文化逍遥。

良質な文化の紹介。

浜田滋郎氏を悼んで

2021年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
 3月21日、フラメンコを中心にスペイン音楽を研究し広く評論・翻訳活動をした浜田滋郎氏(はまだ・じろう、日本フラメンコ協会会長)が亡くなった。86歳だった。
 フラメンコに関しては門外漢のわたしだが、民俗音楽という視点からではブルースと通じるものもあり、けっこう見たり聴いたりはしている。幅広いテーマを取ることが出来るのが、民俗音楽の何よりの魅力。フラメンコは「言葉」が豊富なのだった。それを、丁寧に解説してくれたのが浜田滋郎氏だった。

 ご冥福をお祈りいたします。

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千葉市若葉区、東寺山調整池2021/3/23

2021年03月25日 | まち歩き
 晴れ上がった3/23午前、千葉市若葉区にある東寺山調整池まで行ってきた。千葉市中心部の我が家から自転車で15分ほどで行ける。





 葭川の水源地のひとつで、大雨の時などはここに一時的に水を溜めて、川が氾濫するのを防ぐ役割を負っている。現在は、乾燥しているので、ほとんど水がない状態だった。周囲は遊歩道になっていて、近くに住む人達の散歩や憩いの場になっている。写真の左手、小高い丘の奥に「東寺山貝塚」など複数の遺跡があり、太古よりここが重要な水場だったことが推測される。おそらく、丸木舟で海で採取した貝をここまで運び、上まで運び上げたに違いない。


 こちらは、隣接する里山の田んぼ。桜もちらほら咲き始めている。遠くにマンションなどが見えているが、その先は市街地だ。この辺りは保存緑地で、水田は営農と言うよりも、地元の伝統を守るために行われているようだ。この辺りは千葉市内でも歴史のある所で、道祖神や鎮守の神社なども残り、江戸期からの農業の様子を今に伝える田んぼや畑も残っている。

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わたしのレコード棚ーブルース125 Willie Love

2021年03月22日 | わたしのレコード棚
 ウィリー・ラブ(Willie Love)は、かなりドライブするファンキーなピアノを弾き、ブルースというよりR&Bに近いミュージシャンだ。歌は、まあ、あまりうまいとは言えないが、声の質がハウンド・ドッグ・テイラーに似ているようにも聞こえ、なんとなく味わいがある。1906年11月4日にミシシッピー州ダンカン(Duncan)で生まれ、1953年8月19日に同州の州都ジャクソン(Jackson)で亡くなっている。我が家にある音源は少ないが、ソウル・ブルースの歴史を語るうえでは、重要な人だ。


 ミシシッピーのTRUMPETレーベルのLP、AA-702。このブログ「わたしのレコード棚ーブルース124」のビッグ・ジョー・ウィリアムスで取り上げたLPの表面で、ピアノに向かうウィリー・ラブの姿が印象に残る。写真をよく見ると、着ているスーツはヨレヨレで、靴下をはいていないようだ。当時のミュージシャンの生活が垣間見える様で、身につまされる。

 録音は「Willie Love & His Three Aces」というグループ名でクレジットされている。1951年7月25日分が2曲で、この時のバックを務めたのは、Elmore JamesとJoe Willie Wilkinsがギターとバックコーラス、Otis Greenがテナーサックス、ドラムスは不明だがprobably(たぶん)としてAlex Wallaceとなっている。さらに、同年12月1日分の4曲では、Little Milton Campbellがギター、T.J.Greenがベース、Junior Blackmanがドラムスという構成。
 このレコーディングデータを見て「おおっ・・」と思った人もいるかもしれない。後にブルースファンなら知らない人はいない、というくらいの2人がバックでギターを弾き、コーラスをつけている。言うまでもなく、エルモア・ジェイムスとリトルミルトンである。下の写真2枚は、LP内の解説書にあるもの。


 エルモア・ジェイムス、この録音時33歳。この翌年1952年に、このLP と同じTRUMPETレーベルに、ロバート・ジョンソンから学んだともいわれる「Dust My Broom」を吹き込みヒット。その後、シカゴに出ることになる。エルモアは、第2次世界大戦中の海軍での兵役を終えた後、弟が経営していたラジオショップを手伝っていたという。そこで、修理などを通して電気技術を身に付けた、と言われている。この写真では、小さめのソリッドギターを構えているが、後には色々と工夫して、独自の音色をものにしていったらしい。


 この録音時リトルミルトンは、わずかに16歳だったはず。すでに、ギターのテクニックは完成の域に近づいている。写真は、後のものかもしれない。いずれにしろ、これ以降才能が認められ、ソウル・ブルースの世界でギターリスト・ヴォーカリストとして活躍することとなる。亡くなったのは、2005年8月4日だった。


