現代社会の中で少しでも生きやすくなる為の対処法を教えてくれている。

 「生きづらさ」を感じる人には、お奨めの一冊。


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1/19、ETV特集『ふたりの道行き・・』

2019年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
 1/19(土)夜に放映されたETV特集『ふたりの道行き「志村ふくみと石牟礼道子の“沖宮”」』は、すぐれたドキュメンタリーだった。最近はテレビの番組で観たいと思うものがほとんどないが、このETV特集は数少ない観たい番組のひとつだ。
 昨年2月に90歳で亡くなった石牟礼道子さん。『苦界浄土』をはじめ、水俣を舞台にした優れた作品群をものしている。わたしもそれらの作品の中のいくつかを読んでいる。が、正直言って見方があまりに被害者に偏っているように感じられ、深く読み込むことはしていない。昭和30年代、わたしの少年だった頃、日本はまだ食料にも事欠き、学校給食では国連の支援によるミルクなどが献立に加えられている時代だった。水俣病の原因企業である「チッソ」は当時肥料を作っており、仮に操業を止めた場合、日本国内の農業生産は3割落ち込んだとも言われている。そうなれば、国内の食糧事情はさらに悪化したことも考えられる。さらに、当時の検査機器では工場排水から直接に有機水銀を検出出来ていなかった。すなわち、測定限界値以下で、その極くわずかな有機水銀が魚介類の中に蓄積していったのだった。それは、当時の常識では考えられない現象だった。それらの事によって原因企業である「チッソ」の責任が多少なりとも免れるわけではないが、事の重大性を考える時、すなわち、後世から公害を広く捉えなおす時、見落としてはならない事実で、そのあたりが石牟礼作品では語られてはいないと思う。公害は単純な過失ではなく、知識に対する安易な信頼、あるいは増産の為なら何をやっても良いという人間の傲岸不遜、そこに遠因があるように思われる。科学技術は、安全性を時間を惜しまず検証し、慎重に利用されるべきなのだ。

 石牟礼さんは、晩年、「自然への畏敬」の大切さ、ということを言っていた。それは、公害が単なる人間の過ちではなく、むしろ傲慢からきていることを長い歳月の後に感じ取っていたように思われる。その「自然への畏敬」は、ITの発達・普及により、ますます喪失されているようにも感じる。人は、落着きを失い、感情のコントロールさえも出来なくなっている。その先には、破壊と崩壊しか見えない。

 “沖宮(おきのみや)”とは、石牟礼さんの最後の作品で能の台本。その衣装の染色を担当したのが草木染めの志村ふくみさん。いつか、機会があったらわたしもそれを観てみたい、と思っている。

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2019/1/18,フォーク ソング de ナイト

2019年01月20日 | ライブ
 1/18(金)、千葉のライブハウス「リンゴ」で、毎月第3金曜日に行われている自由参加のライブ「フォーク de ナイト」に行ってきた。70年代フォークから現在までのフォークミュージックやカントリー、そしてオリジナルソングを演奏する人達が集まる演奏会だ。そんな場で、わたし一人ブルースを演奏して場違いなことをやっている感じもする。しかし、ここは自宅から自転車で行ける所にあり、演奏させてもらったり、他の人と音楽や楽器の話をしたり出来るありがたい場だ。参加費もワンドリンク付きで1000円と安く、テーブルの上にはツマミになるようなお菓子が置かれていて、いくら食べても誰も文句は言わない。まあ、音楽好きなマスターが自分でも演奏するためにやっている同好会に近いような感じもある。が、歌う場を求めて自作の曲を携えて参加する若い人もいる。なので、そういう人達にとっては、次のステップへ進むための貴重な場でもあるだろう。わたしは、この日が2回目の参加だが、この催しはすでに3年続いているという。これからも、続けて欲しいと感じている。

 演奏した曲は以下のとおり。
1、ホイッスリング・ブルース(Whistling Blues、ゲーリー・デイヴィス作のスライドギター独奏曲、オープンD6チューニング)
2、何も欲しくないよ今は(スライド奏法のオリジナル曲、オープンDチューニング)
3、あの川の流れが(原曲はトラッドの『If The River Was Whiskey』で、わたしが日本語の詞をつけたスライド奏法のオリジナル曲、オープンDチューニング)
 以上はソニードのアコースティック・ギターによる演奏で、以下2回目の3曲はノーマル・チューニングで、マスターのエレキギター(カスタムショップへオーダーしたテレキャスター)を借りて演奏した。
4、空の果てまで歩いていきたい(オリジナル)
5、グット ナイト アイリーン Good Night Irene(ヒューディー・レッドベター作ミシシッピー・ジョン・ハートのアレンジ)
6、ホンキートンク(ギター独奏)


