文化逍遥。

良質な文化の紹介。

年度末

2016年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
 3月も今日で終わる。4月から新年度のスタートだ。文書情報管理士の仕事をしている時には官公庁の仕事が多かったので、年度の変わり目がひとつの区切りだったが、今は特に変化も無く淡々と過ごしている。過不足なく自立した一人暮らしで、身の回りの事が収まっていればそれでいいだろう。それだけでも、けっこうやることがある。掃除に洗濯、食事の支度に後片付け。「身を保つ」というほどのことでもないが、身の回りのことは死ぬまで自分でこなしたい。音楽もまた終わりの無い作業、と言えるが、最後まで倦むこと無く続けていきたい。

 しかし、27日に明らかになった千葉大生の少女監禁事件には驚いた。千葉で監禁されていたアパートは、我が家から歩いて15分ほどのところだ。隣町への買い物などで自転車に乗っていく時には通りがかったところで、通りを隔てて少し行った所に千葉大の裏門があり、周辺にはアパートや住宅が多い。人の往来も多く、けっして淋しい所ではない。むしろ、誰にも気づかれずに2年もの間中学生の少女が閉じ込められていたとは俄かには信じがたい所でもある。容疑者は千葉大工学部で学び、ゼミなどにも参加していたという。そんな境遇にいたのに、なぜこんなことをしたのだろうか・・・疑問は尽きない。私のような凡人には及びもつかない「心の闇」を抱えていたのだろうか。いずれにしろ今後の容疑者の供述を待ち、事の真実、そしてその背景にあるものを考えてみる必要があるだろう。

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フランク・C・テイラー著、ヤンソン由美子訳、『人生を三度生きた女』1993.筑摩書房刊

2016年03月25日 | 本と雑誌
 新居に移ってからは置き場所がないので本は極力買わないようにしているが、どうしても手元に置いておきたくなるようなものは買わざるを得ない。というわけで、行きつけの古本店「ムーンライト・ブックストア」で見つけて買い求めたのが今回紹介する本だ。



副題に『“魂のブルース”アルバータ・ハンターの生涯』とある。日本で訳本が出たのは1993年だが、原書は『[ALBERTA HUNTER -A Celebration in Blues]by Frank C.Taylor with Gerald Cook』として1987年にニューヨークで出版されているので、すでに30年近くが経っていることになる。アルバータ・ハンターは、1895年メンフィス生まれで主にシカゴやニューヨークのショービジネスで活躍した人。「クラッシック・ブルース」と言われているが、わたしはそちらの方には疎くて、あまり聞きこんでいないし、音源も少ない。アルバータ・ハンターの録音も、我が家には5曲あるのみ。


DOCUMENTレーベルから出ているCD[Classic Blues,Jazz & Vaudeville Singers]。左端の横を向いている人がハンター。このなかには、1曲だけ1923年ニューヨークでの録音「Down South Blues」が入っている。

「ショービジネス」と言われるくらいで、歌だけでなく、踊りやボードビルの要素をふんだんに盛り込んだステージをこなして、客に楽しんでもらうエンターテナーを勤めることで糧を得ていた人なのだろう。他にクラシック・ブルースでは、日本で名の知られているところではベッシー・スミスくらいだろか。いずれもレコードは残してはいるものの、やはり録音だけではその本当の実力というか実際のパフォーマンスを窺い知るのは困難だ。というわけで、「クラッシック・ブルース」歌手達については、あまり知るところではなかったが、今回この本を読んで戦前から戦後に至るアメリカ都市部における黒人女性歌手の実態を多少なりとも知ることが出来たような気がする。

 なにより、驚いたのはハンター個人の激烈とも言える生涯だ。12歳から歌い始め、母の死以降は年齢を誤魔化して60歳で看護婦になり、82歳でカムバックして89歳で亡くなる少し前まで歌い続けている。すごい人がいたもんだ。本の中では、誇張や美化しているところもあるかもしれないが、それにしても「自分もがんばらなくちゃ」、という気になる。