 LPの解説にある写真は、全体でこんな感じ。中央に写っているのはジャクソンにある「Dianne's Lounge(ダイアンズ・ラウンジ)」という店で1980年の撮影、と書かれている。国道沿いにあるクラブのような店だろう。一人では、怖くて入れそうにない。

 ウィリー・ラブは酒に溺れた生活を送っていたという。この録音の2年後、彼は46歳で亡くなった。

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荒屋敷貝塚2021/3/17

2021年03月18日 | 考古・エッセイ
 彼岸の入りだった17日(水)、墓参の帰りに千葉市若葉区にある荒屋敷貝塚に寄った。







 ここは、千葉市内に5か所ある国指定の史跡のひとつ。特別史跡の加曾利貝塚のように博物館や貝層が観察できる施設があるわけではないが、地表面をよく見ると白い貝が観察できる。夏になると草が伸びて草原になるが、蛇が出るということで迂闊に入らない方が良いと言われている。
 この周辺は貝塚町という所で、その名のとおり貝塚が20か所ほど確認されている。ここのように国の史跡に指定されているところは、好き勝手に造成したり出来ない。が、他のところは最近宅地化が進み、無残にも跡形もなくなっている所も多い。
 発掘するか否かは別にして、歴史を実感することが出来る場所が失われるのは「損失」以外の何物でもない。もったいないことだ。

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わたしのレコード棚ーブルース124 Big Joe Williams

2021年03月15日 | わたしのレコード棚
 ビッグ・ジョー・ウィリアムス(Big Joe Williams)は、本名Joseph Lee Williams。1903年10月16日ミシシッピー州Oktibbehaに生まれ、1982年12月17日に同州Maconで亡くなっている。1975年には来日して演奏もしている。この時わたしは高校生で、残念ながら公演は聴いていない。

 かなりな肥満体の人で、それが為に「ビッグ・ジョー」と言われたようだ。その太った体に無理やりギターを構えた姿が目に焼き付くブルースマンだ。その生涯は、放浪の繰り返えしで、各都市のジュークジョイントやクラブなど、さらには工事現場などでも演奏したという。そんな生活の中で、時に野宿をするようなこともあり、警察に追われて拘束される事もあったらしい。あの体でそんな生活を続けて、よく80歳近くまで生きて晩年まで演奏を続けられたものだ、と感心する。ブルースが聴かれなかった時代でも、したたかに演奏活動を続けた人だったのだ。

 演奏スタイルは、独自にギターヘッドに3個の穴を開けてペグを付け、無理やり9弦にしたギターを掻き鳴らすという、個性の強いものだった。活動歴は豊富で、1920年代の初め頃、というから20歳前後には「Rabit Foot Minstrels Review」というミンストレルショーに参加。1930年代になると、「The Birmingham Jug Band」のメンバーとしてオーケー(Okeh)レーベルに録音。1934年にセントルイスへ出て、1935年にブルーバードと契約。以降10年間ブルーバードへの吹き込みを続け、『Baby Please Don't Go』など後にスタンダードになった曲も多い。共演したミュージシャンも多く、ブルースハープのサニーボーイ#1、ギターのロバート・ナイトホーク、ピアノのピーティー・ウィートストローなど。さらに、10代だったマディーウォータースとも南部を旅回りしたという。


 TRUMPETレーベルのLP、AA-702『Delta Blues - 1951』。これはLPの裏面で、左側に写っている3人の中で、手前がウィリアムス。その奥、向かって左がウィリー・ディクソンで、右がメンフィス・スリム。A面に8曲、ウィリアムスの演奏が入っている。1951年ミシシッピーの州都ジャクソンでの録音。ウィリアムスは粗削りなデルタの特徴を持ち、それがブルースファンにとってはひとつの魅力になっている。が、我が家にある音源を聞いても、その魅力を捉え切れておらず、雑な演奏に聞こえるものが多い。その点、このLPに入っている演奏は、彼の優れた面を良く捉えていて、わたしの好きな1枚だ。


 ミシシッピ・フレッド・マクドウェル(写真右)、とのカップリングヴィデオYAZOOの504。写真に写っているギターのヘッドをよく見ると、糸巻が3個先端部分に増設されているのが確認できる。

 上のヴィデオからの映像。レコーディングデータが書かれていないので、この時の年齢は不明だが、かなり若く見える。

 1~3コースを複弦にしていると思っていたのだが、改めて映像をよく見直したところ、実際に複弦ににしているのは1・2・4コースのようだ。常にこの様なセッティングにしていたかは不明だが、これにより独自な音色が出ていたと推測される。