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わたしのレコード棚―ブルース63 、B.B.King

2019年01月15日 | わたしのレコード棚
 おそらく、最も知名度の高いブルースマンと云えるB・B・キング。生まれはミシシッピ州で1925年9月16日、亡くなったのは2015年5月14日で、在宅介護を受けていたラスベガスの自宅だったらしい。本名は、Riley B King。芸名のB.Bは、ブルースボーイ(Blues Boy)の略で、1948年頃メンフィスのラジオ局でデスクジョッキーを担当していた時に付けられた愛称だという。
 晩年近くまで人気・実力ともに衰えない演奏活動をしていたので、ミュージシャンとして息の長い稀有な存在だったと云えるだろう。当然、多くの録音を残しているが、我が家にあるのはそれらのごく一部だ。わたしのようにカントリー系の、すなわち田舎のブルースを中心に聴いてきた者からだと、あまりにモダンな音使いが今ひとつ馴染めなかったことが彼の録音をあまり持っていない理由の一つに挙げられる。

 わたしは、昨年(2018年)から地元のライブハウスでのブルース・セッションに参加させてもらっているが、他の人達は、やはりB・B・キングに影響を強く受けている人が多い。そこで、セッションに参加するにあたり、わたしもモダンなブルースを少しずつコピーしたりして取り込もうとしている。あまり、うまいプレイは期待すべくもないが、音の使い方の特徴が少しわかってきた。基本にあるのはブルースの5音スケールで、それに様々なミュージシャンが独自の音を加えている。当然、その加える音によって、そのミュージシャンの特徴が出てくるわけだ。それが、B・B・キングの場合多様性に富み、曲により巧みに変化している。また、リズムの取り方や曲のテーマも他のブルースマンに比べて多様で、歌詞も豊富だ。ブルースというジャンルに、ひと括りに出来ないような音楽とも言え、それこそが世界中で広く受け入れられる素地になっている、と言えるのではないだろうか。逆にいえば、それゆえに素朴なブルースから離れてゆくわけで、わたしを含めた一部のブルースファンには敬遠される点なのかもしれない。が、いずれにしろ、ギタリストとして学ぶべきことが多いミュージシャンであることは疑いない。
 


 MCA原盤のLP『Indianola Mississippi Seeds』。本人はこれが一番気に入っているらしい。


 P-VINEから出ていた国内盤LP『My Kind Of Blues』。キングが影響を受けたブルースマン達のブルースを彼なりにアレンジして録音したもの。わたしは、これが気に入っている。


 こちらはCDで、1964年11月21日にシカゴのブルースクラブでのライブ録音『Live At The Regal』。ファンの間では人気の高い録音だが、聴衆が異常に興奮していて歓声が悲鳴に近くてうるさい。それさえ気にしなければ、ギタリストとしてだけでなく、ヴォーカリストとしてのB・B・キングの力量を良く伝えている。

 ・以下は追記(CDを買ったので、2019/4/24ブログに書いたもの)。

 久しぶりにCDを買った。B.Bキングの初期録音集『Complete Recordings 1949-1962』。6枚組で、全168曲を収録。60~70年ほど前の録音で、著作権が切れている為か2000円程で買えた。レーベルはENLIGHTMENTになっているが、イギリスで編集されたものらしい。こういうものがネットで簡単に手に入る時代になり、ありがたさが半分、面白みが薄れたのが半分。

 さて、わたしが地元のブルース・セッションに参加させてもらって1年になる。セッションとなると、やはりモダン・ブルースが中心になる。そうなると、必然的にB.Bキングの曲を演奏する人が多い。わたしのように、カントリー系のブルースを中心に演奏してきた者にとっては、馴染みの薄い曲も多く戸惑うこともある。具体的には、コード進行やリズムに、カントリー・ブルースには無いものも多いのだ。
 そこで、B.Bキングの初期録音を聴いて、セッションの時に参考にしよう、というわけだ。しかし、聴いてみて感じたのは、やはりルーツはカントリーブルースやゴスペルだ、ということだった。実際、「これは、あの曲を元にして作りかえている・・」と感じる曲も少なくない。その意味では、キングは、伝統的な曲からインスピレーションを得て新たな曲を構成し、それを別の次元に移し替えて自分のものにしてゆく、天才、と云えるだろう。



 彼は子供の頃、ミシシッピーのElkhorn Baptist Churchという教会の合唱団(Gospel Choir)に属して歌っていた、とCD解説にある。やはり、キングのヴォーカルのルーツはゴスペル・クワイアーだった。個人的には、これら初期のモダン・ケント(レコード・レーベルの名前)時代、と云われる録音が気に入っている。

