哲学者でハイデガー研究の第一人者である木田 元先生が、8月16日に亡くなった。85歳だった。わたしは直接教えを受けたことはないが、長く中央大学で教鞭をとっておられた優れた研究者だった。合掌。
この夏は、先日も紹介したが、『存在と時間』を読み、その流れで同じくハイデガーの『現象学の根本問題』(木田元監訳、平田裕之・迫田健一訳2010作品社)もざっとだが目を通していた。何かの因縁を感じざるを得ない。
「訳者あとがき」では、次のように書かれている。少し長くなるが引用する。
「ハイデガーは・・・中略・・・デカルト/カントの近代存在論にいたるまで西洋の伝統的存在論には、ある特定の存在概念―つまり〈存在(あること)〉を〈被制作的存在(作られてあること〉)と見る存在概念―がさまざまな変様を受けながらも一貫して継承されていることに気づいた。」p533
この西洋哲学一般に対する問題意識は、木田 元先生も共有されていたと思われる。つまるところ西洋では全ての存在を神の創造物としている前提があり、それに対する体系的な「知」を構築していけば真善美一体となった理想的な地平にたどり着く、といった前提があるのではないか。哲学も科学もその意味では、学の前提としているものになんらの変わりはない。それは、言葉を換えれば、「知」に対する非反省的な信頼―あるいは楽観と言えるだろう。前提となる判断を論理的に整理して新たな知識を得ることは重要なことだ。が、その新たな「知」を別の角度から検証する術を今だ我々は持ちえていない。「知」を制御する方法はどこにあるのだろうか。「人道主義」とか「宗教性」といったものでは、漠然としすぎている。ただ、体系的な「知」を超えようとするとき、論理性をある意味超える必要があるのではないだろうか。
ニーチェが、論理的な散文ではなく、「もの語り」あるいは「箴言」で語ったのは偶然ではない。
この夏は、先日も紹介したが、『存在と時間』を読み、その流れで同じくハイデガーの『現象学の根本問題』(木田元監訳、平田裕之・迫田健一訳2010作品社)もざっとだが目を通していた。何かの因縁を感じざるを得ない。
「訳者あとがき」では、次のように書かれている。少し長くなるが引用する。
「ハイデガーは・・・中略・・・デカルト/カントの近代存在論にいたるまで西洋の伝統的存在論には、ある特定の存在概念―つまり〈存在(あること)〉を〈被制作的存在(作られてあること〉)と見る存在概念―がさまざまな変様を受けながらも一貫して継承されていることに気づいた。」p533
この西洋哲学一般に対する問題意識は、木田 元先生も共有されていたと思われる。つまるところ西洋では全ての存在を神の創造物としている前提があり、それに対する体系的な「知」を構築していけば真善美一体となった理想的な地平にたどり着く、といった前提があるのではないか。哲学も科学もその意味では、学の前提としているものになんらの変わりはない。それは、言葉を換えれば、「知」に対する非反省的な信頼―あるいは楽観と言えるだろう。前提となる判断を論理的に整理して新たな知識を得ることは重要なことだ。が、その新たな「知」を別の角度から検証する術を今だ我々は持ちえていない。「知」を制御する方法はどこにあるのだろうか。「人道主義」とか「宗教性」といったものでは、漠然としすぎている。ただ、体系的な「知」を超えようとするとき、論理性をある意味超える必要があるのではないだろうか。
ニーチェが、論理的な散文ではなく、「もの語り」あるいは「箴言」で語ったのは偶然ではない。