 著者は、ジャーナリスト。ジェラルド・クックという協力者はハンターの晩年7年間ピアノ伴奏を務めた音楽家。本自体は、歌手やクラブなどの固有名詞が多く、音楽に興味が薄い人には読み進めることが辛いかもしれないが、戦前から戦後に生きた黒人女性の伝記としても読むに値する本と思われる。

下のLPは、1961年8月に録音されたもので、写真中央でなぜかトロンボーンを持っているのがハンター。


収録されているのは、「You Gotta Reap Just What You sow(自分でまいた種は自分で刈りな)」他3曲。数少ない看護婦時代の録音だ。

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大津秀一著『死学』

2016年03月20日 | 本と雑誌
 まもなく母の三回忌をむかえることもあり、終末期医療に関する本を図書館から借りてきて何冊か読んだ。
 標題本の著者の大津秀一氏はホスピスに勤務する医師で、多くの「死」に接してきた緩和医療の専門家。他に同じ著者では、『感動を与えて逝った12人の物語』、『すべて、患者さんが教えてくれた終末期医療のこと』、などを読んだ。

 約二年前に自宅で母を看取ったが、今も「あれで良かったのだろうか」と思うことがある。副作用が顕著になってきた抗生剤による治療を止め、延命措置をせずにそのまま看取ることにしたが、それで良かったのか、あるいは1分1秒でも長く生きるため人工栄養や人工呼吸器を装着しての延命をはかるべきではなかったのか。実際、意志の疎通が不可能になった患者の家族の中には、ひたすら延命を望む人もいる、と本の中では語られている。医師の立場としては、たとえ患者の苦しみが続くだけで無意味だと思っても、家族が望む措置を講ずる他は無いらしい。これは、正解の無い問題とも言える。厚生労働省などで明確なガイドラインを示してくれればそれに沿った医療が施されるのだろうが、現実的には患者・家族の意向は様々でそれを無視することは困難だろう。なので家族任せ、時には医者任せになっている。仮に、死に臨んで救急車を呼べば、どんな年寄りであろうと必ず救命措置を講ずることになる。したがって、延命措置を望まない場合は、救急車を呼ばないよう周囲の人に頼んでおく必要もある。

 人は必ず死ぬ。今は元気な人でも、明日か、ずっと先か、いつかは誰にもわからないが100%死ぬ。いつ、その時が来ても良いように、忌避せず身近な人と互いの終末期の医療について話し合い、場合によっては文書にして残しておく必要があるだろう。本の中に「延命治療拒否願」というサンプルがあったので、それを貼り付けておく。「拒否願」となっているが、実際には「延命治療確認書」とでも言うべき文書だ。



わたしは、残された者が判断に苦しまぬように、すでにコピーして必要なところに丸をし署名捺印しておいた。


2016/06/08追記―その後、他の書籍により、2012年6月に厚労省の研究事業に対する応募という形で日本老年学会が作成したガイドラインがあることがわかった。『高齢者ケアの意志決定プロセスに関するガイドライン―人工的水分・栄養補給の導入を中心として』というもので、それによると「・・・全体として延命がQOL保持と両立しない場合には、医学的介入は延命ではなくQOLを優先する。」とある。つまり、やたらと延命策を講ずるよりも自立したより良い生活を重視すべき、ということだろう。このガイドラインは、元より法的拘束力は無く医療の現場でも周知されているか疑問だが、終末期医療・ケアに関わる人達は、患者や家族に説明する時にこのようなガイドラインがあること、その内容を説明するようにして貰いたいものである。

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花粉の季節

2016年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム
 彼岸も近く、日差しが春めいてきた。良い気候だが、今年も花粉が多く飛散していて花粉症の身としては辛い季節でもある。
 こうなると外出時にはマスクが欠かせず、シーツ・枕カバーなどの洗濯物や布団などの寝具類は外に干せない。英語の[spring]のように、本来なら外に出て「飛び跳ねる」ように活動したいところだが、どうしても外で過ごすのを避けたくなる。自転車で墓参に行く時は往復約1時間走るので、ハイキングに行く時のような帽子に大きいマスク、さらにメガネなどをかけて重装備で出かける。顔が判別できなくなるような格好なので、2度ほど黒バイのお巡りさんに後を付けられたことがある。円が高かった頃に、墓のステンレス製の花立てが多く盗難にあったことがあり、霊園の近くを警戒していたこともあったらしい。職務質問までには至らなかったが、あまり気持の良いものではない。が、最近はそれも少なくなった。