 B.Bキングは、2015年に90歳を前に亡くなった。晩年は糖尿病を患い、それに伴なう合併症に苦しんだようだ。ジャケットの写真の様な若い頃の体型を維持していれば・・とも思うが・・。

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貝塚で初詣

2019年01月10日 | 考古・エッセイ
 1/8(火)、自宅から自転車で15分程の所にある千葉市東寺山貝塚に行ってきた。ここは、貝塚が公園と神社になっているので、少し遅い初詣もかねている。


 公園と写真上に見えるのが神社。この下には貝の層がある。


 信仰心には無縁なわたしだが、遺跡の一部を神社としておくのは保存の観点からは良い事だと考えている。無謀な開発から守れるし、神社だったところに住みたいと思う人は少ないだろう。遺跡の保存料と思って、僅かだがお賽銭をあげてきた。


 北国は雪による交通の弊害も生じていると報道されているが、こちら南関は先月の23日以降雨が降っておらず異常乾燥注意報が出っぱなし。この日もカラカラの晴天。洗濯物が良く乾くのはありがたいが、火事が多いし、インフルエンザの流行も懸念される。




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ブルースセッション、2019/1/5、千葉「リンゴ」

2019年01月06日 | ライブ
 毎月第一土曜恒例、千葉のライブハウス「リンゴ」でのブルースセッションに参加させてもらった。モダンブルースは門外漢のわたしなので、お邪魔させてもらっている、と云った方がいいかもね。毎度毎度お付き合いくださる方々には、さぞやりにくいと思っていることだろう。が、そこは寛容の精神でこれからもお付き合いいただければありがたい。

 演奏曲は、「Dust My Broom」と「Take A Little Walk With Me」 の2曲でギターとヴォーカル。「Dust My Broom」はスライド奏法の曲で、本来オープンDチューニングで弾くのだが、この日は6弦だけ1音下げるドロップDチューニングで弾いた。オープンDは4本の弦を調弦し直さなければならないので、その間、ステージに間が空いてしまう。そこで、簡単にチューニングできるドロップDを使うことで、曲間の空白を埋めようと意図して試みたもの。今回初めてやってみたが、けっこううまくいった。
 あとは2曲、ハーモニカの人の演奏でバッキングを担当した。バッキングの経験はほとんどなかったので、音を合わせるので精いっぱいだったが、けっこう面白かった。また、やってみたい。


 バックで恐る恐る音を出しているところ。音やリズムがずれていないか注意深く弾いているので、緊張が顔に出ている。わたしは、子供のように気持ちが表情に出やすい。麻雀などのゲームでは、テンパイするとニヤっとした顔になるのですぐに他人にわかってしまう。いわゆるポーカーフェイスとは無縁で、絶対に勝てない。損なのか、得なのか。いずれにしろ、方便でも嘘はつけないね。

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2019/1/1、千葉公園

2019年01月02日 | 日記・エッセイ・コラム
 毎年元旦に自宅近くの千葉公園を撮影している。


 人が少なく、静かなので写真も撮りやすい。今年2019年の元日も、こちら南関は、晴天で風も無く穏やかな日だった。


 千葉公園の弁天池。右奥に見えているのは千葉都市モノレール。今年は、渡り鳥は少ない感じだ。


 鴨の仲間のキンクロハジロで、こちらは雄。鳥類は、概してオスの方が色鮮やかだ。メスを引きつけるためとも言われている。


 こちらは、同じくキンクロハジロの雌。


 中央に移っている茶色が混じっているのは、やはり鴨の仲間だがホシハジロ。以前は、この池にもいろいろな鴨類が確認できたが、最近種類が少ない。この日も、キンクロハジロの他にはホシハジロが2羽確認できただけだった。


 ユリカモメ。


 ちょっと見にくいが、杭の上にいるのはセグロカモメで、ユリカモメより一回り大きい。奥に3羽大型の鳥が見えているが、中央の灰色がかった青いのがアオサギ、他がダイサギ。

 この日は、最低気温1.7度。この池の隣にある蓮池の浅いところでは薄い氷が張っていた。日本経済の姿を見る様な気がした。薄氷の上で「好景気」などと云っているがその実、日本銀行が株を買い支えるという前代未聞のアクロバット的危険行為をしている。昨年暮れの株価の暴落を支えたのも、結局は政府・日銀だった。昨年、1年間で日銀が株式投資した額は10兆円とも言われている。わたしは経済学者でも何でもないが、異常な事態であることは間違いない。やがて、それが限界を超えた時、おそらくこの国は未曽有の混乱に陥るだろう。最悪の場合、庶民が食料にも事欠く事態もある、と個人的には考えている。悲観が過ぎる、かもしれない。が、こういう悲観的予測は外れた方がいいのだ。

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