文化逍遥。

良質な文化の紹介。

葉室麟著『草笛物語』(2017年祥伝社刊)

2018年03月30日 | 本と雑誌
 図書館から借りて読んだ本を一冊。



 昨年12月23日に66歳で亡くなった著者の、これは遺作とも云える作品になるだろう。
 内容は、直木賞受賞作の『蜩の記』の続編で、著者の出身地である九州に設定した羽根(うね)藩シリーズの完結作となる作品。比べてはいけないのかもしれないが、やはり藤沢周平の海坂(うなさか)藩を舞台とした作品群がどうしても頭に浮かぶ。話に引き込む力では、勝るとも劣らない。が、人物の心象風景の描写に今ひとつもの足りなさを感じざるを得なかった。66歳という年齢は、今では若くして亡くなった、と言えるだろう。仕事をし過ぎたのだろうか。もう少し長く生きて、深みのある作品を残して欲しかった。残念だ。ご冥福をお祈りしたい。

 余談だが、わたしも長くフリーランスで仕事をしてきて、依頼されたものを断る怖さは身に沁みて分かっている。実際に、依頼された仕事があまりに遠かったために断らざるを得なかったことがあり、その後にはペナルティーとして暫く仕事を回してもらえなかったこともあった。横暴といえばそうなのだが、仕事を握っている方が圧倒的に力が上であり、下は耐えるしかないのが資本主義社会の法則なのだ。それを逆手に取る方法も無いことはない。水面下で仕事を依頼してくれる取引先を増やしておけばよいのだ。言うは易く行うのは簡単ではないが、その不安定さを楽しむ位の気持ちで事に臨めばけっこう生き延びていける。まあ、わたしの場合は巡り合わせが良かった、とも言える。仮に今だったら、そう楽観していられないだろう。それでも、無理に仕事を受けて体を壊しては元も子もない。実際に、何人かの仕事仲間が若くして体を壊し、その内の何人かは命を落としている。その中には、わたしよりも若い人が数人いた。気持ちを落ち着けて、やれることをしっかりやっていきたい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年アメリカ映画『Lucky(ラッキー)』

2018年03月26日 | 映画
 3/23(金)、千葉劇場にて。監督は、ジョン・キャロル・リンチ。





 結婚をしたことも無く、今は一人で南部の田舎町の安アパートに暮らすラッキーとあだ名される90歳の老人。彼は、心配する周囲に向かい「俺は一人(alone)だが、孤独(lonesome)ではない」と言い切る。そんな老人の、死に近づいた日々を切り取り映像化した佳作。
 監督のリンチは、脇役としてアメリカ映画界を支えてきた人で、これが初監督作品という。主演は、ハリー・ディーン・スタントン。この映画の撮影後、2017年9月に亡くなっている。どうも、この作品は監督が私財を投じて作った様な気がする。低予算だが、セリフが生きていて、俳優たちの演技も自然で作為がない。昨年9月に観た『パターソン』もそうだったが、こういう作品を観るとアメリカ映画も捨てたもんじゃない、とも思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京国立博物館

2018年03月22日 | 考古・エッセイ
 3/17(土)、上野の国立博物館へ行ってきた。国立博物館は各地にあるので、ここは東京国立博物館を略して「トーハク」と呼ばれている。本館自体も重要文化財だが、内部はかなり改装が進んで、展示ケースや照明にかなり工夫がみられる。特に本館1階は、LED照明に換わり、全体に明るくなった感じだ。LEDの方が、展示物に影響が少ないのだろうか。博物館は、後世に貴重な文化財を残すのも大切な責務だ。展示替えの時などは、さぞ気を使うことだろう。オッチョコチョイのわたしなどは、とてもじゃないが務まりそうにないなあ。

 5/13まで「アラビアの道」という、サウジアラビア王国の所蔵する宝物が特別展として表慶館で展示されている。




こちらは、人が多くて落ち着いて見ていられなかった。なので、早々に切り上げて、平成館1階の日本の考古特別展に移動。

 特に、今回展示されている群馬県伊勢崎市豊城町横塚出土の盛装女子埴輪が見たかった。古墳時代・6世紀ころのもの。埴輪の目をじっと見ていると、モジリアニの絵を見ているような気になるから不思議だ。館内は写真撮影が出来ないので、内部の映像が無いのは残念だが、ここの考古展示室は本当に充実している。全国の貴重な出土品が一堂に集まっているのを見られるのだから贅沢なものだ。