 別のヴィデオVESTAPOLレーベルの13016より。1972年BBC制作の映像となっている。公園のようなところで撮っていて、眼鏡をかけた好々爺といった感じ。


 ヴィデオ『Mississippi Delta Blues Festival 1984』。このブログを書いていて初めて気づいたのだが、ビッグ・ジョー・ウィリアムスは1982年に死んでいる。なので、1984年のフェスティヴァルに出ているのはおかしい。没年か、このヴィデオの表記のどちらかが間違っていることになる。そこで、インターネットでミシシッピー州Freedomvilleでの Blues Festival で検索したところ、開催されたのはで1978年10月21日だった。アメリカ製品のこうした表記ミスは珍しくない。このブログでも、生没年など複数の資料で異なる場合は、なるべく両方を併記するようにしているのは、その為である。さらに言えば、レコードなどの解説にも、この手の間違いが結構ある。思い込みで書いていると、思わぬ落とし穴に嵌まることもあるので、確認を重ねながら書くようにはしている。

 上のヴィデオからの映像で、75歳の時ということになるので晩年の映像になるが、それほどの衰えは感じさせない。

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わたしのレコード棚ーブルース123 Walter Davis

2021年03月11日 | わたしのレコード棚
 ウォルター・デイビス(Walter Davis)は、わたしのレコード棚ーブルース121で取り上げたヘンリー・タウンゼントと同じくミズーリ州セントルイスで活躍したピアニスト及びヴォーカリスト。生まれは、1912年3月1日ミシシッピー州のグレナダで、亡くなったのは1963年10月22日セントルイスだった。
 


 OLD TRANPレーベルのLP、OTー1213。1930-1933年の録音だが、本人は何故かピアノを弾いておらずヴォーカルだけで、ルーズベルト・サイクスやジェイムス・ジョンソンがピアノを弾いている。1曲だけ、prob(たぶんー可能性ありの意味で、すなわち確実ではないこと)でヘンリー・タウンゼントがギター演奏となっている。年齢を考えると、デイビスがまだ20歳前後の録音になるので、あるいはピアノの演奏に不安があったのかもしれない。
 写真を見てわかるとおり、スリーピースを着こなしてポーズを決めており、なかなかにオシャレで、セントルイスでショービジネスに携わっていた黒人の意地のようなものを感じさせる。

 LP裏面。

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わたしのレコード棚ーブルース122 Henry Townsend

2021年03月08日 | わたしのレコード棚
 ヘンリー・タウンゼント( Henry Townsend)は、1909年10月27日ミシシッピー州Shelbyに生まれ、2006年9月24日ウィスコンシン州Mequonで亡くなっている。96歳の天寿を全うした人だった。ブルースマンは、乱れた生活を送ったり、あるいは殺されたりして短い生涯を終える人も多い。が、タウンゼントのように長命を保つ人も結構いる。
 この人はヴォーカルのほか、ギターだけでなくピアノも巧みに弾き、音感に優れた人だったようだ。下のLPやヴィデオの解説などによると、幼少期にはイリノイ州カイロに引っ越し、9歳の頃にそこから家出。1921年頃にセントルイスへ出て、靴磨きなどをしていたという。セントルイスでは、そこを拠点とするヘンリー・スポルディングというピアニストからピアノを、ロニー・ジョンソンからギターを学び、ものにしていったらしい。経済恐慌の後1930年頃よりルーズベルト・サイクスやウォルター・デイヴィスなどのピアニスト達やビッグ・ジョー・ウィリアムスなどのギターリスト達と活動し録音なども残している。また、セントルイスを訪れたブルースマン達とも共演を重ね、その中にはロバート・ジョンソンもいたという。
 タウンゼント達が活躍したセントルイスも1950年代中頃にはブルースシーンは衰退し、保険の外交員などをして糊口をしのいだ時期もあったという。1960年近くになりサム・チャータースに発見されて、再び演奏を始めた。その後は、伝統的な音使いに新しい工夫を加えたオリジナリティーのあるブルーススタイルで長く活動した。キャリアは長く豊富なので、もっと評価されてもおかしくないミュージシャンの一人だ。
 


 セントルイスにあるNIGHTHAWKレーベルのLP201。1979年の録音で、ヴォーカルとピアノの演奏13曲を収録。タウンゼントに関するかなり詳しい解説と、一部の曲の歌詞カードが付いている。録音時70歳くらいだろうが、声には張りがあり、洒落たブルースピアノと相まって円熟味のある演奏が聴ける。