 まもなく母の三回忌をむかえる、花粉に負けずに、少しずつ活動的な日々に戻していきたい。

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震災から5年

2016年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム
 東日本大震災から5年になる。
 震災関連死を含めると21000人の方が亡くなっている。岩手・宮城・福島の東北3県の被害が甚大だったために見落とされがちだが、茨城県や千葉県の太平洋側にも最大で7メートルを超える津波が押し寄せた。ここ千葉県でも旭市では死者・行方不明合わせて16人。浦安市などでは液状化の被害が大きかったし、千葉市でも沿岸地域やかつての湿地帯で液状化による家屋への影響が出た。
 旭市へは、以前短期間だが仕事で通っていたことがある。つまり、その時に津波が来ていれば自分も飲み込まれたかもしれなかったわけだし、助かったとしても帰宅できなくなっていただろう。それは、交通機関がマヒした東京にいても同じだった。実際、あの日わたしは東京の本郷で午前中まで仕事をしており、荷物が多かった為に早めに帰路につき、地震の40分まえに帰宅していたのは全くの偶然だった。

 5年前、今は亡くなった母はまだ存命しており、寝たきりの状態だった。テレビなどで追悼番組を見ていると、今も自問する。「仮にあの時、津波か原発事故により避難命令が出て、命の危険が迫り、各々で逃げねばならない状態になっていたとしたら、自分は母を残して逃げられただろうか」、と。
 助かるためには自分ひとりで逃げるしかないかもしれない。あるいは、それが生存の厳しさ、というものなのかもしれない。しかし、それをしていたら自分は今普通に生活を続けていけているだろうか。おいしく食べて、ゆっくり眠る、そんなあたりまえの生活が送れているとは思えない。実際、身近な人を助けようとして亡くなった人も多いと聞く。残されたものは、その苦しみを負っているだろう。今もって多くの人(17万人ともいわれる)が生活基盤を失ったままで、被災者が被災者を援助している状態に近い所も多い。最低でも、福島の原発が完全に廃炉になり、誰しもが安全と言えるまでに終息しなければ、この震災は終わらない。

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船橋での話芸公演

2016年03月08日 | 落語
 3/5(土)、船橋市民文化ホールでの『ザ・忠臣蔵ナイト』を聴いた。



 江戸城内での刃傷事件があったのが元禄14(1701)年3月14日だったということで、この時期に忠臣蔵に因んだ演目を選び、刃傷―切腹―討ち入りの順になるような演目で口演を開催したようだ。女義太夫は「殿中刃傷の段」、落語は柳亭市馬の「淀五郎」、中入り後は漫才のナイツをはさんで、講談は神田松鯉の「大高源吾」。 落語も講談も、寄席では普段持ち時間が15分程、最後を務める真打ちでも30分ほどで、なかなかこの日のような大ネタを長演で聴けない。しかも、当代の落語界・講談界を代表する二人の大ネタをじっくり聴けたのはファンとしては何よりな夜だった。

 この日の義太夫は人形浄瑠璃ではなく素の語りで、そうなると内容がなかなか理解できない。言葉使いや笑い声・泣き声などオノマトペが不自然で、正直言って、何言ってるのかよくわからない。入場時に配られたプログラムには脚本が入っていたが、会場は暗いし読んでも居られない。現代語に直せ、とは言わないが、もう少し聞く者に理解しやすい工夫をする必要があるのではないだろうか。
 落語の「淀五郎」。この話は数ある人情噺の中でもよほどの力量が無ければ出来ない大ネタだ。この日の市馬師匠は40分程の長演を無理なくこなして良い出来だった。惜しむらくは、中村仲蔵が淀五郎を諭すところが少し軽かった気もする。そこは、厳しい指導の中でも「苦労人のやさしさ」が滲み出るところで、この噺のひとつの山場。ファンとしての期待と共に、これからの楽しみにしておきたい。
 ナイツは二人とも千葉県に縁があるということで、硬い話の合間の息抜き的な役割出演、といったところか。これがけっこう難しい役割で、それを難なくこなして、自然な話しぶりはすでにベテランの域に達しているように感じた。とにかく、間がいい。間合いだけで笑いを取れる話芸は、漫才の本流と言えるだろう。二人とも38歳という若さで、これからも元気に、末長く活躍してもらいたい。
 最後の神田松鯉。この人の聴衆を引きつける力は群を抜いている。ホール後方に座っていたので、客が話に引き込まれ背もたれから身を起こして前傾姿勢になるのが良く見えた。現存する講談師の中では、私の聴いている限り、トップと感じる。

