ブラインド・ジョー・レイノルズ(Blind Joe Reynolds)。生年は資料によりまちまちで、1904年あるいは1905年としているものが多く、生誕地はルイジアナ州だったらしい。ただしウィキペディアによると、死亡確認書には1900年アーカンソー州生まれとなっている、とある。亡くなったのは、1968年3月10日で、ルイジアナ州だったらしい。
録音は、確認できる記録によると、1929年頃にウィスコンシン州グラフトンで8曲をパラマウントに、1930年にメンフィスで4曲をヴィクターに入れている。レコード会社が異なるためか、ヴィクターへはブラインド・ウィリー・レイノルズ(Blind Willie Reynolds)という名前で入れている。本名は、ジョー・シェパード(Joe Sheppard)とも言われる。レコード会社でお蔵入りになっている曲もあり、我が家にある音源は、この内の4曲だけだ。
この人の「Outside Woman Blues」という曲は下のLPにも入っているが、それを1960年代にエリック・クラプトンがいたバンド「クリーム」がカヴァーしている。なので、ロックファンにも多少馴染みがあるようだ。皮肉なことに、クリームが解散した1968年頃まで、レイノルズは放浪しつつ路上で演奏して日銭を稼ぐ生活をしていたと言われている。「再発見」されることもなく、自分の曲が世界的なロックバンドにコピーされていることも知らず、その1968年に亡くなっているのだった。
HERWINレーベルのLP214。3人のブルースマンの1927-1931年の録音を集めたオムニバスLP。レイノルズは、グラフトンとメンフィスでの録音から2曲ずつを収録。LPタイトルは『Delta Blues Heavy Hitters』となっているが、実際にレイノルズの活動したのはルイジアナ州やアーカンソー州だった。ぺグレグ・ハウエルにも通ずる独特のリズム感覚を持ったスライド奏法(おそらくナイフ)のギターを弾き、力強いヴォーカルと相俟って、深南部のストリートで演奏して生活していた盲目のブルースマンの様子を今に伝えている。
録音は、確認できる記録によると、1929年頃にウィスコンシン州グラフトンで8曲をパラマウントに、1930年にメンフィスで4曲をヴィクターに入れている。レコード会社が異なるためか、ヴィクターへはブラインド・ウィリー・レイノルズ(Blind Willie Reynolds)という名前で入れている。本名は、ジョー・シェパード(Joe Sheppard)とも言われる。レコード会社でお蔵入りになっている曲もあり、我が家にある音源は、この内の4曲だけだ。
この人の「Outside Woman Blues」という曲は下のLPにも入っているが、それを1960年代にエリック・クラプトンがいたバンド「クリーム」がカヴァーしている。なので、ロックファンにも多少馴染みがあるようだ。皮肉なことに、クリームが解散した1968年頃まで、レイノルズは放浪しつつ路上で演奏して日銭を稼ぐ生活をしていたと言われている。「再発見」されることもなく、自分の曲が世界的なロックバンドにコピーされていることも知らず、その1968年に亡くなっているのだった。
HERWINレーベルのLP214。3人のブルースマンの1927-1931年の録音を集めたオムニバスLP。レイノルズは、グラフトンとメンフィスでの録音から2曲ずつを収録。LPタイトルは『Delta Blues Heavy Hitters』となっているが、実際にレイノルズの活動したのはルイジアナ州やアーカンソー州だった。ぺグレグ・ハウエルにも通ずる独特のリズム感覚を持ったスライド奏法(おそらくナイフ)のギターを弾き、力強いヴォーカルと相俟って、深南部のストリートで演奏して生活していた盲目のブルースマンの様子を今に伝えている。