同LP裏面。



リットーミュージックのヴィデオGL-001『カントリー・ブルース・ギターの巨人たち』より、「カイロブルース」を演奏しているところ。オープンチューニングで、しっかりしたリズム、フィンガーピッキングによるリゾネーターギターの音と相まって、カントリーブルースマンの面目躍如といったところ。
 最初に、この「カイロブルース」を聴いたときは、エジプトに旅行にでも行った時に作った歌なのかと思った。しかし、ここで歌う「カイロ」はイリノイ州の幼少期を過ごした所だろう。アメリカの地名には、ヨーロッパからの入植した人達にちなんでイギリスやフランスの地名にnewを付けたものや、エジプトの地名を使っているものも多く、紛らわしい。例えば、ニューヨークはイングランドのヨークにちなみ、ルイジアナ州は元フランスの植民地でその名はルイ14世にちなみ、ニューオリンズはフランスのオルレアンからとっている。そして、カイロやメンフィスはエジプトの地名そのままだ。

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わたしのレコード棚ーブルース121 Joe Taggart

2021年03月04日 | わたしのレコード棚
 ギターとヴォーカルのジョー・タガートは、盲目だったのでブラインド・ジョー・タガート(Blind Joe Taggart)とも呼ばれる。この人に関しては、このブログ「わたしのレコード棚ーブルース120」のジョシュ・ホワイトの項で少し取り上げたが、事跡について分からないことが多かった。しかし、生没年などがインターネットなどでかなり分かるようになってきた。

 ウィキペディアなどによると、生まれは1892年8月16日サウスカロライナ州Abheville、亡くなったのは1961年1月15日シカゴ。チャーリー・パットンが1891年の生まれなので、同世代と言えるだろう。この人は、基本的には伝道者ーEvangelisutで、ゴスペルを主に演奏していたと考えられる。我が家には、5曲の録音があるのみで、やはりゴスペルナンバーだ。ウィキペディアには、他の芸名を使っていたということで、Blind Joe Amos、Blind Jeremiah Taylor、Blind Tim Russell、Blind Joe Donnel、などの名前が上がっている。ミュージシャンの多くは、レコード会社との契約上複数の名前を使う人が多いが、ゴスペルミュージシャンの中にも世俗的な歌とゴスペルを歌う時とで、名前を使い分けていた人も多い。


 ジョシュ・ホワイトの項で紹介したのと同じもので、AUTOGRAMのLP1003。1928年、シカゴ録音の4曲を収録。2nd-gとback-voは、この時14歳くらいだったジョシュ・ホワイト。


 オーストリアのRSTレーベルの3枚組LP、BD-01。1927年から1956年までのカントリー・ブルース系のブルース、一人(あるいは一組)1曲ずつ計60曲を収めた、オムニバスLPの名盤。選曲・編集はジョニー・パース、解説はポール・オリバー。ジョー・タガートは、1928年シカゴでの録音「Mother's Love」が入っており、上のAUTOGRAMのLPと同じ時の録音と思われる。やはりジョシュ・ホワイトが2nd-gとback-voで加わっている。

 箱(LP3枚組なので箱に入っている)の写真は、1927年にミシシッピー川が氾濫した時のものと思われる。背後は洪水により溢れた水で、中洲のようなところに取り残された人々の途方に暮れている姿を記録した、貴重で、心に残る一枚だ。この時の様子は「High Water Everywhere」としてチャーリー・パットンが歌い、ビッグ・ビル・ブルーンジーやブラウニー・マギーの「Back Water Blues」まで、様々なブルースマンが歌い継いでいる。ブルースを含め、民俗音楽としてのフォークロアミュージックは、この様な生活の内部を心情をこめて歌い演奏することに、その本質があるとわたしは考えている。


 同LP解説内にあるタガートの写真。

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「ライト」ブルース・セッション2021年3月中止

2021年03月01日 | ライブ
 1都3県の緊急事態宣言は続き、千葉のライブハウス「ライト」第一土曜恒例のブルース・セッションは3月も中止になった。

 緊急事態宣言はすでに1か月延長されており、感染者数が減少すれば、あるいは昨日までで解除になった関西のように前倒しで解除になってセッションも開催できるのではないかと期待していた。が、このところ感染者数は下げ止まり傾向で、昨日2/28は、再び増加傾向を見せている。ここ千葉では病床数も相変わらず逼迫しており、このままでは更なる緊急事態宣言の延長があるのではないか、と危惧しているところだ。
 すでに、東京などでは、かなりなライブハウスやクラブが閉店していると聞く。規模が大きく賃料がかさみ、従業員が多く、多額の給料を支払わねばならない処ほど、持続化補助金などでは持ちこたえられないようだ。わたしが知る千葉市内にあるライブハウスなどは、コロナ禍に起因する閉店の知らせは今のところ聞こえてこない。
 何とか、音楽の衰退を最小限にとどめたいものである。

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