これは、7月3日から始まる「縄文特別展」のリーフレット。ここに写っているのは、東京国立博物館が所蔵している青森県つがる市出土の「遮光器土偶」と呼ばれるもので、実物の大きさは20センチ位だろうか、この日も見ることが出来た。目がアラスカの先住民などが使う遮光器を付けた様子に似ているので、こう呼ばれているが、実際にこの土偶が遮光器を付けたものかは不詳。おそらく、デフォルメされた象形なのではないだろうか。この土偶も他の多くのものと同じく、体の一部がない。この土偶の場合は左足が無いのだが、出来上がった時から欠けていると思われるものも多いらしい。焼成の段階で割れたのか、故意に欠いたのかは推測するしかない。あるいは他の理由で失われたものか。有力な説として、悪いところを土偶に移して祓い回復を祈った「形代(かたしろ)」とした、というものがある。そう考えると、お腹の大きい女性像などは、出産で亡くなった子どもか妊婦を想い作られた様な気もしてくる。いずれにしろ、現代人には遠くなってしまった「祈り」の心が土偶には込められたいる。あらためて、それを強く感じた次第だ。


博物館裏にある庭園の桜。携帯で撮影。この日は、東京でも桜の開花発表があった。普段は入れないが、この時期だけ解放されている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年アメリカ映画『ゲット・アウト』

2018年03月19日 | 映画
 3/15(木)、千葉劇場にて。監督・脚本はジョーダン・ピールという人で、アメリカではお笑コンビ“キー&ピール”で活躍する人気コメディアンだという。この作品で、初めてメガホンを取ったとのこと。



 リーフレットに「サプライズ・スリラー」とあるが、実際に観ていてドキドキするシーンが多く、恐い話ながらも楽しめる作品。あまり詳しい内容を書いてしまうと「ネタばらし」になってしまうので、少しだけにしよう。ニューヨークに暮らす黒人写真家のクリスは、5か月前に知り合った白人の恋人の田舎町にある実家で週末を過ごすことになる。着いたところは隣家も見えない瀟洒な建物で、歓待を受ける。しかし、そこは黒人ばかりを狙い拉致監禁することを目的とした場所で、地下室にはある手術を行うための設備があり・・・。

 信じていた恋人が実は黒人の体を得るためにを近づいてきたしたたかなハンターだった、というそれだけでも恐い話。
 
 まだ記憶に新しいが、千葉大生が埼玉県の女子中学生を拉致し、その後2年間も千葉大の裏門近くのアパートに監禁する、という信じがたい事件が起きた。少女の監禁されていたアパートは、我が家から歩いて15分程の所だ。現実にそのような事件があり、自分も巻き込まれる可能性があると思うと、この映画の話も「架空」では済まない。劇場から出て、外の空気を吸った時にはホっとした。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥野修司著『魂でもいいから、そばにいて』(2017年新潮社刊)

2018年03月16日 | 本と雑誌
 東日本大震災から7年。この時期はテレビやラジオなどでも特集番組が組まれるが、今年は関連した本を図書館から借りてゆっくり読むことにした。読んだのは、ノンフィクション作家のルポとも言える著作で、副題には「3.11後の霊体験を聞く」とある。