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津田沼の楽器店

2016年03月06日 | 楽器・エッセイ
 昨日3/5(土)船橋に話芸を聴きに行ったので、電車で行く途中の津田沼で降りて、久々に石橋楽器や丸善書店に寄ってみた。
丸善は相変わらずだったが、驚くほど変わっていたのは石橋楽器。売り場面積を縮小して、展示してある楽器はほとんどが中古商品になっていた。もちろん、弦やパーツなどは新品だが、ギターやベースなどは基本オールドになっていた。それでも、見た目は新しいし種類も豊富で、一見しただけでは中古楽器を展示してあるようには見えない。あまり使わずに売ってしまう人が多い、ということだろうか。「買ったけれど使わないので売れるものなら売ってしまおう」とか、「グレードアップするのに下取りに出そう」といった感じだろうか。それは、少しさみしい気もするなあ。逆に、使い込んだ楽器は愛着があって使わなくなっても手放す気にはなれないし、弾いた時に生ずるキズなどもあるだろうから買い取り価格も低いだろうし、結果売らないということにもなろうか。

 いずれにしろプレーヤーにとっては、たとえ中古であろうと良質の楽器が安く買えるのはありがたい。反面、そうなると楽器製作者の収入が減少して全体に楽器制作技術が継承されなくなってしまう心配もある。

 千葉市内も以前は、新星堂や山野楽器さらに島村楽器が2店舗など、大型の楽器店が少なからず存在していた。が、今は千葉パルコの中に島村楽器が一店残るのみだ。そのパルコも今年11月には撤退予定で、島村は別の場所に移転すべく引っ越し先を探しているという。どうなる事やら。インターネットの時代になって、街の商店が少なくなるのもある程度は仕方ない。が、楽器などは、どうしたって自分の手で弾いてから買いたいものだ。ネットで買って自分に合わないからと、売り払う人も多いのだろうか。クーリングオフ制度は「訪問販売」に適用されるが、「通信販売」には適用されない。返品できないなら売ちゃおう・・・そうだとしたら、安易、と言わざるを得ない。
 そう言えば、以前は成田の駅から歩いて行けた大型楽器店「サウンドハウス」。ギター仲間と共にショールームを訪れたこともあったが、今は車が無いと行けないところに移転してしまった。安いことは安いが、パーツ以外はネット通販を使う気にはならない。

 船橋での話芸の公演については、ページを改めて書くことにする。

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菜の花

2016年03月04日 | 日記・エッセイ・コラム
 3月に入り、スーパーに食用の「菜の花」が並ぶようになってきた。
ここ千葉県の花とされている菜の花だが、我が家では習慣として食べた記憶が無い。あえ物やおひたしにして食されることが多いようだが、独特の香りや苦みがあるので、個人的にはあまり好きではなかった。もともとは菜、つまりはおかずにする花ということらしいが、冬でも南房総では菜の花が咲くので見て楽しむものと思っていた。でもまあ、たまには季節の野菜ということで食べてみるか、と購入。ためしに味噌汁の具にしてみたら、けっこうおいしかった。最近は品種の改良が進んだのが、以前のように香りも苦みも強すぎず、ほうれん草と同じように食べられる。
 最近は季節感が薄れてしまったが、自炊するようになって、店頭に並ぶ旬の食材には目を留めるようになってきた。ひとり暮らしの副産物。食材の事を考えながら、ひとりで食事を摂るのもそれほど悪くは無い。むしろ、話をしながら食事をするより味に敏感になるような気がしている。

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