文化逍遥。

良質な文化の紹介。

花見川サイクリングコース、その2上流域

2017年04月27日 | まち歩き
 前回の続きで、4/25午前の話。花見川サイクリングコースをさらに上流へ。


 道はこんな感じで、花島橋から北側は非舗装。平日なだけでなく、この辺りはマンションなどが多い下流域と違って、民家が少ないので静かだ。


 弁天橋。ここまで来ると、千葉市の北端になる。この辺りの開削工事が、最大の難所だったという。幕末の天保14年(1843年)、この地域の掘割普請を老中水野忠邦に命じられたのは庄内藩だった。写真を見ても明らかなように、橋はかなりの高さがある。つまり、丘を切り開いて水を通そうとしていたわけだ。あの高さを人の力だけで、つまり鍬で掘り、掘った土を畚(もっこ)で担ぎ運び上げたわけだ。天保の当時、川の掘割普請を命じられたのは、北側から、沼津、庄内、鳥取、貝淵、秋月、の5藩だったが、自国の領内から人足等を派遣したのは庄内藩だけだったという。それだけ、大掛かりで、困難を伴う工事だったのだ。人足たちは、現在の山形県から、遠くこの地まで歩いて来たのか。その数は推定で、1500人程ではなかったか、と言われている。その中には工事中に亡くなった人もいて、当地に葬られている。故郷や、残してきた家族から遠く遥かな地で、死んでいかねばならなかったのは、さぞ無念だったにちがいない。


 橋近くにある横戸元池弁財天。橋の名は、ここから取ったか。写っている自転車は、わたしの愛車。赤い鳥居が3基見えるが、これらは、かつての競輪の名選手で八千代市出身の瀧澤正光氏が奉納したもの。
 

 さらに上流。この辺り、写真右奥はすでに八千代市になる。調子に乗ってここまで来たら、かなりバテてしまった。重くなった足で、ヒーコラ云いながら自転車をこいで帰ってきた。歳だなあ。でも、また来たい。体調を整えて、印旛沼サイクリングコースまで行ってみたいなあ。


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花見川サイクリングコース、その1中流域

2017年04月26日 | まち歩き
 4/25(火)午前、久々に花見川沿いにあるサイクリングコースまで自転車で行ってきた。気温は20度ほどで、風も穏やか、ウグイスなどの野鳥のさえずりが響く中をゆっくりと自転車で走るのは気持ちの良いものだ。花見川は、江戸期には一方は印旛沼に、もう一方は江戸湾に流れる2本の川だった。舟運の為、現在の中流域を掘って印旛沼と東京湾を結ぶように開削された、いわば人工の河川。江戸時代から、なんども試みられた工事は困難を極め、結局、現在のような河川になったのは1969年になってからという。
 この日は、我が家から川の中流近くに行き、それから上流の八千代市方面に向かって進んでいった。今回は、取りあえず中流域の写真を載せることにしよう。なお、史実については『古文書でよむ千葉市の今むかし―近世編』(2016年崙書房刊)を参照した。


 こちら側は、下流に当たる東京湾方向。写真右側が川。


 川沿いに広がる野原。以前は田畑だったが、今はごらんのとおり。でも、ここに来ると不思議な安心感がある。千葉市にも、こんな風景が残っている。あるいは、湿地なので宅地になりにくく残っているのかも。


 こちらは、上流にあたる印旛沼方向。写真左側が川。ここを進んでいった。


 写真右上に見えている建物はお寺で、天福寺。県指定重要文化財の観音仏があるので、この辺りの地名をとって通称「花島観音」と呼ばれて親しまれている。
 この辺りは泥土層で、開削工事の難所のひとつだったという。幕末の天保14年(1843年)、老中水野忠邦に命じられた鳥取藩は、掘ると水が湧き出すような状態で工事は困難を極めたという。