 東北は、『遠野物語』の地であり、また、恐山のイタコに代表される「巫(シャーマン)」の伝統が残る所でもある。この本は、そんな東北の地(主に宮城・岩手)で被災し、「お知らせ」や「お迎え」という不思議な体験をした人達の話がまとめられている。人は極限状態の中で、合理的な説明が出来ない体験をすることも時にはあるだろう。しかし、それは一方でカルトなどを生じさせる危険性を含んでいる。そのことを踏まえた上で読みたい著作とも思う。また、著者によるとこの本は、宮城県で2千人以上を看取った岡部健医師の勧めで書かれたものというが、その岡部医師が興味深いことを語っているので引用しておく。「人間が持つ内的自然というか、集合的無意識の力を度外視してはいかんということだよ。それが人間の宗教性になり、文化文明を広げていったんじゃないかね」(P13)。おそらく、著者もこのような視点でインタビューをする気になったのではないかと推測している。取材は、震災の2年後から3年半程の期間をかけて行われたという。
 大切な人を亡くした方達の「想い」が伝わってきて泣ける話も多かったが、一方で他の被災者から心無い言動を受けた人も多数いたことも実感させられた。甚大な災害は、必ず襲ってくる。その時、生き残った者はどの様な心構えでそれに臨むべきなのか、考えてみる契機になる本である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年フランス、ドイツ、オーストリア映画『ハッピーエンド』

2018年03月12日 | 映画
 3/9(金)、千葉劇場にて。原題『Happy End』。監督・脚本は、ミヒャエル・ハネケ。フランス語の映画だが、かなり英語が混じる。





 
 社会的地位もあり経済的にも裕福なある家族の模様を描いた作品で、特段のストーリーは無い。社会という「共同幻想」の中に生きているという事実と、それに抗おうとする強い欲望を持った「自我」。それらの狭間で、自我に内在する力は時に自らに、時に他者への「死」に向かう。そこに生じる軋轢と生きているという「現実」。映像は、それらを交錯させて追い続ける。かなり抽象的な映画で、監督は観る者の想像力を喚起させ解釈を任せているかのようだ。

 ラストシーンで、孫娘の少女に車椅子を押させた老人は、そのまま海に入って死のうとする。少女は、それをスマートフォンで撮影している。その日は老人の娘の再婚パーティーで、皆正装している。参集した人達の建前の笑顔の中で、けっして笑うことの無い老人と少女は「死」を身辺に引き寄せようとしている。が、老人の子ども達に気付かれて・・・映画はそこで終わる。ここでも監督は、「ハッピーエンド」の意味を観客に解釈させようとしているのか・・。

 リーフレットに「2017年カンヌのコンペティション部門で上映されるやいなや、賛否両論が巻き起こった。」とあるが、わたしは良い映画だな、と思った。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚―ブルース48、William Harris&Walter “Buddy Boy” Hawkins

2018年03月09日 | わたしのレコード棚
 今回取り上げるウィリアム・ハリス(William Harris)とウォルター・ホーキンス(Walter Hawkins)の二人は、共に詳しい事績や生没年は分かっていない。しかし、1920年代にミシシッピーの南部などでメディシンショーや黒人ミンストレルズショーなどで演奏したミュージシャンではないか、と云われている。ちなみに、メディシンショーとは、あえてたとえれば「ガマの油売り」に近いようなもので、人集めのためにミュージシャンなどの芸人を使い薬を販売したもの。中には、かなりいかがわしい薬もあったらしい。ミンストレルズは、本来は白人が顔を黒く塗って黒人に扮して歌ったり踊ったりしたショーだが、時に黒人も雇われることがあったという。
 録音を聴くと、ウィリアム・ハリスはリズムが安定していて、いかにもダンスのバックで演奏していたように感じられる。また、ウォルター・ホーキンスは叙情性が強く、語りかけるような歌い方でフォークソングに近い感じだ。二人ともギターの高いところにカポを付けていたようで、マンドリンの様な音色を出している。


DOCUMENTレーベルのCD5035。1927年から1929年にかけて、ウィリアム・ハリスの9曲とウォルター・ホーキンスの12曲を収録。二人の残した録音は、これで全てらしい。ただしCDの解説書によると、ウィリアム・ハリスに関しては、(レコード会社の記録上では)あと5曲の録音があるが未発見、とある。この手のCDは、コレクターが持っている78回転のSP盤から録音しているので、時にそのようなこともある。