 続きは、ページを改めて書くことにしよう。

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グレコのテレキャスター

2017年04月22日 | ギター
 わたしも、人生のゴールがそう遠くない年齢になってきたこともあり、少しずつ持ち物の整理を進めている。すでに、蔵書は7割ほど処分し、アナログカメラなどもリサイクルショップに買い取ってもらった。しかし、愛用してきた楽器類はなかなか手放すことが出来ずにいる。本などは、図書館に行けば同じ内容のものが読めるので、その点は心配いらない。が、楽器はたとえ同じメーカーの同一品番のものでも材やグリップ(握り)が異なるので、一度手放してしまうとニ度と同じものを手に出来ない。それでも、必要最低限のものだけを持っていれば良い、とは思うのだが・・なかなか踏ん切りがつかない。まあ、すぐにカネが必要という訳ではないし、すぐに死にそう、という訳でもないので、焦らず少しずつ減らしていこう。というわけで、取りあえずはエレキギターを近くのギターショップ「ルイジアナギターズ」さんに少しずつ持ち込んで、委託販売してもらうことにした。

 下の写真は、1980年頃、学生時代にアルバイト先のデパートで買い求めたグレコのテレキャスター。買値は憶えていないが、定価5万円位だったのを、かなり安くしてもらって買ったように記憶している。このギターはネックをフレットレスのものに換えて、ボトルネックで弾いていた。しかし、売るとなるとフレットレスネックでは無理そうなので、再び元のネックに付け換えた。ギター本体の下に写っているのが、はずしたフレットレスネック。



 ほとんどのパーツは、かなり前に交換済み。ピック・アップも交換してあり、フロントがリンディー・フレーリンで、オリジナルはシングルコイルだったのでキャビティー(穴)を自分でノミで広げて装着。リアは、ダンカンのSTK-T2で、スタックになったハムバッカー。
 弦を張り替え、弦高と倍音を調整、ピック・アップの高さ等も調整して音出し。これが、また、良い音でビックリ。アルバート・コリンズみたいな音が出た。昔の国産ギターは、結構いい材を使っていたんだなあ・・・と、恥ずかしながら今頃気がついた。もっとも、これを買った頃はアンプも練習用の小さなものしか持っていなかったし、パーツやピック・アップもオリジナルのものより今は高品質なものが付いているので、当時は音質的に今ひとつ、と感じたのだろう。材に合った品質の高いピック・アップを付ければ、ジャパニーズ・ヴィンテージといわれる1970~80年代頃のギターも使えるものが多いのではないだろうか。

 35000円位で売りに出そうかと思っていたが、そんな訳で、手放すのが惜しくなってきた。その楽器の価値が、ちゃんとわかる人になら安く譲っても良いのだが、安いからと消耗品のように扱われてはギターがかわいそうだ。人は、悲しいかな、値段で物の価値を判断してしまう。

 当分、我が家の楽器類は減りそうにない。せいぜい、長生きするか。

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わたしのレコード棚―ブルース35、Blind Lemon Jefferson

2017年04月18日 | わたしのレコード棚
 ブラインド・レモン・ジェファーソン―Blind Lemon Jefferson、この人もギターを学ぶ者にとっては大きい存在と言える。
 生まれは1897年テキサス州クーチマン(Couchman)。1926年から1929年にかけて北部シカゴなどで多くの録音をしている。


1974年に、Milestoneというレーベルから出た2枚組LP、全32曲。

 どのLPやCDをみてもこの写真なので、写真はこれしか残っていないらしい。抱えているギターはマーチンのシングルOあたりだろうか。マーチンがスチール弦のギターを生産、そしてその販売を本格的に始めたのが1920年頃と言われているので、現在に繋がるスチール弦を張ったギターを使った黎明期のプレーヤーとも言えるだろう。レパートリーは広く、レッド・ベリーと同じく、言葉の元の意味で「フォーク・シンガー」と云える。実際、二人はコンビを組んで流していらこともあるらしい。リクエストに答えて演奏することもあったのかもしれず、必然的におぼえなければならない曲は多かったのかもしれない。亡くなったのは1929年。経済恐慌のはじまる年の12月、吹雪のシカゴで、凍え死んだとも、寒さによる心臓まひとも言われている。録音した最初の黒人男性ミュージシャンとも言われるブラインド・レモン・ジェファーソンは、極寒のシカゴで32歳の若さで死んだのだった。その前年、1928年シカゴで録音された有名な曲がある。『See That My Grave Is Kept Clean』。この歌も基本的にはトラディショナル、つまり伝統に基づきジェファーソンが構成したものだが、その詞を要約し、あえて意訳すると・・

俺の墓がきれいになっているように祈りたいよ
もうすぐ、あの世に旅立たなきゃならないんだ
脈は弱くなってきたし 指先は冷たくなってきた
棺桶の蓋が閉まる音を聞いた事があるかい?
銀のシャベルで墓穴掘れば 天国へ行けるだろうか
教会の鐘が鳴る頃 俺は旅立つさ

 これが、30歳そこそこの男の歌で、自らの死に様を予見したような恐ろしさまで感じるブルースだ。わたしは、ギターのパートを何度かコピーしようとしているが、60歳になった今でも歌う事は怖くて出来ないでいる。


 1995年にPヴァインから出た16曲入りCD。同年発行の雑誌『ブルース&ソウル・レコーズNO.7』に、このCDのレビューを書いたのはわたしで、CDなどはその時に貰ったもの。今回、このブログを書くにあたりそれを読み返してみたが、当時のブルースに対する思い入れが表れていて我ながら興味深い。我田引水になるが、それを下に引用しておく。なお、執筆名は斎藤業になっている。

 [テキサスのブラインド・レモン・ジェファーソンは、「ブルース」という範疇ではとても捉えきれない多才なギタリストであり、すぐれたヴォーカリストであり、そしてすばらしい詩人である。・・中略・・レモンは独自のコール&レスポンスで歌いあげてゆく。歌い上げてはギターはそれに答え、さらにギターはギターで単弦奏法とストロークでの応答形式になっているという「二階建てのコール&レスポンス」とでも言うべき、他の追随を許さない奏法だった。ここには26年から28年の16曲が収められているが、今もって完全にコピーされた演奏を私は聞いたことがない。](『ブルース&ソウル・レコーズNO.7』p116より)

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国立演芸場4月中席

2017年04月12日 | 落語
 11日(火)、三宅坂の国立演芸場4月中席に行ってきた。



 真打ち(最後に出る意)は、桂歌丸師匠で演目は『中村仲蔵』。芝居噺の大ネタだが、おそらく、これが最後になりそうなので雨の中を出かけて行った。落語好きな人は出演者の顔ぶれを見ると分かるかもしれないが、落語芸術協会の人気・実力を兼ね備えたメンバーが並んでいる。10日間の興行中に歌丸師匠の体力が続かなくなった時を見越して代演が務まる実力者を揃えたようだ。かく言う自分も、あえて初日を選び予約しておいたのだった。
 高座は、というとすでに鼻からの酸素吸入が欠かせない状態になった姿は痛々しく、45分程の長演の後半は声がかすれ気味で、明らかに体力の限界だった。聞いていて、中ほどで切るのではないかと、心配したほどだった。それでも噺のテンポは落とさず、下げまで持っていくところはプロとしての責任を果たそうとする心意気が感じられた。後に続く若い噺家さん達に、芸人のあるべき姿を見せようとしたのかもしれない。

 ごくろうさまでした、と言いたい。

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2014年パキスタン映画『娘よ』

2017年04月07日 | 映画
 4/3(月)、神保町の岩波ホールにて。



 スマートフォンで連絡を取り合えるようにIT化されても、なお旧習の残る部族間のトラブルが絶えないカラコルム山脈の麓。その解決策として政略結婚の対象にされる10歳の少女。娘を連れ、そこから必死の逃避行を試みる母親。日本で暮らす者には、ちょっと想像もつかないことだが、これは実話を基にした映画だという。どの程度の誇張があるのか、それは不明だが、女性がまるで人身御供になっていて、男たちはそれを当然のこととして平然としている。観ているのが辛い映画でもあった。が、それも映画を通して現実を見直し検証することのひとつの方法ではある。
 監督・脚本・プロデュースはアフィア・ナサニエルという女性で、この作品がデビュー作という。旧習の強く残る地方でのロケは、困難が伴ったと思われるが、山岳地帯の映像は見事だった。母親アッララキ(「神アッラーの加護」という意味という)役は、サミア・ムムターズという舞台出身の女優さんで、この人の表情の作り方は迫力があった。逃避行を助けることになるトラックの運転手役は、モヒブ・ミルザー。共に、パキスタン演劇界を代表する俳優さんらしい。パキスタンの演劇、俳優のレベルの高さが想われた。


 それにしても、岩波ホールは空いていた。平日の昼間、2回目の午後1時からの上映だったが、全体の3割くらいの入りではなかったろうか。以前では考えられないことだ。どうかすると、平日の昼間でも混んでいて入場出来ないこともあったくらいだ。特に、最近は若い人の姿がほとんど見当たらない。近隣には大学なども多く、少し前は授業の合間に映画を観る大学生も多かったように思うが、最近ではそんなこともないのだろうか。DVDやブルーレイで、家庭でもそれなりの映画鑑賞が出来る時代になったが、やはりもっと映画館に足を運び、佳作やDVD化されない作品などをしっかりと鑑賞したいものだ。そういえば、我々の世代が通った飯田橋の佳作座や銀座の並木座が無くなって久しい。岩波ホールでは、制作国大使館などの支援、協賛を得られることもあろうが、それにしてもこれからの映画環境が懸念される。

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わたしのレコード棚―ブルース34、Clifford Gibson.

2017年04月02日 | わたしのレコード棚
 ブルース・ギターの歴史を語る上で、目立たぬためか見落とされやすいが、けっして外せない人もいる。クリフォード・ギブソン(Clifford Gibson)もそんな一人と云えるだろう。単音を絶妙なタイミングでチョーキングしつつ、低音と高音を巧みにからませてゆく奏法は、簡単なようで深いところでの修得は困難だ。わたしなどは、思わず「なんてうまさだ」と唸ってしまう。それが、超絶技巧などとはほど遠い、シンプルな演奏であるにもかかわらずだ。地味と言えば地味だが、この人の存在はおそらくギターリストに語り継がれてゆく気がする。また、そうあって欲しいものだ。生まれたのは1901年ケンタッキー州ルーイビル(Louisville)といわれている。その後1920年代にセントルイスに出て、そこで演奏活動を続けている中で録音する機会を得たらしい。このブログの「レコード棚―ブルース33」で紹介したエド・ベルの他に、ピアニストのルーズベルト・サイクスやヒルビリーの人気者ジミー・ロジャース(白人)などとも共演し、渋い音を聞かせてくれている。個人的な思い込みだが、リロイ・カーのピアノのバックで単音奏法のギターをつけたスクラッパー・ブラックウェルは、クリフォード・ギブソンの影響を強く受けたような気がする。



 YazooのLP、L-1027。1929年の録音14曲を収録。この人が録音できたのは、1929年から1931年頃だけのようで、その後の経済恐慌以降はパーティーや路上などの演奏でチップを得、細々と暮らしていたようだ。亡くなったのは1963年12月21日、セントルイスだった。62年余りの生涯だが、録音できた期間は30歳前後の数年のことで、「再発見」されることもなかったわけだ。歳をとってからの演奏を聴いてみたかった。残念だ。

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