 二人とも高度なテクニックを持っているわけではないが、しっかりしたリズムと良く通る声、さらに脚韻を踏んだ詩を歌いこなしている。ブルースギターというと、日本では後のロックミュージックやフィンガーピッキングに繋がるテクニックばかりが取り上げられて、ブルースマン達が全体に表現しようとしたところはあまり考慮されていないような気がする。テクニックはもちろん大切で、かく言う自分も伝統的ブルースギター奏法に基づいて詞を載せる様な事をしてきた。が、そうする中で、歌に込められた想いやトーンの深さなど、ブルースマンからすればそれこそが大切と思われる魂の部分が抜け落ちてしまうことがないか、十分に注意する必要がある。受け継ぐべきものを忘れて技術だけを取りだす、自戒を込め、そのようなことの無いようにしたいものだ。この二人の録音を聴いていて、そんなことを感じた。
 この稿を書くにあたり、ウィリアム・ハリスの「Kansas City Blues」(オリジナルはジム・ジャクソン)をコピーしてみた。が、ハリスのようにしっかりしたリズムを最後までキープすることは困難だった。優れたミュージシャンでも、演奏しているうちにわずかにリズムが流れて行ってしまうものだ。ハリスはタメの効いたリズムをキープできる稀有な存在、と言えるだろう。また、そこに、ダンス・ミュージックを支え続けた演奏家の底力を感じざるを得なかった。


HERWINというレーベルから出ていたLP214。ウィリアム・ハリスの1927年録音、8曲を収録。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本譲司著『累犯障害者ー獄の中の不条理』(2006年新潮社刊)

2018年03月05日 | 本と雑誌
 2/24(土)に放映されたNHKのETV特集「居場所があれば立ち直れる~累犯障害者、社会で生きるために~」の中で長崎県地域生活支援センター長を務める伊豆丸さんという方が影響を受けたとのことで紹介していた本で、読んでみたくなり図書館から借りてきた。



 著者は元衆議院議員で、政策秘書給与の流用事件を起こして2001年2月に実刑判決を受け、433日間の獄中生活を送った人。この本は、刑務所の中で出会った障害者達の姿と、出所後に社会の中で障害者達が繰り返し犯罪に走る実態を調査した労作。驚くべき内容だが、中には思わず吹き出してしまうところもあり、読み飽きない内容になっている。

 それにしても、この本やETV特集を見ると、社会的弱者の置かれた現実は想像以上に厳しい、のだと実感させられた。本の序章に、2004年の『矯正統計年報』による統計が引用されている。それによると、知的障害のある受刑者の七割以上が刑務所への再入所者、だという。14年ほど前の統計だが、今は改善しているのだろうか。ITの普及とともに必要とされない人間が増えて、ますます悪い方向に向かっているのではないか、という懸念は杞憂だろうか。
 ETV特集の標題を逆に読めば「居場所がないので立ち直れない累犯障害者」となるだろう。現実から目をそらさず、しっかりと認識していくことから始めたい。そして、さきの長崎県地域生活支援センター長のように、人知れず社会的弱者のために献身的に働いている方が確かにいることも忘れずにいたい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2013年ジョージア(グルジア)映画『花咲くころ』

2018年03月01日 | 映画
 2/27(火)、神保町岩波ホールにて。英題は『In Bloom』。ナナ・エクフティミシュヴィリ、ジモン・グロス共同監督。脚本ナナ・エクフティミシュヴィリ。





 1992年春、旧ソ連から独立後に生じた内戦の混乱が収まらないジョージア(グルジア)の首都トビリシ。14歳の少女エカ(リカ・バブルアニ)の目を通して見た、不条理と無気力がはびこる世界を映像化した秀作。特に、略奪婚によって結婚させられた友人ナティア(マリアム・ボケリア)の結婚式で、エカの踊るシーンは秀逸だった。

 このところ、いつものことだが、岩波ホールは空いていた。3割程の入りだった。特に、若い人の姿がほとんど見当たらない。このままでは、存続が危ういのではないか、と感じた。岩波ブックセンターはすでに無く、その上岩波ホールまでが無くなったら神田周辺は火が消えたようになってしまう。それも時代の流れ、と言ってしまえばそれまでだが、次代に繋げるべき文化を継承する場が無くなってしまうのは人格形成にとって危機的状況と言わざるを得ない。スマートフォンの普及などITで、それが代替できるのだろうか・・・。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする